橋本治 「ああでもなくこうでもなく No104」「広告批評」2006年5月号 マドラ出版

 橋本治が延々「広告批評」に連載している時評の最新論文。
 そこに、10年ほど前に「会社がなんたるかが分かってるのって、団塊の世代までだと思うんだ。だから、団塊の世代が定年になったら、日本の会社って終わりかもしれない。今の三十代は、もう違うでしょ」とある人にいったとある。
 団塊の世代の前に「会社人間」とか「仕事人間」とか「モーレツ人間」だとかはすでにできあがっていた。団塊の世代は、それに対して「やだな」という思いを抱えて会社に入った最初の人間なのだという。「公を捨てて私を取る」ことも「私を捨てて公を取る」こともできない、かりにそうなったとしても内部に「そうはなりきっていないぞ」という保留を持つのだという。そういう一筋縄ではいかない場所が会社というものなのだ、ということはわかっていた世代ではあるという。しかし、下の世代は違う、と。公の部分は会社(という自分以外の誰か)が受けもっているから、自分の仕事ではない。自分は、私の部分だけ考えていればいいとしているのだという。全体のシステムを維持するのは誰かがやってくれているから、自分は考えなくてもいい、という思考が蔓延しているのだ、と。
 これは民主党の前原前代表に代表される政界の若手のことについての評のあとに続く。つまり、前原代表は民主党という組織に自分が責任を持つという意識がなく、それは誰かが運営していて、自分はその中にいて、自分のしたいことを実現すればいいという気持ちでいたということである。およそ組織のなんたるかを分かっていない行動をしたのだという(そうははっきりとは書いていないけれど)。
 わたくしが高校の時は、ニチボー貝塚だった。大松博文だった。根性だった。新入社員の自衛隊体験入学だった。死ぬほど根性なしだったわたくしは、サラリーマンになったらやばいことになると考え、医者になった。「やだな」と思って会社から逃げたのである。逃げたと思っていたのに、気がついてみたら、病院という組織で、責任を負わされる立場にいた。会社がなんたるかも、組織のなんたるかもわからない人間がそういう立場になってしまったのである。そして、医者になろうなどという人間は、そういう組織からの逃亡者ばかりなのである。そういう人間ばかりの組織をどう運営したらいいのだろう。団塊の世代の定年を待つまでもなく、組織は終わっているのかもしれないのである。などと書くくらい、わたくしは組織についての当事者意識がない。
 わたくしは会社から逃げてしまった人間なので、「やだな」と思いながらも会社に入っていった人間がその後がどうなっているのかがよくわからない。はじめは「やだな」と思いながらもそのうちすっかり会社人間になってしまったのか、それとも、違和感をもちながらずっとそのままなのかということである。橋本氏は、そういう不満をもっているならもう少し会社を変える方向に努力しろよ、ということをいいたいらしい。文句をいいならがらも何もしないっておかしくはないか、ということである。
 丸谷才一氏に「裏声で歌へ君が代」という小説がある(新潮社 1982年)。この「裏声で歌う」というのが(俗にいえば「面従腹背」だけれども)われわれの「公」への態度なのであるということが丸谷氏はいいたいらしい。丸谷氏は会社のことを考えているのではなくて国家のことを考えているのであろうが。
 その10年前に書いた「たった一人の反乱」(講談社 1072年)では、とにかくも、たった一人ではあっても「反乱」したものたちが、ただ「裏声で歌う」ようになってしまっている。さらにその前に書かれおそらく氏の最高作であると思われる「笹まくら」(河出書房 1966年)では、主人公は戦争から(要するに国家から)逃げる。処女長編「エホバの顔を避けて」(河出書房新社  1960年)では文字通り「エホバの顔」を避ける。
 丸谷氏には、国家というもの公というものがピンとこないのである。ピンとこないから無関係でいたいのに、無関係でいさせてくれない、抛っておいてくれない、というのが丸谷氏のほとんど唯一の文学的主題である。
 わたくしもまた「公」というものがピンとこない人間なのだなあ、ということを感じる。いい年をしてピンとこないなんていうようじゃ困るよ、というのが橋本氏のいうことである。「公」の人、江藤淳が「裏声で歌へ君が代」を罵倒していたのを思い出す。なんという幼稚、なんという子ども! なんという卑怯! なんという怠惰! もっと大人になれ! というようなことだっただろうか?
 団塊の世代はバブルを支え、バブル経済の実働部隊となって働いた年回りのはずである。バブルのころにも「やだな」「変だな」と思っていたのであろうか? 橋本氏のいうようなダブル・スタンダード団塊の世代がもっていたのだとすれば、あれだけストレートにバブルが膨れることはなかったのではないだろうかという気がしないでもない。
 会社に入ったひとも、会社から逃げたひともみんな駄目というのであれば、なんだか救われないけれども、戦後という時代そのものが「公」からの逃避であったのかもしれないし、憲法第9条というのがその象徴であったという気もしないでもない。さらに言えば、ポスト・モダンというのも「公」からの逃走であるのかもしれない。
 わたくしはポスト・モダンにもなじめないし、護憲派も嫌いであるが、それは、反「公」ということが正義であるとはとても思えないからであるように思う。そうかといって「公」というのが正義であるとも、少しも思えないのである。つくづくと中途半端である。
 そういう立場を橋本氏は「くぐもって素直ではない」という言葉で表現する。しかし、素直でないことが唯一のアイデンティティであるなどというのは、絶対におかしいのである。
 だめだらめておれはとけてゆくちひさな (「エホバの顔を避けて」末尾)