津田敏秀「医学的根拠とは何か」(5) 第4章「専門家とは何か」
ある大学医学部の研究室で、教授が医学生に対して「いまどき分子メカニズムの研究でないと医学博士が取れない」と発言したという話からはじまる。津田氏は「分子メカニズムの研究でないと医学論文を書けない」などというのは嘘で、「人間の病気についての査読付医学論文は数多くでている」という。
氏は臨床医から臨床研究の相談を受け、簡単なアドバイスをすると研究がすすみ「なぜ大学医学部や医学研究科は、臨床研究のやりかたをちゃんと教えてくれないのか?」といわれるのだという。臨床研究は決して大規模なものでなくてもいいのだという。しかしいまだに動物実験こそが研究という風潮も強い。
日本の基礎研究の評価は比較的高い(世界での3位から6位)が、臨床研究は12位から25位である。その臨床研究も大学からではなく、国立がんセンターや愛知県がんセンターなどから出されているという。新薬認可のための治検も進まず、製薬会社まかせになっている。日本の医学博士号論文のうち、人間の研究の可能性があるものは四分の一くらいで、それも症例報告や生体反応、人体測定や人体機能、心理調査などで、本当の臨床研究といえるものは全体の1%くらいと。
ここで津田氏が述べていることは首肯できるものがほとんどであるが、疑問に思った点もあるので書いてみる。
臨床研究で大規模でなく個人レベルで可能なものというのはわたくしは例を思い浮かべることができない。ぜひ、ここは具体的な内容を一二紹介してほしいと思った。というのは新薬の治験などというのは膨大な人手と費用を要するもので、とても個人レベルで可能なものとは思えないからである。またがんセンターはがんの患者さんが集中的にあつまる場所であるので、ある程度まとまった数の症例を集めることが可能であると思うが、ごく普通の市中の病院にいて可能である大規模でない臨床研究というのが頭に浮かばない。それともう一つ、学位論文が症例報告で取得できるだろうか?(症例報告というのは一例報告である。多数例の症例分析はそういわないだろうと思う。一例の報告ではとんでもなく珍しい症例で、それについての詳細な分析とおそらく何らか実験的な分析をしないかぎりは学位取得は困難ではないだろうか?)
「いまどき分子メカニズムの研究でないと医学博士が取れない」というのはわたくしもよくきく話で、それはその方が研究がやりやすい、論文を査読する人間もまた、そういうものこそが学問だと思っているので、受け入れられやすい、という事情が背景にあるのだろうと思う。
外科のお医者さんが、がん遺伝子の研究などを学位のためにしているのをみると無駄だなあと思う。が、臨床家が論文を書くうえで唯一もつ利点が臨床材料を手にいれやすいということで、外科の医者はがんの組織を入手することは容易で、それを分析すれば、「大腸癌における○○遺伝子の発現について」というような論文ができるし、それを調べたひとが今までにだれもいなければノイエス(新知見)である。かりに以前にすでに発表したひとがいても以前のデータが発現率30%であったものが、今回は60%であれば論文にはできることになる。
こういう論文を書いたからといって手術の腕があがることは決してない。それは誰にでもわかることだが、問題はこういう研究が将来のがん治療の臨床の進歩になんらか貢献するだろうかということである。99%ないであろう。しかし分子標的薬ということがいわれる現在、ある腫瘍に固有の遺伝子変異をみつけることができれば、あるいはそれが治療への道をひらくことだってないとはいえないかもしれない。仮に貢献することはないとしても、発がんのメカニズム研究にきわめてわずかでも貢献したことにはなるかもしれない。
本書に東大内科永井良三教授(現自治医科大学学長)の「若いときは狭い領域であっても一度は最前線を経験しておくべきである」とする発言が紹介されていて、永井氏のような臨床研究に理解があるひとでも(要素還元主義的)科学への思い入れがあるという例とされている。
わたくしが思うに、若いころのこういう後にはほとんど何の役にもたたない研究が唯一あとで意味をを持つとすれば、自分で実験などをしてみることにより、こういう科学の世界が実にあやうい基礎のうえになりたっていることがわかって、他人のデータを安易には信用しなくなるという批判精神をもてることはあるのではないかと思う。われわれが書く論文でもし後世に残るものがあるとすれば、ほとんどは症例報告で、「メカニズム派」的論文自体は死屍累々のはずである。
ここでは津田氏は述べていないが、日本の医学部での大問題の一つが臨床医になるひとに博士号は必要かということであるはずである。現状では、研究が臨床能力の向上に資することはほぼ100%ない。一部の公立病院では部長などの責任を負うポジションにつくためには博士号が必要になるらしいが大部分の病院では不要である。問題は教育職につく(具体的には大学の医学部の教授になるなど)場合には博士号がないとまずいらしいことである。東大医学部などは、俺は将来の東大教授と思っているひとがうじゃうじゃいるからみな学位に走る。それで試験管ばかり振っていて、臨床能力に自信がなくなり、それで大学に残るしかなくなりさらに研究を続けるという負の(?)スパイラルに入るのかもしれない。そしていかんともしがたくなれば臨床という逃げ道がある。自信はないがなんとかなるさ、臨床などは誰でもできるといわれているではないかいう路線である。
世界の医学部ではさまざまな教育改革がこころみられているようだが、日本では10年一日ではなく100年一日のようで1919年の大学令からほぼ百年その構造を大きく変えてはいない。わたくしはちょうどその半分の50年くらい前に大学で学生生活を7年をおくったわけである(紛争(闘争)のため一年留年)。さらにその後2年大学で研修をしあので10年以上を大学ですごしたことになる。驚くのは大学紛争(闘争)というきわめて大きな出来事があったにもかかわらず、100年前からの教育体制の根幹は少しも変わらなかったということである。
前にも書いたが、今の大学医学部の一番の問題は、その存在理由の第一が臨床医の育成ではないように見える点である。医学部は大きくわけて基礎医学と臨床医学にわかれる。基礎医学が基礎的な研究、臨床医学が臨床的な研究とすればクリアであるが、実際には、臨床教室でおこなっているのもなかば基礎的な研究(津田氏のいうメカニズム研究)であり、直接にあるいはすぐに臨床と結びつくものではない(血糖調節メカニズムの研究、ホルモンの作用メカニズムの研究といった生命現象の基礎のような研究が多い)。そういうメカニズム研究が新薬開発などに結びつく可能性もないわけではないが、まれである。要するに研究者は知りたいから研究しているだけである。ただ研究費の助成申請のときにはいかにも研究が臨床上有用であるかのように書のが問題かもしれないが。臨床医学の部門にも実地臨床教育を専門とするひとはほとんどいないわけである(そういう方面のプロは大学にではなく市中病院のほうにいる。だから研修医も大学病院ではなく、市中病院にでていくようになる)。
欧米などはどんどんと臨床を意識した教育体系へと代わりつつあるというのに、日本では100年前とほとんどかわらない相変わらずの退屈な基礎医学と臨床に役に立たない臨床医学とを教えている、そう津田氏は慨嘆する。さてそれならば、時代遅れの無意味な教育をしている日本の医療は先端的な臨床教育へと舵をきっている欧米の医療に比べて日常臨床の場がとんでもなく荒廃したものとなっているかというと、あながちそうでもないらしい。医療のパフォーマンスをよく反映するといわれる周産期死亡率は、千分娩あたりで日本2.9、アメリカ6.8、フランス13.5(2010年データ)、医療費総額は先進国中最低のGDP比であり、WHO、EU、あるいは専門誌(ランセット)などの評価でも日本の医療の評価は世界最高ランクとなっている。
津田氏による日本の医療についての論理的(メカニズム的)考察では日本はとんでもない医療レベルであるはずなのであるが、実際に観察してみると(疫学的考察をしてみると)そうではないようなのである。理論的には有効そうに見えることでも実際に応用してみると無効であったり有害であったりことがしばしばあることは津田氏も指摘する通りである。「メカニズム派」の教育は実地臨床には直接は何も有益な効果をもたないかもしれないが、目の前の事例がどうなっているのかと考えてみる方向へ医者を誘導する効果は発揮しているかもしれない。
わたくしのような古い医者は、正直にいうとEBMというものになんともいえない違和感のようなものを感じている。「浅い」感じがするのである。過去のさまざまな経験の蓄積からいって、このような場合にはこの診断とするべき、この薬を使うべきといわれると、どうしても「なぜそうなのか?」と考えてしまうのである。「メカニズム派」の毒がまわっていることは明らかなのだが、そういう思考とペアでないとEBMというのは単なる暗記ものとなってしまうように思えてしまう。もちろん、インターネット時代の今、暗記などすることはなく、検索すれば最新の情報にすぐにアクセスできるわけであるが、そこには「自分なりの納得」というものが欠けているように思えてしまう。
これは「事実」というのが自分の「外側」にあるのか自分の「内部」にあるのかという「科学哲学」上あるいは「認識論」上の大問題に帰着するのではないかと思う。この点では津田氏はあっさりと「外側」を真実としてしまう。今述べたようなことを言い出す人間は「直感派」であると思うので、わたくしは「メカニズム派」にして「直感派」ということになりそうなのであるが、それなら「数量派」の部分がないかといえば、自分ではそうでもないと思っている。というか臨床をやっていたら、いやでも数量派の部分をもたざるをえないわけで、医療行為は確率の上に成立しているのだから当然である。
ある状態で治療をするか否かの判断を疫学なしにすることはできないわけで、ただ疫学知識だけで決まると思っていないだけだと思う。治療ガイドラインというような形で提供されている疫学データはその解釈の過程が「メカニズム」派的観点から汚染されて中立的でないものになっている可能性が高いと思っているのが一つである。理論なしに観察することはできないとすると、まずメカニズムが先に想定され、それを実証するために疫学的調査がおこなわれるという方向が普通だと思うので、最初の仮説と反する疫学的事実は無視されるか過小評価されるかという傾向があると思っている(喫煙が何らか健康に有益な側面があるとする研究は現在ではまず投稿しても学術誌から拒否されてしまうというようなことをきいたことがあるが、反=禁煙派が流しているガサネタかもしれない)。
もう一つは、患者さんの年齢、疾患の進行状態、その患者さんのものの見方考え方などの情報なしに治療の方針が決まるとは考えれないからである(だからあらゆるがんは治療するなという論には与しえないが、あらゆるがんの治療方針がEBMから決まるとも思えない)。
さらに治療者(つまりわたくし)のものの見方、考え方も治療の方針にかかわる。自分が30歳のときと40歳のときと50歳の時と60歳の時で同じ症例に違う治療をしている。これは臨床経験が増えたからではなく(それもあるが)、ものの見方考え方が変わったからである。こういうのは直感派の典型的ものいいなのであるが、EBMはどのような医師もある疾患に対しては同じ治療をおこなうというありえない前提からでてきているように思えてしまう。
統計処理をすると年齢や生活状況の差といったものは消えてしまう。むしろそれを消すために処理をしている。しかし目の前にいる患者さんは平均値から外れているのであるから、現場においてはそれに対応した修正が必要になると思う。というような議論は疫学を根本的に誤解しているという批判をうけること必定であると思うが。
さて津田氏はドイツ流と英米流ということをいう。あるいは大陸合理論(演繹法)対イギリス経験論(帰納法)である。日本の医学部はその明治以降の歴史のなかで濃厚にドイツ流の演繹的思考を中心においてきたので、証拠に基づいて医療の方向を決めていこうとするやり方が苦手なままできていて、公衆衛生的視点がいたって乏しいままできているという。氏は現在では基礎知識とデータとノートパソコンがあれば、どこでもデータ分析ができる、という(上にも述べたが、是非、日常臨床の場で可能な具体的なデータ分析の事例をしめしてほしいと思う)。
「医学研究の構成要素は、仮説形成、観察、データ収集、解析である」と氏はいう。「ごく簡単な解析しか出来ない時代には、実験室で動物を使って単純なモデルを検証するしかなかった。すなわち実験医学の時代である。しかしある程度複雑な解析もできるようになると、観察対象が実際にいる場所でデータ収集に力を注ぐ方が効率も良く説得力も出る。すると相対的に実験室は必要なくなる。・・実験室はもはや医学研究の必要条件ではなくなっている」という。
本書は後半になると疫学こそが科学、医療の場でのメカニズム研究は人間を直接あつかうものではないから、かりに理論的には有用そうに見えても実際には人間を直接あつかう疫学にくらべれば間接的で医療における科学とはみなせないという方向ばかりが強調されて、いささか神がかってくる。ここの部分など典型的にそうで、「実験室はもはや医学研究の必要条件ではなくなっている」ということに賛成できるひとはほとんどいないのではないかと思う。疫学的な解析に提供されるデータのほとんどは実験室での研究から生まれた手技によって測定されている。
津田氏がイメージしている実験というのがどのようなものなのか、あるいは動物実験のことを指しているのかもしれないが、ある抗ウイルス剤の有効性がウイルスの亜型あるいは変異によって決定されるような場合、人を観察していても何もわからないわけでウイルスのほうを観察しなくてはならない。そして臨床の現場などでは決してそれは観察できないので実験室が必要になる。分子標的薬がいわれる時代に「実験室はもはや医学研究の必要条件ではなくなっている」などというと、氏のここでの言説のすべてが眉唾とみられてしまうのではないだろうか?
日本の臨床の場では疫学あるいは疫学的思考の導入が非常に遅れていて弱い。「メカニズム派」的思考も「数量派」的な思考とともにあるのでなければ、その根は弱くなり危ういものとなってしまう、というのであればまったく問題ないと思うのだが・・。
そして自説の擁護のためにドイツ流と英米流の思考の違いなどを持ち出してくるのはややこけおどかしの気味があると思う。氏の論によれば日本の大部分の研究者はドイツ派であり演繹派ということになるが、そんなことはなく、大部分は英米派であると思う。現在の研究は完全に米国が中心になっているわけであるし、日本での研究と称するもおのほとんどは、単なる追試である。だから、山中伸弥氏が「阿倍野の犬」ということを言っているのだそうである。「日本の研究の多くは、『米国の犬がワンと鳴いたという論文があるが、日本の犬もワンと鳴いた』というもの。さらに、日本の犬がワンと鳴いたという論文を見て、『阿倍野の犬もワンと鳴いた』と書く」という話である。ここのどこにも理論から出発する検証すべき仮説などはない。帰納ですらない。観察例をもう一個増やしました、というだけである。(ちなみにわたくしの学位論文というのもまさにそれである。)
どうも津田氏は仮想敵をつくってその敵を強大なものとして描くことに腐心しているようであるが、そんな立派な敵はどこにもいないのではないかという気もする。
あとは、終章の「医学部の“開国”を」を残すだけ。
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