本棚の整理(5) 丸谷才一

 丸谷氏の本は随分と多く持っている。対談本までふくめると70冊以上あった。それは氏がわたくしより年上ではあっても(20歳くらい上)、まあ同時代の文学者としてほぼリアルタイムで本を読んできているからだと思う。
 ご多聞に漏れず、最初に読んだのは「笹まくら」だったと思う。手持ちの本は昭和43年刊の再版で(初版昭和41年)、これは河出書房新社で刊行されていた「書き下ろし長編小説叢書」の一冊として刊行されている。この叢書では高橋和巳の「憂鬱なる党派」なども刊行されている。最初「笹まくら」の紹介をみて、徴兵忌避者を主人公にしているらしいことがわかって食指が動かなかった。なんとなく「反戦」というその時代の雰囲気におもねるもののように感じたからである。
 それですぐには読まなかったわけであるが、読んでみればまったくそういうものではなかった。これは丸谷氏の持つほとんど唯一の主題ではないかと思う「逃げる」ということをあつかった作品であった(と同時に、技巧的な小説を作るという万年文学青年としての氏の側面も強くでた作でもあった)。
 これに触発されて読んだ氏の処女長編である「エホバの顔を避けて」とともに、この「笹まくら」は政治的なものから逃げたい、それとは別の世界で生きることを許してほしいという氏の願望を強く反映したものになっている(「だめだらめておれはとけてゆくちいさな・・・」)。その別の世界とは文学の世界、それも「文学趣味に淫した世界」(「日本文学のなかの世界文学」(「梨のつぶて」(1966初版))であって、そういう世界にひたっていたい、「ロリータ」の中の模倣詩を読んで、すぐにエリオットの詩のパロディとわかる同好の士とともに文学を語り合っていきたいという全く反時代的な願望を表したものになっている。「西の国の伊達男たち」(「梨のつぶて」所収)でのエリオットの「荒地」の何とも楽しそうな読み、またジョイスの「フィネガン・・」の深読み・・・。
 わたくしは「梨のつぶて」が氏の評論集として最良のものではないかと思う。自分が西欧の文学の正統に繋がっているという強い自負と、さりながら私小説が文壇を席捲する日本においては、自分はマイナーな存在たらざるをえないという厳しい現状の認識・・・。
 晩年の丸谷氏は自分が日本の文壇のメジヤーでありその指導者となったと自負していたと思う。最後の長編の「持ち重りする薔薇の花」の主人公、若者が作る新しい弦楽四重奏団パトロンである財界の重鎮というというのは氏の自画像でもあったのだろうと思う。
 湯川豊氏を聞き手とした晩年の「文学のレッスン」(2010)は、自分は文学というものをこう思うというのではなくて、文学というのがどういうものであるのかの教えをたれるという姿勢である。わたくしには晩年の氏をみて「いい気なものだ」という感じをぬぐうことがどうしてもできなかった。
 氏の長編小説は「エホバの顔を避けて」「笹まくら」「たつた一人の反乱」「裏声で歌へ君が代」「女ざかり」「輝く日の宮」「持ち重りする薔薇の花」の7つだけれど、「エホバ・・」はいかにも同人雑誌に書かれたという匂いが残っている若書きで、本当に長編を世に問うたのは「笹まくら」であるが、その主人公が大学の事務職員であるのは示唆的であると思う。「笹まくら」執筆当時、丸谷氏が知っていた現実世界というのは氏が教壇にたっていた大学だけであったのだとうと思う。
 それで次の「たつた一人の反乱」は通産省から天下りした重役といった従来の日本の小説にはまずでてこなかった人物を主人公にした。それで、ついには「女ざかり」では総理大臣までが登場することになった。全然、総理大臣らしくはなかったけれど。
 「たつた一人の反乱」の裏表紙に「作者のことば」があって、そこに「この長編小説 それ自体もまた 今の日本の小説の書き方に 決然と 逆らつてゐるといふ点で 一人の小説家の “たつた一人の反乱”にほかならない。」とある。これを書いた当時は丸谷氏はまだ自分を少数派と思っていたわけである。それがいつの間にか自分が多数派となり、文壇を指導するというような意識を持つようになったとき、氏の緊張が緩んでしまったのだと思う。
 今のわたくしにとって、丸谷氏の著作で一番面白いのは山崎正和氏との対談「日本史を読む」「二十世紀を読む」「日本の町」、山崎正和木村尚三郎氏との「鼎談書評」「三人で本を読む」、鹿島茂三浦雅士氏との「文学全集を立ち上げる」といった対談鼎談本、「深夜の散歩」といったミステリ評論などである。
 また、「後鳥羽院」などの古典論にも教えられた。「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」の「心して」を何だか女々しいなあ、と思っていた長年の疑問が氷解した。「心して」を「自分をいたわって」というような意味だと思っていたのである。まあ単にこちらが常識を欠いていた、あるいは津田左右吉的文学観に毒されていただけということなのかもしれないが・・。(「津田左右吉に逆らって」(「梨のつぶて」)
 もしも丸谷氏がヨーロッパに生まれていたら、博識のマイナーポエットというような一定の立ち位置を容易に獲得できたのではないかと思う。日本に生まれてしまったのが氏の不幸で、私小説的文学風土との不毛な消耗戦を強いられたわけである。その文学風土を壊すのに果たして丸谷氏がどの程度の功績があったのかはよくわからない。
 吉田健一丸谷才一池澤夏樹路線というのが何となく現在の文壇の主流であるようにも一見はみえるけれども、村上春樹村上龍というのがその路線上にいるとは思えないし、何よりも現代詩というのが日本の文学でほとんど何の力も持っていない。俳句や短歌というのは相変わらずの華道茶道の家元路線の上にいるようだし、それは日本の文壇とはまったく別の場所にいる。要するに丸谷氏の文学は言葉で作るというヨーロッパの常識を日本に持ち込もうとしたのだろうと思うけれど、日本で確固たる勢力をもつ壇というものは相変わらず存在していて、俳壇・歌壇・文壇といったものは相変わらず健在である。結果としては丸谷氏は文壇の親分という位置に収まることで満足したのではないかと思う。それが最後まで異端であった吉田健一との大きな違いではないかと思う。
 丸谷氏はやはり小説家であった。文学というもののなかで小説などというものの位置は随分と低いことは頭ではわかっていたであろうが、若い時にジョイスに打ちのめされた経験から生涯逃れられなかったのであろう。ジョイスの書いた小説は高級な小説である。ナボコフが書いたのもまた高級な小説であった。丸谷氏がいかにミステリを愛するひとであったとしても「ゼンダ城の虜」と「ユリシーズ」を同列におくことはできなかったのであろう。その点、大衆小説と「たつた一人の反乱」を区別することがなかった吉田健一のほうが一枚上手だったということなのだろうと思う。要するに小説というのが現在文学の領域で大きな顔をしているのは、ヨーロッパの歴史のある時期に生じた個人という概念の発明という偶然に由来しているのであり、文学の長い歴史のなかでは例外的なことなのであるという認識が頭ではわかっていてもどうしても充分には腑に落ちなかったのであろうと思う。池澤夏樹氏もまた小説という形式への未練をなかなか捨てられないようである。
 小説などというのは別になくても一向に構わないもので、事実、その形式は間違いなく衰微しようとしている。多分、それは英国のEU離脱などともどこかで関連しているはずである。しかし人間というものがもうしばらく地球上で命脈を保つとするならば、考えることをし、文章を書くこともしていくであろうから、文学というものもまた続いていくはずである。
 「梨のつぶて」はその題名の通り、返答を期待しない問いかけであった。文学の根っこにあるのはそれで、「答えのない問い」である。自分が自分に問いかけること・・。それが自分の問いに反応があって、自分の言葉が日本の文壇を動かす力があるのではないかと思いだした時から、丸谷氏の書くものがもつ力がどこか弱くなっていったような気がする。
 

エホバの顔を避けて (1960年)

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たった一人の反乱 (1972年)

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梨のつぶて―文芸評論集 (1966年)

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持ち重りする薔薇の花

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  • 作者:丸谷 才一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/10
  • メディア: 単行本
文学のレッスン (新潮選書)

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鼎談書評 (1979年)

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後鳥羽院 (1973年) (日本詩人選〈10〉)

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