中村哲 澤池久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束」

 池澤夏樹氏の本で知った中村哲氏と澤地久枝氏の対談「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」を読んで、中村氏が小さいころ昆虫少年であったこと、西南学院というミッションスクールで学んだことからクリスチャンになったこと、中村氏の父はコミュニストであったが、同時に日本的道義も大切にする人で、中村氏にもまず論語素読をさせるようなひとであったことなどを知った。
 養老孟司氏も池田清彦氏も幼少時、昆虫青年で、そのまま現在の昆虫老年にいたったひとのようだから、昆虫好きには少し変わった方が多いのかもしれない。北杜夫も昆虫少年だったと本書にあった。少なくとも、昆虫好きの裏には人間嫌いという側面がうっすらとあるようにも思う、氏がアフガニスタンとかかわることになったのも、虫好きの延長での山好きということもあったようだが、直接には、「日本キリスト教海外医療協力会」からの依頼が発端であったらしい。
 前回のエントリーに中野重治コミュニストでありながら、武士的倫理をそのバックボーンを持つひとであったというようなことを書いた。わたくしはその最後の世代であると思うのだが、男というもの漠然とした像として士大夫の士であるべしというようなものがあったのではないかと思う。武士は食はねど高楊枝である。原口統三の「二十歳のエチュード」のどこかに、「武士は食はねど高楊枝 ぼくはこの言葉がどんなに好きだったろう」というようなところがあったと記憶している。吉田健一の何かの本に、氏の祖父にあたる牧野伸顕が「I am SAMURAI !」と占領米軍人に叫ぶ場面があった。養老氏の孟司という名前にも強く儒教の匂いがする。わたくしは一高寮歌祭的なようなものというか「嗚呼玉杯・・」を袴高下駄で肩を組んで陶酔して歌うおじさんが大嫌いなのだけれども、ああいった選良意識は武士意識の一番悪いあらわれなのかもしれない。
 それでは女性の場合は? ミィツション・スクールというのが大きな役割を果たしたのではないかと思う。知り合いに女子学院出のひとがいるが、自分ではクリスチャンのつもりらしいが、話をきいていると、どうみてもキリスト教徒というより女子学院教徒である。麻布も変わった学校だが、女子学院という学校もかなり変わった学校のようで、先生のかなりは離婚した女性で、自活のために教壇にたっていたらしい。「結婚してもいやになったらすぐに別れなさい」などと公言する先生もいたらしく、良妻賢母といった方面にはいささかも関心のない学校らしい。
 日本の場合はindependentであること、自立しているということは、男性の場合は儒教→武士道路線から、女性の場合にはキリスト教を経由した男女対等路線からきているような気がする。
 中村氏は当初、精神科を専攻したひとであることも初めて知った、精神科だったら暇だから趣味の昆虫採集も並行して続けられるという思いがあったのと、自分自身が赤面恐怖という一種の精神科症状があったためと、本書ではいわれている。
 医者で文人というひとは相当数いて、わたくしは小説家になるなどという馬鹿なことは医学部学生になってからは一切考えなくなっていたが、それでも本を読むことは続けたいという思いはあって、医業と文筆業を両立させた先人がたくさんいるのだから、医者をしながら本を読むひとであることは可能なのではないかという思いがあって医学部にいったという側面は確かにあったと思う。
 医療について積極的な動機がなく医学部にいき、いった途端に東大闘争(紛争)というドラマティックというも愚かな出来事の渦中に巻き込まれ、それの終焉の後は、もう散文的の極致の、どの筋肉がどの骨についているかなどの講義(ムスクルス・ステルノクレイドマストイデウス・・・)がひたすら続き、医学そのものに関心がもてなくなってしまったことには本当に困った。
 ともにかく研究のまねごとをして学位がとれたので、35歳で市中の病院にでて、すっかり錆びついていた臨床をとりもどすのにバタバタしているうちに、40歳くらいになって、なんとなく患者さんの気持ちというのが理解できるような気がする状況がときどきでてきて、ようやく臨床をやっていての落ち着かなさが少しは薄れてきた。「どうしましたか?」「お腹が痛くて」だけではだめで、「実は最近、親戚で大腸がんがわかったひとがいて・・・」というところまでいきつかないと臨床はうまくいかない。小説を読んできた功徳か、そういうことはそれほど苦手ではないと思えるようになってきて、自分のような医者もいてもいいのかなと思えるようになってきた。臨床、特に内科の方面は(精神医学はさらにそうであるかもしれないが)、自然科学というより人文科学という側面を持つように思う。
 高一のころ、医学部進学希望を小児科医であった父に告げたら、「医学なんか何の役にもたたん。農学部にいって食糧増産の研究でもしろ!」と反対された。
 中村氏のたどった道は正にアフガンでは臨床医学などほとんど何の役にも立たない。まず食べものの確保をという道である。
 そして今になって思えば、食糧増産の研究も本当にはアフガンの役には大きくは立てなくて、アフガンの現状をもたらした元凶は政治である。そしておそらく中村氏の命を奪ったものも政治である。
 「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」という言葉がある。中村氏は大医を目指したのではないだろうが、いくら目の前の患者を癒しても、その患者が飢えや渇きで次々に死んでいくのを見て、井戸を掘り、水を引くことに道を変えたのであろう。
 しかし、病を癒せるのなら、小医だって大したもので、実際には、「ときに癒し、しばしば和らげ、つねに慰む」であって、癒せることだってそれほど多くはない。治せないまでも和らげることがせいぜいのことは多いわけだし、それさえできなければ、あとできることは傍にいることだけである。
 中村氏が大であったのは、アフガンに居続けたことなのだと思う。その地を見捨てることなく、そこに居続けたことなのだと思う。その点で中村氏はやはり一人の臨床医であったのだと思う。