津田敏秀「医学的根拠とは何か」(4)第3章「データを読めないエリート医師」

 
 a)福島原発事故
 本書で繰り返し批判される100ミリシーベルト以下の被爆では発がんリスクなしとの議論を再度とりあげている。こういう主張をするひとは広島・長崎の疫学調査で100ミリシーベルト以下の被爆のものに有意の発がん率の上昇がみられなかったということを根拠としている。しかし、有意差がないということと、リスクがないということでは決してないということをそう主張するひとはわかっていないという。福島の被爆者数は広島・長崎の被爆者よりも多く、放出された放射線量も広島の170倍くらいと推定されている(これはわたくしは知らなかった)ので、広島や長崎の経験では認められなった有意差が今回はでる可能性がある、それをほとんどのひとが理解していない、と。
 b)診断X線の影響
 妊娠中や生後の被爆で、白血病などのがんの多発が報告されている(100ミリシーベルト以下の被爆)。22歳までのCTスキャンが脳腫瘍や白血病リスクを2〜3倍増やす。大人でも心筋梗塞後の心臓検査(冠状動脈造影検査?)で5年で1.003倍がんを増やす(ここの記載がよくわからなくて、10ミリシーベルト被爆が増えるごとにそうなると書いてあるのだが、冠状動脈造影の被爆量は平均どのくらいなのだろう? 10ミリなどというレベルではないと思うが)。0歳から19歳までにCT検査を受けたものであらゆるがんが増加していることも報告されている。
 このことからも、福島原発事故被爆問題で100ミリシーベルトで切ることの根拠がないことがいわれる。この問題で専門家としてでてきたひとのほとんどが「直感派」か「メカニズム派」で、彼らはいずれも現代流のデータ分析も、疫学研究の結果の読み方も知らないと思われる、と批判されている。福島では定量的な分析がなされていないのだ、と。
 c)O157食中毒事件
 このような事件がおきた場合の基本中の基本はこの中毒事件の対象者に対する質問紙による調査であって、中毒をおこしたひともおこさなかったひとも、何を食べたかを徹底して調査することであり、それによって中毒をおこした原因の食物が特定されていく。しかし実際におこなわれたことは、入院した患者が何を食べたかの調査だけであった。疫学者ではなく細菌学者が主としてこの問題に対応したので、O157遺伝子のタイプ分けと、食材からこの菌をさがすことに注力した。しかし疫学調査なしに因果関係がみえてくることはないはずである。
 食中毒事件の場合、まず疫学調査をおこなうべきことは食品衛生法にも定められている。にもかかわらずその意義を理解している医療関係者がほとんどいないためそれが使われないのだと津田氏はいう。世界から100年遅れている、と。なぜ、そうなるのか、大学医学部であいもかわらず要素還元主義的な病態生理学にもとづく教育を基礎医学として2年間も教えることをしているのがいけないのだ、という。
 ここにいわれていることは実感としてわたくしにもわかる。何しろ、医学部で最初の基礎医学の授業ですっかり医学がいやになってしまった。解剖学、生理学、病理学、薬理学、生化学といった講義の連続なのだが、解剖実習などというのはもっと後になってからやったほうが絶対に役にたつはずであるし、生理学は脳の伝達物質の電子顕微鏡写真、病理学も顕微鏡写真、薬理学は筋肉の収縮の話でやはり電顕写真、生化学はそのころはクレブスサイクルあたりの話、そしてその合間にこの研究で誰それがノーベル賞をとったという話で、どこにも人がでてこないのである(ノーベル賞をとった人の話だけ)。
 津田氏が医学というのは人について学問だと強調する気持ちは実によくわかる。医学部は最初の2年が教養学部で3年目から基礎医学がはじまり、そのあとから段々と臨床医学がでてくる構成に(少なくともわたくしの時代には)なっていた。実は教養学部の2年目に「統計学」の講義だけははじまっていた。それを教えていたのが高橋晄正さんで、グロンサン批判や二重盲検の導入などで医療の場に統計を導入したパイオニアの一人であると思うが、医学を科学にするのだ!と意気軒昂であった。しかし、大学紛争(闘争)で学生側にたったため、万年講師のままで終わったと記憶している。近藤誠さんと同じような経過である(ところで近藤誠氏は「数量化派」なのだろうか?「直感派」?)。
 当時そのように統計学だけは先に教えるということをしていたのは、それなりに先見の明があったのか、あるいはメカニズム派の牙城であった基礎医学の先生方が、うるさいことをいうやつは駒場送りということにしていたのかはよくわからない。少なくとも高橋氏の論に啓蒙されて宗旨を変えた「メカニズム派」の先生方がいるようには思えなかった。「あいつはあいつ、自分は自分」というような感じではなかったかと思う。基礎医学の先生方は自分は「科学」をやっていると思っているのでる。なにしろノーベル賞である。「科学とは何ですか」と尋ねたら「ノーベル賞をとれるような活動です」と答えかねないような人たちなのであるから、「高橋くんはいろいろいっているようだが、所詮は臨床だよね。臨床がもう少し「科学」的になるのは俺もいいと思うけど、あんなことしてもノーベル賞はとれないから、まあ物好きだよね」というようなものではなかったかと推察する。
 臨床というのがなぜ下におかれるかというと、そんなことをしていてもノーベル賞はとれないからなのである。津田氏は大学医学部のメカニズム派を批判するが、わたくしの教室の教授は教室員にノーベル賞をとれる可能性のない研究をしている奴は認めないと常々いっていたし、その前の教授は酔うと「勲章がほしい!」と叫ぶのであった。ノーベル賞がほしいと思って研究し、それがどうも無理だなと思うと勲章がほしくなるのかもしれない。
 閑話休題、津田氏はEBMでは、患者への説明は確率で定量的にするべきとしていることをいう。それで例としてタバコの害の説明があげられている。アメリカの医者なら当然できるはずだが、日本の医者にはできない例としてあげられているようだが、日本の医者でもそれなりには同じことはできるのではないかと思う。嫌煙派を好きではないわたくしだってできそうに思う。
 「タバコを吸う男性で喉頭がんに15倍、食道がんに7倍、肺がんには23倍かかりやすくなる」という説明の具体的な数字があげられないが(それだからだめといわれるであろうが)、やめればリスクが減ることも、慢性閉塞性肺疾患にかかりやすくなることも、それが悲惨な病気であることも、冠状動脈疾患にかかりやすくなることもいう。しかし言わないだろうと思うのは、ついでに酒も発がん物質なのでやめたほうがいいという話の部分である。具体的な数字をいわないのは知らないからではあるが(恥)、でもみる本によって数字は違うし(わたくしは喉頭がんのほうが肺がんより多いと思っていた)、第一、その数字の意味するものが患者さんにはさっぱり理解できないだろうと思うからである。凄く多くなるというのとどう違うかのか、副詞で語らず数字で語れと津田氏はいうのだが、一人の人間に命は一つしかないのだから、がんになるかならないかであって・・・、というようなことを考えるのはすでに統計学や疫学をまったくわかっていないことを露呈しているのであろうが、個人に確率を説明すると「シュレディンガーの猫」のようなことになってしまうような気がするのである。半分生きていて半分死んでいる猫。3年後に30%生きていて70%死んでいる患者さん。医者でさえほとんど理解していない疫学を患者さんが理解するということはさらに絶望的に困難なことではないかと思ってしまう。
 わたくしは肝臓屋さんであるので、アルコール依存症の悲惨はかなりみている。たばこはせいぜい本人が死ぬだけ(副流煙の話がすぐにでてくることは承知しているが)であるが、アルコール依存の場合にはまず家族の崩壊である。タバコで離婚というのはあまり聞かないが、酒で離婚などはいくらでもある。もちろん、酒は明確な発がん物質でもある。そんなものの販売を国家が許可しているというのは理解できない話である。
 しかし、アルコールはほとんど人類の歴史とともに古いものであるらしい。だからそれを根絶しようとすることはきわめて困難なことで、そのデメリットをしのぐ利点がどこかにあるだろうと多くのひとが考えいるために、あまりまじめにアルコールの根絶という話がでてこないのであろう。それにくらべるとタバコの歴史は多くの国ではたかだか数百年であるから、根絶することも不可能ではないのだろうと思う。そしてそれにともなう副作用も許容可能な範囲であるのかもしれない。
 しかし、わたくしには社会を清潔にしようとする運動への生理的な嫌悪感のようなものがあって、禁煙運動のようなものをどうしても好きになれない。「もしもタバコが健康にいいものであれば、誰もそんなものは喫わないであろう」というクラインの言葉に深く共感してしまう困った人間でもある(こんなことをいうクラインさんはもちろん文学者)。もしも禁煙したいという患者さんがいればもちろん協力する。タバコの害についての啓蒙もする。しかし、やめるかどうかの判断は患者さんの側のものであると思っているので、無理にやめさせることはしないし、あなたやせなさいともいわない。疫学上のデータによれば、独身の人間は結婚しているひとにくらべて明らかに短命であるが、独身のひとに結婚しなさいとも薦めない。
 ひとがある宗教に帰依して安心立命を得たとすれば、それはもちろん結構なことである。しかし、そのひとがあなたも帰依しなさいといってくるならば断固拒否する。わたくしは禁煙運動にある種の宗教の匂いを感じてしまう人間なのだろうと思う(おそらく清教徒的な)。そしてわたくしはある種の宗教がもつ押しつけがましさというのがとても嫌いで、それで禁煙運動にも何かいやな感じを抱くのだと思う。
 そして、いまここで津田氏の論に微妙な反発を感じて口をとがらせていろいろなことを書いているのも、津田氏の論に何か淡い宗教的な色を感じてしまうからなのであろう。清教徒的な不寛容のようなものをどうしてもどこかに感じてしまう。そして宗教が科学の言葉で語るというのは非常にまずい事態じゃないかなあと思ってしまう。
 津田氏自身は「科学」として語っていると思っているはずで、数字という無色透明で価値中立的なものが示す事実の述べているだけと堅く信じているはずである。だからわたくしのいっていることはまったくの言いがかりとしか思えないと思うけれど、わたくしのように感じてしまうひとがいるというのも事実なのである。
 それはわたくしが「非科学」の段階にとどまっているからであるというのが津田氏の見解であると思うが、困ったことにわたくしは自分ではかなり「科学的」な人間ではないかと思っている。ではわたくしの考える「科学的」とは何かといえば、自分は間違っている可能性があると思うことであり、「非科学的」とは自分が正しいと信じることである。という定義からすると、わたくしには津田氏にはいささか「非科学的」なところがあるように思えるのである。もちろんわたくしの考えは間違っているので、津田氏が正しいのであろうが。
 こういうわたくしの考えは自分ではポパーから学んだものであると思っている。ポパーは科学哲学の陣営のひとである。「医学と仮説」で津田氏は日本の医学をふくむ自然科学研究者のほとんどが科学哲学にふれたこともないであろうことを嘆いている。わたくしは大学で正規に学んだのではないが、自己流で科学哲学の本を少し読んだ。それはおそらく大学紛争(闘争)というものを経験したためで、そうでなければそういう方向の本は読まなかっただろうと思う。最初は村上陽一郎さんの本だったと思う。「近代科学と聖俗革命」などは本当に面白かった。そこで現在世界を席巻している西洋科学を相対的にみるという視点を教わった。村上氏はファイアアーベントやクーンに近い立場ではなかったかと思うが、わたくしはポパーに帰依した。
 科学哲学というのは今から思うとポスト・モダンの流れのどこかに属するのではないかと思う。明らかに西洋近代への反省、その相対化という視点を根底にもつ。「科学」という言葉を錦の美旗でふりまわすなどというのとは科学哲学からもっとも遠いものだと思う。ポパーは西欧至上主義のようなところがあるから科学哲学のなかでは異端であるが、クーンのいう「ノーマル・サイエンス」に従事している自称「科学者」を真理への探求を忘れた嘆かわしい者たちと批判するのであるから、津田氏が「科学」としていることもまた「ノーマル・サイエンス」の一部とみなし「科学」とはしないのではないかと思う。
 津田氏はいま欧米で主流となっている「数量化派」についての疑念というのはあまりもっていないように思う。確かに欧米では主流かもしれないが、主流ではあっても正しいとはいえないかもしれないぞという視点は感じられない。
 大幅に脱線した。元に戻す。奥村康氏が批判されている。このひとの喫煙擁護論の批判である。奥村氏については以前に別の本について、ここで茶々を入れたことがある。津田氏は奥村氏が自分でデータを調べもせずに伝聞情報でものをいっていることを批判しているが、奥村氏はもともとあまり真面目に発言しているわけではないから、それを真剣に批判すると術中にはまってしまうと思う。奥村氏は氏からみてあまりに一方にかたよりすぎているように見える議論を、それってあまりに極端でないですか、こんな風にもみられないですかということをいっているだけだと思う(ついでにいえば本書で同じく徹底批判されている養老孟司氏の場合も同じだと思う)。
 おそらく50年前くらいの日本の男性の喫煙率は80%くらいであったのではないかと思う。それが今では半分以下になっていると思う。禁煙10年でリスクが半減するとして、喫煙開始から発がんまでどのくらいの時間がかかるのかが問題だが、津田氏がいうように奥村氏が肺がんはいまだに増加しているというのは嘘であるとしても、日本における禁煙運動の隆盛と肺がんの罹患率の変化の関係にいささか腑におちない点があることも確かなのではないかと思う。そういう点については未だに充分に説明できない点もあるといえばすむことではないかと思うのだが、そのあたりも全部説明できるとするためにかえって相手につけ込まれることになるのではないかと思う。
 わたくしが以前とりあげた本では奥村氏はコレステロールは300まで放置して可といっていた。この問題については「下げろ派」と「下げなくてもいい派」が対立していて、どちらも自分の説に都合のいい疫学データを示して譲らない。わたくしのような素人はどちらが正しいのかはわからない(何となく「下げなくてもいい派」が正しいような気がしているのだが、それはその派の金回りがいたって悪そうという根拠の乏しい「直感」によっている)。こういう点についてぜひ疫学の専門家である津田氏の見解をききたいと思う。それから肥満と健康の問題についてもぜひ意見をききたい。日本の肥満の基準というのは明らかに厳しすぎるのではないかと思っているのだが、それとて根拠があって思っているわけではなく、アメリカではBMI30以上が肥満なのに日本では25というのは変ではないと思っているだけである。でも変じゃないかという議論には、日本人は節約遺伝子がどうたらこうたらで軽度の肥満でも耐糖能の低下をきたす云々というメカニズム派からの正当化の論議がでてくる。メカニズムはあくまでも因果関係は説明せず、数量化こそが因果関係を示すのであるとすると、ぜひ疫学からの意見をききたい。ときどきBMI26前後が一番長生きなどという説がでてくるが、それが信用できるものなのかどうかを知りたいと思う(データくらい自分で調べろといわれそうであるが)。
 またまた脱線してしまった。
 d)水俣病の認定問題
 水俣病の主要症状は四肢末端優位な感覚障害や口周囲の感覚異常である。しかしこのような感覚異常は糖尿病などでよくみられ、頸椎症や脳梗塞でもみられる。であるので、レントゲンで頸椎に異常がみつかったり、CTで脳に変化があれば、それは水俣病による症状とはいえないとされかねない。そえで「四肢末端優位な感覚障害や口周囲の感覚異常」以外にもう一つ症状がある場合にはじめて水俣病とするという認定基準がつくられた。これって変ではないかということである。糖尿病患者が水俣病になることはないか、そんなことはないだろう、と。
 水銀汚染の地域とそうでない地域でこのような神経症状の発生に明確な差があるかどうかが問題で、その疫学調査が因果関係の決め手であるはずである。個々の患者の症状がメチル水銀中毒によるのか糖尿病によるのかを決定することなど決してできない。しかしこの病気に主としてかかわった神経内科医にはそのことが理解できなかった。個々の患者をどうして判定し認定するかにこだわった。また病理学者は脳に水銀の沈着があるかというような方向にいった。しかし沈着があるからといって症状の原因となっているとはいえないということに、かれらもまた気づいていなかった。
 神経内科医も病理学者もともに「メカニズム派」(神経内科医には「直感派」もいるとされるが)であるので計量化してみてみるという発想がない。そもそも水俣病は食中毒事件なのである(このことはわたくしは考えなかった。食中毒というと急性のものを思い浮かべてしまう)。であればまずおこなうべきことは疫学調査である。いろいろな地域におけるこれら症状の発生頻度とその頻度が高い地域における摂取する食料の関係を調べればいいのである。
 ここまではまったく異論のない議論である。ここからがわからないのだが、氏は「「個人の因果関係」は科学的にはあるともないとも認識不可能なのである」という。だから被告の国はそれを逆手にとって、「集団」の因果関係を「個人」が原告の民事損害賠償の場合には直接には適応できないと主張したのだが、「これでは、裁判における原告個人の因果関係の問題は、科学に基づくべきではないと主張していることになる」と津田氏はいう。個人の因果関係を問う裁判では「科学的」には何もいえなくて、「集団」に対しては疫学から因果関係は「科学的」にいえる、だから集団を救済することは裁判でも可能であるが、救済された集団のなかに一部、水俣病に起因するのではない症状のひとも含まれてしまうが、それは止むをえない。しかし個人の訴訟の場合にはその人が水俣病によるものでない可能性を否定できないことは当然なのであるから、「科学」とは別の根拠から対応を決めるべきであるとわたくしには思える。「これでは、裁判における原告個人の因果関係の問題は、科学に基づくべきではないと主張していることになる」というのはその通りなのだと思う。「基づくべきではない」ではなく「基づけない」ので、別の原理に基づくしかないということなのではないかと思う。
 この辺りは「科学」という言葉の解釈の相違であって、津田氏とわたくしの見解は根本のところではあまり違っていないのかもしれないが、わたくしにはここででてくるものは「科学」ではなく「価値判断」なのではないかと思えてしまう。
 e)乳児突然死症候群(SIDS)
 これは健康と思われていた乳児が突然死亡している状態で発見されることを指す。ほとんど状況のみを指す診断名(?)であるから、その原因にはいろいろなものがあるが、そういう他の原因が特定できるものは除外されてそれぞれの病名で呼ばれ、それが特定できなかったものがこのように呼ばれる。現在ではその多くがうつぶせ寝と関連していると考えられている。
 それは疫学調査でうつぶせ寝と仰向け寝では前者のほうにSIDSが多くみられるからである。うつぶせ寝が一時普及したのは「スポック博士の育児書」で有名なスポック医師が1956年の版からこれを推奨しだしたことが影響しているらしい。
 日本でも1994年にSIDS学会が設立されている。しかし諸外国では疫学データからうつぶせ寝への警告が次々と発せられていったにもかかわらず、日本ではそれがなされず、これに関する疫学調査もおこなわれなかった。
 津田氏によれば、SIDS研究者がほとんど「直感派」と「メカニズム派」ばかりで数量化ということを知らないひとたちばかりであったことが原因であるという。もちろん数をかぞえることはしていた。しかし、それぞれの報告例がSIDSであるのかそれ以外の原因であるのかといったことばかり議論していて、剖検例の検討やメカニズムの議論が続いた。
 警告がだされたのは1998年になってで、それは「数量化派」も加わった検討会ができたためである。(なお、最近の研究では親の喫煙(+人工栄養?)も、うつぶせ寝以外の要因とされているらしい。) 多くのSIDS研究者は、虐待との関係、先天的な呼吸機能の低下というような可能性も念頭においていたらしい。
 津田氏はいう「現在、日本の国もしくは地方の行政が、「専門家」を研究会や検討会に呼ぶ中に、数量化派は通常含まれていない。「専門家」と俗に呼ばれる人たちが人間判断(医学判断)に関する専門家ではない点は、十分に国民は認識しておくべきだ。」と津田氏はいう。
 医学判断の専門家は「数量化派」だけであるとしているようである。反発するひともいるだろうなあと思う。わたくしは裁判で正式に証人になった経験はないが、医者をしている関係上、友人の弁護士から内々の相談をうけるようなことがときにある。
 たとえば、ある高齢の女性が老人施設に入所していて具合が悪くなり、病院に搬送されたがそこで亡くなったというようなケースで、家族は老人施設でもっと早く異常に気づき早期に搬送していれば救命できたのではないかとして老人施設を訴えようというものである。わたくしが資料を見せられての印象では、老人施設側には特に問題はなく、むしろ病院に送られてからの病院の対応のほうにかなり問題があるように思え、訴えるなら病院のほうではないかと思ったのだが、家族は老人施設のほうを憤っており、病院には深く感謝をしているということであったので、訴訟をおこしても勝ち目はないと思うという意見だけをいった。
 このようなケースの判断には「数量化派」がとくに役にたつようにはわたくしには思えない。EBMというのは個々のケースの医療判断においてもつねにマスのバックグラウンドを考慮にいれろということであると思うが、今の事例にかんしては、そのバックグランドというのが想定できない。
 「日本の国もしくは地方の行政」と津田氏はいうのであるから、津田氏が念頭においているのはやはりマスとしての疾患の認識なのではないかと思う。マスを対象にしたことであれば疫学が有用であることはいうまでもない。その点にかんして日本はきわめて遅れているというのは津田氏の指摘の通りであろう。
 津田氏はいくつかの裁判事例を提示している。そこでのケースでは疫学的に蓋然性が高いものであれば、個々のケースでの因果関係を特定することは多くの場合困難であるから、疫学的に可能性の高い疾患とするしかないとされる。その場合、本当の原因は別であるケースもある程度ふくまれてしまうことはやむをえない(糖尿病による神経症状が水俣病と認定される、など)。
 しかし臨床の現場にいる人間からすると、多くの医療裁判はちょうど逆のケースなのではないかと思う。ある症状で病院にいった。何でもない、あるいは大したことではないといわれた。しかし、それはある重大な病気の初期症状であった。この時点で治療をはじめていれば救命できたものを・・といったケースである。
 ここで主張されていることは間違いのない事実である。医師が誤診し、その結果救いうる生命が失われた、すべて真実である。問題は受診のきっかけになったある症状というのは大部分の場合には放置しても何ら問題のないものであるということである。疫学的には「異常なし」「心配なし」なのだが、出てきた結果は明確な異常であった。
 日常臨床において医者はつねに疫学を頭において診療しているとわたくしは思う。医者が一番多く用いる治療戦略は「Watch & Wait policy」である。偉そうな名前であるが、何のことはない「もう少し様子をみましょう」である。様子をみていても一向によくならない場合にはじめて、何かあるのかなと考える。大部分の場合にはそれで問題になることはない。大部分の場合をあつかうのが疫学であるから、われわれは疫学的思考をしているのではないだろうか?
 問題は放っておいて大丈夫と思ったのに実はそうではなかったという誤診がある割合でおきうるということである。それを見つけるのが医師の仕事ではないか、そのためにお前たちは日々研鑽をつんでいるのはないかといわれる。裁判でも、この時点で診断することは可能であったときかれる。可能ではあったとのだろう(あの検査をしておけば)。そして、その時点で診断して治療を開始していれば助かった可能性が高い。
 とすれば、ほんのわずかな異常でも蓋然性の低い病気の除外のために検査をするべきか。レントゲンをとるべきであったか? CTをとるべきであったか?(しかしそれは事後の発がん性を少し高める)。でも事後の発がん性が問題になるのは今を生き延びた場合である。その患者さんは亡くなってしまい、事後などというのはなくなってしまったのだ・・。
 本音をいえば、医者はそんなこと無理だよ、その時点では診断できなかったよ、と思っている。しかし事実として患者さんが亡くなったということがある。その事実には誰かが責任をとらなければならない。医者は責任をとるために存在している。だから責任をとるのは仕方がないことである(運が悪かったとあきらめて・・)。「運」というのも疫学的に説明できる概念なのだろうか?
 一時期の医療事故の報道あるいは裁判はあらゆる場合に正確で的確な診断ができる神のような医師を想定していると思われるようなものであった(「メカニズム」からだけいえば正しい診療は「理論」だけからいえば可能ではある)。最近はそれらが少し減ってきているように思われる。そういう完全無欠な医師をもとめていると、誰もある特定分野の医師にはならないようになって、医療崩壊といわれる事態がおきつつあることが認識されだしたためかもしれない。やはり疫学的思考がある程度は普及してきたということなのだろうか?
 それで最後が、第4章の「専門家とは誰か」。

医学的根拠とは何か (岩波新書)

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