津田敏秀「医学的根拠とは何か」(6)終章「医学部の”開国”を」

 津田氏は、本書で「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず、医学本来の人間を対象とした研究がほとんど行われていないことを示してきた」という。「水俣病や薬害事件などの日本の保健医療領域の数々の大惨事は、数量化の知識をまったく欠いた大学医学部の教授たちが、「専門家」として非科学的な誤った判断を下したために生じた。誤った政策判断がひとたび行われると、それは「無謬」の官僚によって維持されてきた。」 そうなるのは「科学としての医学を知らない人たちが日本の高等教育の多数を占めているだけの話」で「専門課程に進んでから教えられる医学は実験医学」であるが、そういう「「難しい最先端の研究をやっている」という幻想を振りまくのはやめて、「簡単な理論を学び、患者を観察し、根拠となる2x2表をまとめることから始めるのが、臨床研究推進の早道だ」ということになる。
 ここからわかることは津田氏が主として想定している医学というのが「保健医療領域」であること、その領域の科学とは疫学であるとしていること、またその領域では実験医学はあまり役にたたないとしていることなどである。
 医学というのを「保健医療領域」に限定するならば、津田氏の言っていることはほぼ正鵠をえているものと思う。日本の医学のなかで公衆衛生領域が軽視されていること、そのためもあってその専門家が少ないことも間違いない事実であろう。
 しかし医学と保健医療領域がほとんど重なるものであるかといえば、決してそうではないと思うし、また保健医療領域が臨床現場と直結しているかといえばそうともいえないと思う(津田氏は直結しているとしているように思える)。
 津田氏が強調するのが、疫学が人間についての学問であり人間についての科学であるという点である。だから実験動物をつかってえた論文などから人間についてものが言えると思っているようにみえる基礎研究者を批判するわけである。
 今読んでいる病理医である榎木英介氏の書いた「医者ムラの真実」(ディスカヴァー携書)で、九州大学の中山敬一教授というかたの意見が紹介されている。医学部での教育、解剖学から生理学、病理学から臨床医学までを広く学ぶということは、人間というひとつの生物に関して、構造・機能についての正常・異常をありとあらゆる角度から6年間学ぶということで、その過程で、人間という生物に対して「個体レベルでの理解」が感覚的に芽生えてくる。これは医学部以外の人間には絶対にない感覚で、それを独学で学ぶことは先ず不可能であるし、医学部を出ていないのにこの感覚を身につけている人には出会ったことはないと、氏はいっているのだそうである。
 中山氏から見ると、医学の研究は一見動物でのことに見えても、それがどこかで人間と結びつくことがつねに念頭にあることになる。一方、津田氏からみると基礎医学での研究のほとんどは人間がどこかにいってしまい、理学部生物学科、もっと極端な場合には化学科とかわらないものとなっているということになる。
 医学というのを人間についての生物学と規定していいのかは問題があるだろうが、人間がいなければ絶対にない分野であることは確かで、その点で、物理学や化学とは学問の身分が異なる。物理学や化学は宇宙のどこにいっても通用することを研究する学問なのであろうが、生物学は地球以外の星では通用しない学問であるはずであるし(生物学原論というような学問があって、もし地球とまったく異なる星にも生命がありうるとすれば、その生物はどのような条件を備えていなければいけないかという学問はあるかもしれない)、地球でたまたま生じた進化の過程を抜きにしては成立しないものである。こうなっているのはなぜかということを問うことはできても、そうなっている必然性はまったくない。
 医学はたまたま自己意識を持つ生物が生まれたからできてきたというエスノセントリズム(?)の支配するきわめて偏った学問である。細菌にしても人間に直接間接に影響するもののみが研究対象とされるわけで、そうでないものは可哀想にたんなる雑菌である。
 ピロリ菌だってつい最近までは胃の中の雑菌とされていたわけであるが、それが胃炎や潰瘍やがんの原因であるとみなされるようになると俄然研究対象となってきた。
 おもしろいと思うのはピロリ菌が問題となる以前には慢性胃炎というのはほとんど病気あつかいされていなかったように思うことで、ほとんど症状はないので、ピロリ以前にはちょっと胃があれているだけですねなどと平気で説明していた。まさか前癌状態であったとは。
 もっとも、最近では胃粘膜の萎縮度つまり胃炎の程度をみる血液検査とピロリ菌感染を血液でみて、それで胃がんが危険であるひとだけ胃の検診をしようというABC検診というのがあって、胃の検診分野で大問題になっている。わたくしなどはこういう話がでてくるのはバリウムによる胃の検診の精度が低いためと思っていた。ABC検診でいくら高リスクであると判定されても、がんがあるかないかは検査をしてみないとわからないわけで・・こういう考えも「メカニズム派」なのであろうが・・こういう高危険群は最初から内視鏡検査をしてしまえという発想だと思っていた。
 医者のほとんどはバリウム検査はあてにならないと思っていて、検診するなら最初から内視鏡と思っている。しかし内視鏡検査は医者しかおこなえないが、バリウム検査はレントゲン検査技師のひともおこなうことができる。健康診断をうけるひと全員の胃の検査を内視鏡検査とすることは、内視鏡医の数からいって不可能である。だから危険なひとだけ選んで内視鏡という発想は理解できるのだが、問題はそうしてしまうと胃の検査を担当するレントゲン検査技師のひとが失業してしまうことである。
 日本は胃がんの国であるから、レントゲン検査技師さんのバリウム検査にかける熱意たるや大したもので、その技術が世界一であることは間違いない。しかしそれでも、胃を直接観察するわけではない。粘膜の色調の違いといったものはわからない。というわけで、バリウム検査で胃がんの疑いで内視鏡をしてもなんともない症例が続いて・・少しでもあやしいと思うものを引っかけるとどうしてもそうなる。バリウム検査の欠点はあやしいと思ったときにその場で生検ができないことである・・内視鏡医は、それなら高危険群だけ内視鏡をしたほうがいいと思っているひとが多い。それなのについ最近、内視鏡による胃がんの検診についてはそれが有用という疫学的証拠がないので、胃がんの検診はこれまで通りバリウム検査を推奨するという実に奇妙な勧告がでた。なんだか政治的配慮があるとしか思えない。内視鏡検査を推奨してもマンパワーの問題で無理なのだが、胃がんバリウム検診をやめるという選択はあるだろうと思うのである。しかし日本人はまだまだ胃がんを心配しているから、それはできないのだろなと思う。
 今ではピロリ菌が胃炎をおこす一方胃がんの原因ともなることがわかってきたので、胃炎は前がん病変として俄然注目の的である。内視鏡をやっている医者は内視鏡で胃をみただけでピロリ菌がいるかどうかほとんどわかるのだそうである。
 津田氏はピロリ菌が胃がんの原因であろうことが1994年には確立された見解となったにもかかわらず、それは疫学的な根拠だけであるとし、直接的な証拠がないとして、国立がんセンターなどを中心に大規模な対照試験が確認のためと称しておこなわれたため、除菌の開始まで15年の遅れをとったことを強く批判している。
 この点は氏の「医学と仮説」で詳しく論じられている。そこでは国際学会で、ピロリ菌が胃がんの発がんの原因のひとつ、それも5段階評価で最高の「明らかに発がん性がある」と認定されたときに日本の消化器専門家が示した様々な困惑の表情を伝えていて、とてもおもしろい。
 日本ではピロリ菌はまず消化性潰瘍の原因として登場してきたように記憶している。その時に消化器専門家が示した強い拒否反応は今でもよく覚えている。わたくしが医者になったころには「No Acid、No Ulcer」と習った。つまり「胃酸なければ潰瘍なし」、潰瘍の原因は胃酸であるというわけである。さらにわたくしが医者になった後できてきたH2ブロッカーの潰瘍治療での切れ味というのも強烈なものであった。この胃酸分泌抑制剤の出現で外科医が失業したといわれたくらいで、潰瘍の外科手術が激減した。潰瘍は原則的に内科がみる病気になった。酸を抑える薬が劇的に消化性潰瘍を減らしたわけだから「No Acid、No Ulcer」の信念は不動のものとなった。研究は潰瘍患者の胃酸の酸度を測定したり、ストレスが胃酸の分泌をどのくらい高めるかというような方向にいっていた。そこに潰瘍の原因はピロリ菌です、という話がでてきたのだから、潰瘍研究者の反発たるた大変なものであった。何をバカなことを言っているんだという感じであった。今までの自分の人生をかけてきた潰瘍研究の全否定のように受け取ったひとも多かったのではないかと思う。
 それでもピロリ菌の治療をすると潰瘍の再発が劇的に減ることは間違いない事実であった。わたくしも当初はピロリ菌は潰瘍の再発にかかわる因子なのではないかと思っていた。最初に日本でピロリ菌の除菌が保健適応となったのは再発性の潰瘍であったと思う。それが潰瘍全体に拡大され、ごく最近、内視鏡で確認された慢性胃炎にまで適応が拡大された(それで患者さんというか感染している人が外来に殺到して、一時期、除菌薬が市場から消えた)。
 わたくしは除菌の対象を慢性胃炎にまで拡大して胃がんの予防にも使うということをするかどうかは、主として医療経済的な観点から決定されたのではないかと思っているのだが、違うのだろうか? ある年齢以上の国民の半数以上がピロリ菌陽性なのであるから、治療対象者は膨大な数になる。薬物は一週間の投与だけであるからそれほどのコストではないにしても、数が多ければ相当なものとなるであろう。将来、ピロリ菌陽性で胃がんで亡くなるかたがでたとき、国が早期から除菌を推奨していればこの病気を回避できたとして遺族が訴えるというようなことがおきるだろうか? ちなみにB型肝炎訴訟で国が最終的に負担する費用は3兆円くらいと見込まれているのだそうである。
 日本は胃がんの国であるので、胃がん研究者は膨大な数いる。ピロリ菌胃がん原因説というのは、その多くの人の生涯の研究のほとんどを否定するものであったのかもしれない。そのひとがピロリ説をしぶしぶ受け入れるまでに要した時間が15年という時間であったのかもしれない。メカニズムなどといいだすのは、それが確認できなければ納得できないという気持ちがそうさせていたのかもしれない。
 しかし胃がん研究者だってもうピロリ菌のほうにむかって気持ちを切り替えているはずで、実験室での研究で、ピロリ菌の胃がん発がんは菌が胃粘膜細胞DNAでのメチル化の異常の積み重ねから生じてくることがわかってきたらしい。そしてこのメチル化異常はピロリ菌の除菌をした後にも相当長期にわたって残存するようで、除菌をしたらすぐに胃がん発がんのリスクが軽減するというものではないらしい。とすると若い方は別としてある程度の年齢以上のひとには除菌の効果はあまり期待できないかもしれない。しかし少しでも有効性が期待できればするべきという議論もでるかもしれないし、この辺りは科学だけで結論をだせる問題ではなさそうである。
 このメチル化云々はもちろん実験室からでてくる話であり、やはり疫学だけでなく実験室も必要ということなのだと思う。ちなみに潰瘍性大腸炎やウイルス性肝炎からの発がんにもメチル化異常がかかわっているという説もあるらしい。
 ピロリ菌胃がん原因説で、ちょっと疑問に思う点は、日本ではピロリ菌除菌がはじまる以前から胃がんが減り始めていることで、これは大腸がんの増加などとも関連する食生活の変化によるものではないかと思っていたのだが、衛生環境の改善によるピロリ菌感染チャンスの減少なども関係しているのだろうか? 日本人がハワイやカルフォルニアに移住した場合の疾病構造の変化の研究(ニホンサン研究など)で移住により胃がんが減ることが報告されているが、これも食生活の変化ではなく、衛生環境の差によるピロリ感染率の差によるのだろうか?
 さて、津田氏は150年前にベルナールが実験室へと追いやった医学研究の舞台が、今、診察室や病室、あるいは地域へともどってきているのだという。それにもかかわらず、臨床研究の膨大なデータが分析もされずにカルテの中に残っているのだ、と。現場から仮説を創出し、データを解析し、その中から治療や予防に役立つ知識が生まれると津田氏はいう。しかしわたくしが今、日常の臨床で使っている手技あるいはそのために利用しているデータのなかに、カルテのなかからでてきたものがあるとは思えないのである。日本ではそういう研究がなされていないから日本からはでてきていないということならわかるのだが、欧米からもでてきていないと思う。
 われわれが日常臨床で一番知りたいと思うこと、どの程度の血圧から降圧剤を用いるべきなのか? コレステロールの高値は本当に下げなければいけないのか? 糖尿病のコントロールというのはどの辺りを目標にすべきなのか? あまりに厳密なコントロールはかえって有害なことがあるというがどの程度本当なのか? というようなことについてのさまざまなEBMデータがたくさんあるわけだが、それらはビッグ・ファーマの圧力によって大きく歪められている可能性が高い。これからビッグ・データの時代になれば、そのような圧力にもかかわらず真実が明らかになってくるのかもしれないが、ビッグ・データの収集は個人の臨床のレベルとはまったく次元の違う仕組みを作らなければ蒐集できないような気がする(そうでもないのだろうか?)。
 わたくしがかかわっている肝炎の分野では、ブランバークがHBs抗原を見つけたのはまったくの偶然であり氏は肝炎の研究をしていたわけではなかった(氏は人類学者で、みつけたオーストラリア抗原・・後になってB型肝炎ウイルスが過剰に産生するウイルスの外皮であることがわかった・・をオーストラリア原住民に古代から受け継がれてきた遺伝因子であると考えた。後にそれをもつものに肝臓に異常を持つものが多いことがわかっても、当初は、肝炎にかかりやすい遺伝的因子であると考えた)。その発見により輸血後肝炎を防ぐべく、輸血のスクリーニングをしても、肝炎の発生がなくならなかったため少なくとももう一種肝炎をおこすウイルスがあるであろうことが予想された。そのため、発見競争がはじまった。今度はあることがわかっているものをひたすら探すのだから、そしてそれを見つければ商売になることはわかっているのだから、様々なヴェンチャービジネスが乗り込んできた。カイロン社というヴェンチャーがそれに成功したのだが、その後が異常で、そういう発見があれば、次々と論文がでてくるはずなのだが、一切それがなかった。特許がとれるまで情報が遮断された。本当かどうかしらないが、C型肝炎ウイルスを発見した人たちはビジネスマンであることをやめて研究者になったのだそうである。ひょっとするとノーベル賞と思ったらしい。ブランバークがB型でもらったのだから、C型で自分もと思ったのかもしれない。金ができたらあとは名誉ということかもしれない。
 しかしどういう目的であろうと、C型肝炎ウイルスの発見によって事実上、輸血後肝炎の発生はなくなった。こういう進歩がカルテの記録のなかからでてくるとは思えないのである。最近はB型、C型肝炎ウイルスに対する薬が次々とでてきている(今月にも新しいC型肝炎の薬が市場にでた)。これらはエイズ治療研究の副産物らしい。エイズ治療研究に投下された資金というのは莫大なものであったらしい。その過程で多くの抗ウイルス作用のある物質が合成された。エイズは今やコントロール可能な病気になってきているらしい。そして、エイズには効かなかったが肝炎ウイルスには効く薬がいろいろと発見されたわけである。
 こういうものもまたカルテの記載の中からでてくるとは思えない。エイズが問題になりだした当初は、カポジ肉腫の男性同性愛者での多発というような話題からスタートしたように記憶している。こういうことに気がついたひとは偉いと思う。スタートはまさにカルテからであったわけである。しかしそれをどうやって治療するかということはカルテからはでてこない。
 わたくしの感覚からいうと今の医療の世界でエポック・メーキングな診断・治療手技というのはほとんどが巨大な資本の投下の産物として生まれてきたものなのであり、個々の医者の日々のささやかな営みのなかから生まれたものはほとんどない。もちろん個々の医者がおこなうささやかな実験室での研究からも生まれていない。だから津田氏が研究室からは何も生まれないぞというのは本当だと思うけれど、そうかといって臨床の現場から生まれるかといえば、そんなこともないと思う。
 「17世紀の物理学に始まった観察から理論を求める科学的アプローチは、20世紀後半にようやく人間に到達した。現在は、世界的にその普及時期だが、日本がまったく取り残されている」というのが津田氏の結論である。
 帰納から科学がスタートするのかがわたくしには疑問であるが(ポパーの信者なので)、人間についての学というのはずっと人文学の専売特許であったのが、20世紀後半になってようやく自然科学にも出番がでてきたということであれば、その通りであろう(それについては医学の貢献はあまりないと思うが)。生物学は目的論から離れるのがきわめて困難であるが、進化論の導入によってようやく目的論を自然科学に取り込めるようになった。その点ではむしろ日本は有利であるかもしれないので、キリスト教という抵抗勢力がほとんどいないからである。ウイルソンの「社会生物学」は人文学者からはこてんぱんであったが、とにもかくにも社会学の分野に生物学が口をだせるようになった。文学者などはいまだにフロイトの説を無条件に信じているひとがいるが、生物学を学び脳を研究しているひとにはそういうひとは多くないはずである。人間とはどういうものかということについて、少しは自然科学がかかわれるようになってきている。ようやく(自然)科学的アプローチが人間に達したのである。人間を特別な存在ではなく一個の生物とみる視点が導入されてきた。
 医学はある見方からすると、ずっと以前から人間を単なる生物とみる視点をもっていた。むしろ、境は人間と人間以外の生物のあいだにではなく、生物と無生物の間に引かれていた。生気論があり、有機物は生命体以外にはつくれないとされていた。生命現象を化学の言葉、最終的には物理学の言葉で語れるということは、生物と非生物のあいだに何か神秘的なものを想定する必要がなくなるということである。それで、シュレディンンガーのような物理学者が「生命とは何か」と言い出したりする。生命現象とはエントロピーの増大に一時的に逆らうことであるとされたりした。
 わたくしにはそういうことが観察から理論をもとめることから生じたとはどうしても思えないのである。人間をただ観察していたら、それが過去をさかのぼるとチンパンジーにつながると思えるはずがない。ダーウインはガラパゴスでフィンチの嘴を見たのかもしれないが、その観察と「種の起源」の主張の間には天地の開きがある。そこには途方もない飛躍がある。その飛躍が科学であり、進化という仮説のもった力である。
 「17世紀の物理学に始まった観察から理論を求める科学的アプローチは、20世紀後半にようやく人間に到達した。現在は、世界的にその普及時期だが、日本がまったく取り残されている」と氏はいうのだが、「17世紀の物理学に始まった観察から理論を求める科学的アプローチ」という部分が問題なのだと思う。これは津田氏も「医学と仮説」でいっているようにフランシス・ベーコンのものである。「ベーコンは個人的な好みを否定して観察することを説いている」と津田氏は言っている。ところで、そのすぐあとで「現代では、科学的観察は白紙の状態で行うのではなく仮説を元に行う。そもそも何ものにも影響されずに自然を観察することなど不可能である。・・観察とか証拠というものは、理論の影響から自由ではない」と書く。この辺りが「医学と仮説」を読んでいてもわからないところで、津田氏がベーコンの枚挙主義を肯定しているのか否定しているのかが分からない。「自然科学は演繹法帰納法のいいとこ取りをしている」などと曖昧な言い方をする。観察の理論負荷性ということをいうのならば帰納法の否定である。「現在では」などという遁辞はまずい。津田氏の議論をみていると、疫学を肯定するために科学の歴史の理解を曲げているように思えてしまう。疫学は帰納法に親和性を持つ。それで帰納法を採用したいのだが、しかし科学哲学を学んでみると、ベーコン的帰納主義はきわめて旗色が悪い。それで「いいとこ取り」などということになる。
 いま読みかけで感想を中断している「病の皇帝「がん」に挑む」には「マウスと人間」という章があって、マウス白血病細胞を移植したマウスでの化学療法での分析で、化学療法は、1)ある割合の細胞だけ殺し、その割合は薬に固有であること、2)薬には相乗効果があること、が見いだされたことが、多剤併用療法を繰り返すという現在の白血病治療の基本的考えの出発点になったことが述べられている。ここで治療されたものはヒトの白血病ではなくマウスの白血病である。そこでの結果が人間に当てはまるとは限らない。しかし、白血病は致死的な病気であり、その治療もまたしばしば致死的である。人間で実験ができないとしたら、マウスからの知見でもささやかな根拠とせざるをえない。すがれる藁がほしいのである。
 津田氏は疫学という観点から医学や医療をみているのであり、その観点からすれば、今の医学教育や臨床研究が危機的状態にあると見えるのだと思う。その気持ちは理解できるし、その指摘は間違っていないと思う。しかし、だからといって疫学がすべてではないので、医療というのは使えるものなら何でも使うという「科学」とはなりえない部分を持っているのだとわたくしには思える。疫学からの知見は間接的証拠であって、科学的な直接的な証明ではないとみなす見解は何も日本の遅れた医者にだけ見いだされるわけではないようで、「病の皇帝「がん」に挑む」では「疫学的に喫煙と肺がんの関係は証明されたが、その関係を原因とみなすことはできないとしたリトルというひとのことが書かれている。「原因」という言葉が問題なのだと著者のムカジーは言っている。日本だけはないのである。
 さて、医学的根拠とは何なのだろうか? 前にも述べたように、多くの医者は病理学であると思っているのではないだろうか? もちろん、日常臨床で直接に病理検査をすることがそれほど多いわけではない。しかし、レントゲンをとっても超音波検査をしても、血液検査のデータをみても、医者が背後に思い浮かべているのは、病理学的な変化なのだと思う。レントゲン写真はただの白黒の点の集合であるかもしれないが、そこにある変化は医者の頭に肺のおきている正常ではみられない肉眼的あるいは顕微鏡的変化を想像させるのである。血液検査のデータもそうである。そういう病理学変化が必ずしも想定できないものに精神科疾患や心身症といわれるものがある。だからそれがそもそも病気であるのかということが常に問題となってくる。
 病理学的見方は既知の病気にしか有効でないかもしれない。だから、水俣病のような未知の病気をみたときは無力であろう。喫煙と肺発のように原因と結果の時間的経過がとても長い場合にも、原因究明には無力であろう。津田氏があげる例がそのような例であるので、病理学的、メカニズム派的アプローチは道化役を演じることになるが、日常臨床で遭遇する症例のほとんどは既知の病気なのであるから、そういう場合には、医学あるいは医療を科学の中にとどめるものは病理学なのではないかとわたくしは思う。器質的疾患という見方は西洋医学の最大のアキレス腱かもしれないが、それにもかかわらず、それがかろうじて臨床医学を「科学」につなぎ止めているのではないかと思うのである。
 よく読んでみると津田氏も実験室の研究を完全に否定しているわけではないらしい。ただそういう研究を医学部でおこなうことが納得できないようなのである。そういうものは理学部で研究すればいいではないかと。しかし理学部では病気のことを研究する動機がないのではないだろうか? 生命現象そのものを研究するのが本務であるのだから人間にこだわる必要もないし、本流からはずれた病的な現象を研究する志向もないだろうと思う。理学部のひとが生物の正常の機能を解明してくれているからこそ、医学部での病的現象の研究が可能になるのではないだろうか?
 

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