A・W・フラハティ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」 

  ランダムハウス講談社 2006年2月1日初版
  
 音楽や文学といった高次(?)機能をあつかう進化生物学が最近盛んになってきているので、その方向からの書かれた「音楽する脳」と類似の本かと思って読んだのだけれど、全然そうではなかった。元々しゃべるのと違って、書くという行為は人類の歴史において起源が新しいから、進化的に説明することは困難である。だから、音楽には生存価があるといった究極要因的な方向の議論は「書く」の場合には難しい。そういうわけで、本書は、われわれはなぜ書くことをするのかという、文学的とも言える問いに取り組んだ風変わりな本になっている。
 著者は女性の神経科医。本書は、書くことの脳の関係を論じるだけでなく、自身の経験についても滔滔と論じた本でもあるという、科学啓蒙書としてはきわめて異例の構成の本となっている。
 著者は、自身の出産後(しかも双子の早産死)の気分障害(躁病あるいは躁鬱病?)の症状としてハイパーグラフィア(とにかく何かを書かずにはいられない状態)を経験している。分娩後のうつ病は珍しくなく、分娩後の躁鬱病もないことはないわけだから、自身の経験だけなら一冊の本とするには足りない。
 本書は、著者自身が経験した書かずにはいられないという症状と、その対としてあるライターズ・ブロック(書けなくなる状態)を考察したものであるが、本書を書こうとすること自体が自身のハイパーグラフィアの症状なのではないかという自己省察をも含んでいるという点で、きわめて文学的(?)な本なのである。
 医者(科学者)である自分と、患者(書きたい人)である自分という双方からの視点をふくんでいる。それがうまく融合して相乗効果を生んでいるか、虻蜂取らずになっているかは評価のわかれる点であろう。
 そういう構成であるから、書くという行為と脳のかかわりについての客観的・一般的な考察という面を放棄している部分がある。したがって、この問題についての一般論を知りたい人が手にすると、面食らうであろうと思う部分を多く含んでいる。逆に、わたくしのような科学と文学に等分に興味をもつ人間にとっては、さまざま面白い論点をふくむ本でもあった。
 著者は出産後の躁状態でハイパーグラフィア状態となったわけであるが、その治療の投薬によりライターズ・ブロックとなってしまう。ここにすでに精神疾患と創造の関係、治療による創造性の消失という問題が提示される。これは近年の向精神薬が人の精神状態を容易に変容しうるようになっていることの可否という一般的な大問題とも繋がる。
 ドストエフスキーが側頭葉てんかんだったことはよく知られている。そのように、ハイパーグラフィアの原因として一番よく知られているのが側頭葉てんかんである(発作と発作の間にそうなる)。
 側頭葉てんかんの患者の中でゲシュウィンド症候群と呼ばれる範疇がある。1)ハイパーグラフィア、2)宗教に傾斜する感情、3)感情の激しい起伏、4)セクシャリティの変化(通常減退)、5)過剰なおせっかい、といった兆候を充たす。ドストエフスキーは典型である。
 ルイス・キャロルも側頭葉てんかんだったのではないかと思われている(生涯で10万通に近い手紙を書いている)。「不思議の国」でアリスが大きくなったり小さくなったりするのもてんかんの症状でもある。ほかに、フロベール、ポー、バイロンモーパッサンモリエールパスカル、ペトラルカ、ダンテなども側頭葉てんかんだったのはないかと疑われている。
 躁鬱病と側頭葉てんかんはハイパーグラフィア以外にも、強い宗教心、セクシャリティの変化といいた共通の症状を持つ。
 躁鬱病の作家はきわめて多い。作家は一般人に比べ躁鬱病の発症率が10倍高く、詩人では40倍である。
 ウエルニッケタイプの失語症躁鬱病や側頭葉てんかんと似た特徴を持つ。統合失調症もまたハイパーグラフィアをおこすことがある。
 ある種の薬物もまたハイパーグラフィア効果をもつ。スティーブンソンの「ジギル博士とハイド氏」はコカイン・ハイの状態で6日で書かれたとされる。
 それなら、これらの創造は病理なのだろうか? 一般的に個性とは病理なのだろうか?
 著者は産後の感情障害を経験するまでは、フロイト的な精神力動理論は科学的でないと教育されてきたので、自分でもそう信じていたという。しかし、病気となってそれが変わったという。ほんの小さな粒の薬が自分を変えてしまい、病気はよくなったかもしれないが創造性が減退したように思えることが恐ろしくなり、フロイト理論を魅力的なものと感じるようになったという。
 本書ではじめて読んだ話だが、ショスタコ−ヴィッチは砲弾の破片が側頭葉に埋まっているままになっていたのだという(その被弾以来、頭をある方向に傾けると音楽が聞こえるようになったという)。本当なのだろうか?
 書く技術は大脳皮質に依存するが、書く意欲を作るのは辺縁系である。ここでダマシオが言及される。
 書きたいという衝動はコミュニケーションへの希求という根本的な衝動から派生したものであるというのが、著者の主張である。われわれは、ある人が何を言っているかに関心を持つのもさることながら、どういう気持ちでそれを言っているのかを同じくらい、あるいはそれ以上に重視する。従来の言語学は言語のこの側面を軽視してきた。言語の起源を考えればこの側面のほうが大事かもしれないのに。
 言語は最初の向精神薬だったというものもいる。言葉は慰め、楽しませ、感情の捌け口ともなる。文学の起源もそこにある。
 著者は《自己表現必要性》説というのを唱える。自己表現は、悲しみや怒りを叫ぶのと同じの生物学的な衝動に基づくのだという。
 著者が流産の経験とそれにともなう感情障害という個人的なことを本書の中で書くのも、まだどこかで充たされていないものがありかるからではないかと著者は疑っている。泣き叫ぶことによって誰かが手を差し延べてくれると思う原始的な赤子のような感情に似た衝動によるかもしれないという。
 しかし、と著者はいう。自分は感情障害の中で何かを(本来の自分を)発見したのだという。それを忘れないためにも書くのだという。苦しい欲求よりももっと悪いのは、何も欲求をもてないことだともいう。
 ただただ話すことが、何らの癒しや治癒効果を持つのであれば、書くことも同様の効果を持つだろうという。書くこと自体がセラピーなのだという。物語を作ることは生物学的な衝動であると主張するセラピストもいる。
 クンデラはこんなことを言っている。「子どもたちが一顧だにしてくれず、妻も耳を傾けてくれないから」書くと。クンデラはまた、1)社会に余裕ができ、しかし2)各人がばらばらになり、孤独になり、しかも3)社会が停滞して変化がおきなくなると、グラフォマニア(何でも書く人)が大量にでてくるという。ただし、クンデラがこれを書いたのは1980年でインターネット以前であるが。
 著者は、驚異的なのはブログの存在ではなく、それを読んでくれる人がいることだという。
 E・M・フォースターは「言葉にしなければ、自分が何を考えているかわからないではないか?」といったのだそうである。
 暗喩を用いるかどうかが、科学的な文章と文学的な文章をわけるのかもしれないと、著者はいう。著者は科学の語りのほうが現実をきちっと把握できると期待して、科学の道を選んだというが、科学的な文章は人間のコミュニケーションの基本的なルールに反する文章であると思うようになったという。そこには感情(=辺縁系)がない。あるのは(脳の)皮質だけなのである。病気をして以後、この科学の非人間的な文に、著者は耐えられなくなったという。そうはいっても、いまだに証拠よりも感情をもとに行動する人には、それと反対のことを言うのだそうであるが。
 創造性とは暗喩の形成であるとするものがある。暗喩は、皮質だけでなく辺縁系も活性化する力がある。
 医師は健康に悪いことは非倫理的と考える傾向がある。それなら宇宙飛行士はどうなるのか? チャーチルは「酒と煙草と美食を控えれば20年長生きできると言われて、「それでたった20年長生きしてもしかたがない」と答えた。
 著者は科学と文学を以前ほどは別物と考えなくなった自分の現状を、躁鬱病の症状の一つに過ぎないのではないかとも思っている。それと同時に、科学者と文学者を人工的に分けるやりかたこそが、現代の文化的な双極性障害(=躁鬱病)ではないかとも思っている。
 自分は書かないと窒息するから、自分の中に自分より大きな何かがはいってきて、世界を意味で埋めさせるから書くのだといって、著者は本書を結ぶ。
 
 自己追求などというのはらっきょうの皮むきといったのは小林秀雄だったと思う。
 ハイパーグラフィアの人は誰も読むひとがいなくても書くのだろうか? 作者には最低、自分自身という読者がいる。ひとは自分という読者を説得するために本を書くのかもしれない。E・M・フォースターの「言葉にしなければ、自分が何を考えているかわからないではないか?」というのはそのことであろう。「ヨオロツパに、何か解らないことがあつたらそれに就て一冊の本を書くといいといふ格言がある。これは本当であるやうであつてヨオロツパに就て今度これを書いてゐるうちに始めて色々なことを知つた気がする」という吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」の後記も同じことをいっているのであろう。吉田健一はヨーロッパの世紀末について書いてほしいという依頼を受けた時、ビアズレイの絵などを少し詳しく書けばいいと思ったという。しかし「ヨオロツパの世紀末」にはビアズレイなどはどこもにでてこない。吉田健一はこれを書くことで何かを知ったのであり、書く前とは別の人間になったのである。本来、本を書くというのはそのようなことであり、われわれがある本を読むのも、そこに書かれていることに賛成であるかどうかではなく、著者のしている考えるという行為によりそうことにより、自分も考えるのが目的である。石川淳なら「精神の運動」とでもいうようなものを楽しむのである。
 それならば著者は本書で考えることをしているのであろうか? 考えるよりも叫んでいるという気がする。散文的ではなく韻文的なのである。書くことと脳の関係について述べている部分は散文的だが、自分の病気について書いている部分は韻文的である。
 著者は学術論文の文体は散文の極北であって、そのドライさには耐えられないという。でも学術論文だって家電製品の取り扱い説明書よりは増しであろう。
 こういう話を読んで思い出したのが養老孟司氏のおそらく最初の本である「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)の「あとがき」である。そこで、「自然科学の文章を、日本語で表記したいという気持ち」でそこに収載された文章を書いたというようなことをいっている(東大解剖学教室の教授がそういうことをしたのだから、お弟子さんたちはさぞかし困ったことであろう)。養老氏がいっていることは、どういう文章で書くかも論文の内容のうちということである。通常、科学論文とはそのようなものとは考えられていない。「風が吹くと桶やが儲かる」ということを主張する科学論文を書くとすれば、対象の桶やは何人であり、それはかたよらないバックグラウンドから選ればれており、風速の測定は何々社製の風速計により、桶やの収入はどのようなして計算したかなどが示されたあと、風と桶やの関係を示すデータが示され、それについての考察が加わるというような形式に則っていれば、文章が下手であろうと凝っていようと、文章自体は評価の対象にはならない。本書では「ブロークン・イングリッシュは科学の共通語」というメダワーの言葉が紹介されている。「ヒトの見方」には明らかに後の養老氏の文とは異なる学術論文的な内容のものもある。「形態と機能からみた人間」などは典型であろうか(もっとも初出が「新医科学大系 第一巻A 医科学―その基礎と広がりⅠ」などというものものしいところであるのだから、当然であるのかもしれないが)。
 養老氏は、そこで、誰にも読んでもらえない論文を英語で書くよりも、日本語で書いて、何がしかでもお金をもらうほうがましな行為ではないかという至極もっともなことをいっている。しかし、いうまでもなく科学の世界で重要なのは金を得ることではなく、評価されることである。日本語で書いたのでは世界からは相手にされない。だからブロークンでもということになる。しかし、母国語で書かなければ書きたいことも書けないというのが養老氏のいっていることであり、事実、養老氏のいっていることを日本語で読めばすんなりと頭に入る。
 養老氏のこの本を読んだのは20年前だから、わたくしはもう臨床の場にでていたわけで、養老氏の本を読んだことが自分の道の選択に影響があったわけではないが、大学にまだいる頃、学位論文をとるための研究と称することをしていて、つくづくといやになった。
 臨床系の医者の自称研究は基礎医学の研究者からバカにされ、基礎医学の研究者の仕事は理学部の研究者からバカにされているのである。研究の手法についての基礎的なトレーニングもうけていない人間が見よう見まねで電気泳動をしたり、カラムを立てて精製と称することをしたりするわけである。自分でも半信半疑でやっている自信がない結果を超ブロークンの英語論文にするわけである。早く足を洗いたかった。それで学位論文が通る見通しができたらすぐに大学からでてしまったわけである。そのことは別に後悔していない。ほとんど知りもしないことを知ったような顔をしているという精神衛生の悪さからは逃れることができた。
 だから、この養老氏の文章を読んだときはわが意を得た。思えば、養老氏の「ヒトの見方」には色々な点で大きな影響を受けたと思う。文科系からみた理科の世界、あるいは理科系から見た文科の世界というものの一つの規範を養老氏は示してくれたと思う。「バカの壁」がバカ売れした後の養老氏はどうもおかしな方向にいってしまっているように思うが、それでも養老氏は大した人であると思う。
 養老氏は「本物の学者」の間ではえらく評判が悪い。ろくに知りもしない分野で、ほんのわずかのことからとんでもなく大きな結論をほとんど根拠もなく引き出す似非学者ということらしい。しかし「ヒトの見方」を書いていたころならいざしらず、今自分のことを氏は学者であるとは金輪際思っていないであろう。とにかく養老氏が薦める本には当たりが多い。それだけでも大したものである。S・キングが好きというのもいい。
 本書のフラハティもまた、自分のない文章などどこが面白いというわけである。そういう言い分を読んでいて、唐突に思い出したのが、関川夏央氏の「おじさんはなぜ時代小説が好きか」(岩波書店 2006年)である。ここで関川氏は司馬遼太郎山田風太郎藤沢周平の時代小説は「自分」のない「内面」のない世界であるから魅力的なのであり、近代文学の醜悪な自己追求の対極にあるから美しいのである、というようなことを言っている。内面を信じるのは子どもだよ、内面など信じない大人のための文学がこれらの時代小説なのであるという。それで話は森鴎外歴史小説などに遡っていく。
 それなら、フラハティのしていることは内面の探求なのであろうか? そうではないと思う。氏のいいたいことは「人間というのはとても不思議なものなのだよ! 科学ではわからないところがたくさんあるのだよ!」ということである。しかし、同時にその不思議が、側頭葉てんかんの症状でもありえ、ひとの心さえも一粒の薬に左右され、脳の中に埋め込んだ電流の刺激、あるいは脳外からの間接的な刺激によっても簡単にコントロールされることに、科学者として脳神経学者としてとまどってもいる。そのとまどいをそのままの形で提出している点、それが本書のユニークな点なのだろうと思う。
 すべての側頭葉てんかん患者がドストエフスキーになれるわけではないが、側頭葉てんかん患者でなければドストエフスキーの小説はなかったこともまた事実である、それをどうみたらいいかが、フラハティにはわかない。
 書くことはコミュニケーションの希求であると氏はいう。しかし同時に言葉は支配の道具でもあるという点を氏は少し軽視し過ぎているように思う。ひとが言葉を発し、文章を書くのは、誰かと繋がりたいという希求であるかもしれないが、また誰かを支配したいという権力欲に由来するかもしれない。
 著者は、どういうことが言われるかよりも、どういう気持ちで言っているかが大事かもしれないという。怒っているのか悲しいのか、こちらに同情しているのか敵対しているのかといったことである。それらもコミュニケーションではあろうが、コミュニケーションというと対等な関係を連想しがちである。しかし、支配のためにも言葉は使われる。「ひとびとはむだ話においてしか完全にたがいを愛しえぬといふことを、チェーホフは本能的に感知してゐた」と福田恆存がいっているのは、それと関係する。むだ話は猿の毛づくろい的なコミュニケーションなのである。しかしいったんむだ話を離れれば、それはすぐに支配の道具に変わってしまう。
 すべての文学者は愛情乞食であるといったのは伊藤整だっただろうか? 関川夏央氏のいっていることは、司馬遼太郎山田風太郎藤沢周平の文学は愛情乞食の書いたものではないから読めるということである(愛情乞食という言葉からわたくしの場合まっさきに連想するのが大江健三郎氏なのだが)。
 こういう本を読むと、いやでも、何で自分がブログで書いているのだろうかというようなことを考えてしまう。コミュニケーションへの希求なのだろうか? 愛情乞食なのだろうか? 
 5年ほど前にホームページをはじめたきっかけは備忘録である。とにかく記憶力が悪いから、なんらかの形でまとめをつくっておかないと内容を忘れてしまうし、その時感じた感想さえ忘れてしまう。あとで自分で読み返してみて、へえ、そんなことを考えていたのか、などと思うくらいだからひどいものである。
 しかし、それなら公開しなくてもいいわけである。自宅と職場のコンピュータが何らか連動して更新する仕掛されつくればいいわけである。だが、日記を書くというのはいやなものである。嘘を書いている気がして仕方がない。公開するとなると、自分を飾ることも不都合なことは書かないことも当然の行為である。いわば嘘を書いてもかまわない世界であるが、そのほうがかえって嘘でないものが書けるような気がする。丸谷才一流にいえば「ちょっと気取って書く」のが大事ということになるのだろうか?
 それとあとから気がついたのは、こういうものを書いていると色々とものを思い出す。特に昔読んだ本を思い出す。以前読んだ本が新しい文脈のなかで見えてくる。それが楽しい。そうやって地図がひろがり、あるいは書き換えられる。それがうれしい。
 一つだけ、公開することに積極的な意義があるかもしれないと思うのは、本の編集をしているような方になにか参考になるかもしれないということである。自分が出版した本が他のどういう本とのかかわりの中で読まれているのかということは、出版するかたにとってはある程度、参考になるかもしれない情報だろうかと思っている。
 そういうことで自分では愛情乞食をしているつもりはないのであるが、自分の気持ちは自分ではわからない。本心はコミュニケーションへの希求、愛情飢餓であるのかもしれない。
 本書の解説を茂木健一郎氏が書いている。これが本文とあまり関係ない変な解説である。本書をオリヴァー・サックスやラマチャンドランに繋がる「ロマンティック・サイエンス」の系列に連なるものであるとしている。そうだろうか? サックスもラマチャンドランも自分を書こうとはしていない。人間の不思議、脳の不思議を提示するための材料として自分の経験を使っているに過ぎない。
 しかしフラハティは自分を書きたいのである。あるいは自分を理解したいのである。その手段として科学解説書・啓蒙書のスタイルを採用しているに過ぎない。しかし、その内容は自分の研究分野でもある。自分にある日ある時おきたことは躁鬱病による症状として説明できる、それは自分が専門家であるからよくわかる。しかし、それだけではないのだ!という叫びが別のところからやってくる。自分はたんなる躁鬱病の症例ではない!、かけがえのな経験をもつ世界でただ一人の人間なのだ!、という叫びである。ワン・ノヴ・ゼムではないということである。
 精神科の世界では、症例報告がとても重要視されるらしい。一般臨床の分野では世界で何例目というような《珍しい蝶々を発見》的な症例報告はあるが、精神科の世界はそれとは違うようで、どのような症例もつねに世界ではじめての経験ということになるらしい。だが、フラハティがしようとしていることはそれでもない。自分を一般論の世界で解釈したいという希求と、一般論からはみでる部分こそ大事ではないかという疑念の間を行きつ戻りつしている。
 本書の最後に「宗教体験は脳の状態“に過ぎない”のか」という疑問が提示されている。これが本書の姿勢の要約である。“に過ぎない”のでもあり“に過ぎない”ということはない、でもある。
 医学部で授業がはじまっていくらもしないうちに、医学というものへの関心が急激に薄れていった。医学とは“死体学”のことなのではないか?としか思えなくなったのである。解剖学がそうであるのは仕方がないが、病理学も生理学も薬理学もみんなそうであるとしか思えなかった。(後知恵でいえば)時間が止まっているというか時間が流れていないのである。文学青年崩れであった人間としては、そこに何ら生き生きとした人間の息吹のようなものを感じられず、ただただ退屈だった。最近、進化医学などという分野を知って、ようやく医学にも面白いところがあるのだなと思うようななってきたのだから、なんとも困った話である。
 現在の医学はまだ「脳」とほとんど関係をもたない。脳外科は脳を心臓や肝臓と同じ臓器としてあつかっているのであって、特に脳固有の機能とかかわることはない。本当は、あらゆる臓器の病気に脳はかかわっているはずなのであるが、脳などというものがないような顔で医療はおこなわれている。
 フラハティのしていることはそういう医学の現状への異議申し立てなのであるが、一方彼女も神経科医として珍しい神経症状を示す症例には無条件でひきつけられてしまう。そういう両面をそのまま出していることで、本書は大変ユニークな本となっている。
 

書きたがる脳 言語と創造性の科学

書きたがる脳 言語と創造性の科学