今日入手した本
- 作者: 丸谷才一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/02/23
- メディア: 単行本
- クリック: 9回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
実はこの1960年版をもっているので(1968年の再版であるが)買う必要はなかったのであるが、巻末の「栄光ある孤立―『エホバの顔を避けて』」という松浦寿輝氏の文が面白かったので買ってきてしまった。
「・・わたしは丸谷才一のあらゆる作品の何にもまして『エホバの顔を避けて』を愛さずにはいられない。/ この異形の長編の著者は、その完成の後、これはもう衆目の一致するところの掛け値なしの傑作と呼ぶほかない長編『笹まくら』を書く。・・わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹まくら』を心から賞嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、第三長編の『たつた一人の反乱』以降、「裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』と続く ― 先に述べた表現を繰り返すなら ― 上質な「市民小説」の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えたためしがない。」
これは必ずしも松浦氏の特異な見解ではなく、多くの小説好きにかなり共通した見解であるかもしれない。『たつた一人の反乱』が出たとき、吉田健一が絶賛していて(「さいうふ色のことが言へる程明確に一つの世界をなしてゐる「たつた一人の反乱」のやうな小説は少なくとも明治以後の日本では珍しい。或はこの小説しか今までの所はないといふ感じさへする。」)、吉田信者のわたくしとしては、これを面白いと思えない自分は修行が足りないのかと思ったりしたのだが、何だかいい気なものというか、薄っぺらというか、上っ滑りというか、そんな印象を拭うことができなかった。特に『女ざかり』以降のものは???という気がして仕方がなかった。晩年の丸谷氏は文壇のボスのような存在になっていたようで、小説が出版される度に、仲間誉め的な賞賛の書評があふれたものだが、それで特に売れるわけでもなく、さりとて、一部の小説好きが何遍も読み返しているという話もきかず、半年もすれば忘れられてしまう作品、そんな印象であった。
松浦氏は、丸谷氏がエッセイの骨法とした(野坂昭如説らしいが)「冗談」「雑学」「ゴシップ」が、長編小説をも浸食したのではないかといっている。たしかに『持ち重りする薔薇の花』から「雑学」と「ゴシップ」を除いたら何も残らないような気がする。
松浦氏はいう。「実際、彼(丸谷氏)自身は『エホバの顔を避けて』を習作でしかないと考え、彼なりの「近代市民小説」の試みの方を自身の本領として、それに自信と矜持を持っていたようだ。」 そこから凄いことを言いだす。「ところで、因果なことにわたしは、冗談にも雑学にもゴシップにも何の興味も抱けない人間なのである。そんな男にはひょっとしたら「市民」の資格はないのだろうか。そうかもしれないが、それならそれでいっこう構わない。本音をいうならわたしは、「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていないからである。事実、『エホバの顔を避けて』には、「文明」的な「社交」を楽しむ「近代的市民」など、ただの一人も登場していないではないか。」
うーん、凄い。吉田健一の本には「市民」はでてこないが、「文明」と「社交」はふんだんにでてくる。「ヨオロツパ18世紀の文明の基礎としての社交」といった形で。丸谷氏は日本では人と人が交わる成熟した市民社会が成立していないので、それで作家はその陰画として花柳界を舞台にした小説を書いたのだといっていた。そしていつまでたっても日本では成熟した市民社会ができてこないので、それならというので小説の中でそれを強引に創ってしまったのかもしれない。だから何となく嘘っぽいものとなってしまう。
フォースターは「ハワーズ・エンド」のなかで、「この話では、非常に貧乏な人たちには用がない。・・この話は紳士と淑女、あるいは紳士と淑女であるふりをすることを強いられている人たちのことに限られている」といっている。日本の小説というのは貧乏人(逃亡奴隷)のことばかり書いてきたので、それに「反乱して」、総理大臣とか経団連会長だとかを小説にあえて出したりしたのかもしれないが、そういうひとたちも本当の紳士や淑女(あるいは貴族)ではなく、成り上がりにすぎない、「ふりをする」ひとであるので(仮面紳士)、本当のこくのある小説を書くことができなかったのかもしれない。
丸谷氏の小説の中で、逃亡する貧乏人を主人公にした「エホバの顔を避けて」と「笹まくら」だけが成功したのだとすると(松浦説であるが、わたくしも同感)、何だか考えさせるものがある。吉田健一の「瓦礫の中」とか「絵空ごと」のような小説も、小説の中で架空の貴族と上流階級をつくりあげようとする試みだったのかもしれない。
それにしても、《「市民」も「市民社会」も、けったくその悪い何かだとしか思っていない》というのは凄い。市民などという言葉を連発する人間に碌なのはいないのは確かだと思うが。
本書は復刻版とあるが、1960年版の再版ではなく、表紙もページレイアウトも別である。何だが以前の本のほうが愛情ある造本になっているような気がする。