津田敏秀「医学的根拠とは何か」(2) 第1章「医学の3つの根拠」
前回の(1)でみた放射線の発がんの閾値の問題で、二年前に読んだ中川恵一氏の「放射線のひみつ」を読み返してみた。100ミリシーベルトの説明として以下のように書いてあった。「人体に影響が生じはじめる(発がんリスクの上昇がわずかに認められる)放射線量。放射線の人体への影響に関して、科学的根拠が確立されている最低線量です。これ以下の線量では、明らかな人体影響は「観測」されていません。だからと言って、「100ミリシーベルト以下の被ばく線量ではがんは増えない」ことを意味するわけではありません。実際、科学的に確立された根拠とは言えないまでも、胎児の被ばくに関しては、10〜20ミリシーベルト程度でも、発がん率の上昇をうかがわせるデータが存在します。」
ここでも「科学的」という言葉が用いられているがその根拠は広島・長崎と書いてある。中川氏がいうには100ミリシーベルトの被爆による発がんリスクの上昇は最大限0.5%。日本人の3人に一人ががんで死ぬから33%の発がんリスクに0.5%が上乗せされてもほとんどそのリスクはかわらない。一方、タバコを吸うと発がんリスクは1.6〜2倍になる。発がんリスクが2倍になる放射線量は2000ミリシーベルトである。放射線のリスクはタバコよりずっと少ない。そこから先は書いてはいないけれど、低線量の放射線のリスクを過度に怖がることはない、といいたいのであろう。
もしも閾値がないとすれば、ほんのわずかでも放射線をあびれば少しは発がんリスクは高まる。これは「人体」で「観測」されたデータからは示せないかもしれないが、実験動物でのデータからの「理論的」帰結としてはそうなる。中川氏のいっていることは、しかしそうではあったもそれは「臨床的」にはほとんど意味がないということであろう。
ここらあたりから「臨床」は「科学」であるのかないのかという例の議論がすぐに出てきそうである。ある薬があったときに、それが持つ副作用をどの程度までが許容できるかを決めるのは「科学」ではないような気がする。
タバコに発がん性があることは確かであるとして、それならばほんの少しでもタバコの煙に接すれば、将来の発がんリスクがほんの少しだけあがる。そうだとすれば、世の中からタバコの煙が完全に一掃されることが望ましい、そう禁煙派の人たちは考えているようである。医療に用いる放射線ではなく、今度の福島の事故での放射線被曝はまったくメリットのない被爆であるから、それはゼロであることが望ましい。同様にタバコは百害あって一利のないものであるから、この世の中から消えてなくなるべきである、そう禁煙派は考えていると思う。しかし、喫煙には何らかのメリットもあると思っている人たちもまだ少しはいる。そういう喫煙擁護派の主張と禁煙派の主張のあいだの論議に何らかの「科学的」な解決をもたらすことができるのだろうか?
ということで医学における科学的根拠とは何かを論じる第1章をみていく。津田氏は現在ではこの問題はかなり整理されてきており、具体的にはそれがたとえばEBMであるしている。EBMはEvidence based Medicine であるから「証拠に基づく医学」であると思うのだが、何故か津田氏は「科学的証拠に基づいた医学」と訳している。
a)ルイの数え上げ法
1828年に、ルイは当時の標準的な治療法であった瀉血を、病気の早期にしたひとと、発病数日してからおこなったひとを比較して、早期の人が多く死んでいることを示し瀉血の無効性あるいは有害性をしめした。これが臨床疫学のはじまりであると津田氏はしている。
しかし当時の医者は反発した。そういうやりかたは個々の患者から目をそらせることになるというのである。医者の主たる仕事は個々の患者の治療ではないか、と。
物理や化学の世界とは違って、人間には個性があるというような方向から統計や疫学を批判する医師たちを「直感派」と津田氏は呼ぶ。それに対してルイは「数量化派」である。
b)クロード・ベルナールの「実験医学序説」(1865年)
この本は生気論の影響が残っていた当時の医学界に科学的医学の原理を打ち立てたものといわれている。実験医学の特徴は、病気が特定の原因から発生し、決まった条件に従って決定論的に進行するとするメカニズム決定論である。ベルナールは統計は確からしさを与えることはできるが、科学的法則は確実なメカニズムの研究のうえに打ち立てられなければならないとした。「メカニズム派」のはじまりである。ベルナールもまた二人の人間は決して正確に似ていることはないというようなことをいって「数量化派」の行き方を批判した。
ルイはラプラスの「確率の哲学的試論」の影響を受けている。ラプラスは有名な「ラプラスの魔」を考えた。これは究極の決定論的世界であるが、しかしそれを知りうるのは魔(デモン)だけであるので、人間の知識は有限であるゆえに、統計学や確率の概念が必要になるとラプラスは考えた。
津田氏によればベルナールはデモンと人間を同じ位置に置き、ラプラスは違う位置に置いている。
細菌学者もメカニズム派であった。かれらもまた、統計学は洞察を提供するかもしれないが、科学的証拠は提供しないとした。
津田氏は「直感派」「メカニズム派」「数量化派」は相互に排他的とはいえないとしている。数量化なしには「アートとしての医学」は職人芸にとどまる。メカニズム派でも多数の観察結果の数量化を必要とする、と。
EBMは臨床研究からの根拠を重視する。臨床研究は人を対象にする。メカニズムからの推論で有効を予想されたものでも臨床研究では逆の効果があったり、効果がなかったりすることはよくある。歴史上、メカニズムに基づく医学的判断はしばしば間違ってきた。
国際がん研究機構IARCは人間での証拠が十分であれば、動物実験の証拠などなくてもそれを発がん物質と認定する。
1994年、国際会議においてピロリ菌が疫学的根拠から胃がんの発がんの原因として証拠十分とされた。しかし、それはあくまで間接的な証拠であって直接的な証拠がないとして日本では国立がんセンタを中心にした大規模な介入研究をおこない、そのためピロリ除菌が15年遅れてしまった、と津田氏はいう。日本では疫学的研究だけでは根拠不十分という、国際的にみるととんでもなく遅れた認識が多くの医者の共通認識となっている。
EMBがいわれだしたのが1992年だからもうそれから10年以上がたっているが日本ではいっこうに広がらない。まず「直感派」の医師がこれを嫌う。また日本の医学研究者の大半を占める「メカニズム派」もこれを嫌うからである、と。
津田氏は「直感派」「メカニズム派」「数量化派」の3つの区別をおくのだが、その3つすべての根底に現在の医学の根幹をなすものとしての病理学があると思う。津田氏は病理学もまた「メカニズム派」とするのであろうか? わたくしの理解では、がんかがんでないかを決めるものは最終的には病理学である。結核か結核でないかは細菌学的には結核菌がいるかいないかであるのかしれないが(しかし、結核菌がいても結核を発症しないひとはたくさんいる・・ペッテンコーフェルの問題)、たとえ結核菌の存在が証明されなくても病理学的に結核症と診断されることはありうる。
議論が無限退行に陥らないためにはどこかで歯止めが必要で、現在その役割をはたしているのが病理学であると思う。もちろん病理学診断が間違うことはありうる。しかし、それが間違いであったという議論がなりたつためには正しい診断というのがあることが前提となる。正しい診断という議論がなりたつためにはAという病気とBという病気は別の病気であると認識されうることが前提となる。AとBは異なる病気ということを研究しているのが「メカニズム派」なのではないかと思う。つまり「メカニズム派」は病気を研究しているのであって、治療の研究をしているのではない。しかし、病気の理解がすすめば治療の方法は自ずと明らかになってくると思っているはずである。
無限退行への歯止めとしての病理学的診断がほとんどなきに等しいために大きな問題が生じているのが精神医学の分野である。現在の精神医学の主流となっている「生物学的精神医学」は「メカニズム派」なのかもしれない。今は劣勢の「精神分析学派」は「直感派」であろうか? DSM−4とか5とかは「数量化派」に近いと思われる。
「生物学的精神医学派」も「DSM派」もともに精神医学をなんとか科学にしようとする努力の産物であろう。しかし患者ひとりひとりはみな異なる、個々の患者を診ないで治療などできるはずはないというという方向も(少なくとも精神医学の分野では)相当に根強いはずである。
この患者さんがうつ病であるという根拠は何ですか? 私がうつ病と診断したからですというのでは循環論法でお話にならない。なぜあなたはそう診断したのですか? だって患者さんをみればわかるでしょう? というのは究極の「直感派」であるが、精神医学の場ではまだまだ通用している議論のはずである。
臨床の場で広く流布している言葉に「重症感」というのがある。患者さんを一目みたときに医療者が感じる「あれ、何か変だ。これ、やばそう!」というような独特の感じである。こういう言葉が平気で使われているから、臨床の場がいつまでも科学の場にならないのだが、こういう「重症感」を感じるとる能力というのはやはり臨床経験と比例するようである。大学をでたばかりの研修医よりも甲羅を経た医者のほうがこういう場面では鼻がきく(などというのもおよそ科学的表現ではないが)。
その辺りのことをもう少し事々しく述べているのがベナーの「看護論」で、その出発点はパイロットの訓練らしい。新米のパイロットは計器をひとつひとつチェックしないと異常を発見できないが、ベテランはコックピットの計器類を一目みると、あっ!と異常に気づくらしい。全体を一挙にわかるということがおきるらしい。
パイロットの養成訓練で用いられるのはマニュアルである。看護教育でも当初はマニュアルからスタートする。しかし、経験をつんでくるとマニュアルなど使わなくなる。(ところで、DSMのMはマニュアルのMである。) そして経験をつめばつむほどマニュアル的な議論をばかばかしく思うようになる。多くの医療者が「数量化派」に感じるある種の違和感というのは、マニュアル的な診療に対する違和感と同じ根から生じているのではないかと思う。
しかし、そういうマニュアル不信派でも病理学は信じているのである。多くの医者が漢方治療というものに感じるなんとなくなじめない感じというのは、漢方医療というのは背景に病理学的な思考を持たないと感じるためではないかと思う。「理屈なんかどうでもいい。効けばいいのだ」というのはその通りで、日常臨床はほとんどがその線で行われているのだが、しかしそうはいっても「何で効くのかな?」ということはやはり知りたいと思う。それは人間の業のようなものかもしれないが、その業によってわれわれは少なくとも少しは前に進んできているのだろうと思う。
タバコは発がんに限らず健康のさまざまな面について大きな問題をもたらす。そうであれば、タバコを国家が強権的に使用をやめさせれば寿命は当然伸びるであろう。しかし、これもやってみないとわからないかもしれない。「メカニズムからの推論で有効を予想されたものでも臨床研究では逆の効果があったり、効果がなかったりすることはよくある」のであるとすると、疫学上の推論から有効と予想されたものでも、臨床研究では逆の効果があったりすることはないだろうか?
喫煙擁護派のひとが好んで嬉しそうに言及するものに「フィンランド症候群」がある。酒やタバコをやめさせるような介入は命を縮めるという話である。禁煙派はあの研究にはバイアスがはいっているので、そのまま受け取ることは間違いであるという。わたくしはどちらの論が正しいのかを判断する能力を持たないが、ここでの最大のバイアスは禁煙派か喫煙擁護派かということであると思う。どちらの眼鏡をかけているかで、同じデータが違ってみえるわけである。
禁煙を国家が強制するような国で生きることが、その国で生きるひとの寿命を短くする可能性はないとはいえないだろうと思う。もちろん、わたくしが今ここで述べていることは、自分でも信じていない屁理屈である。しかし、わたくしは国家が過度に個人に介入する国を好まない。特にそれが「科学」の名によって「価値中立的」であるような装いをもって行われることを好まない。それはわたくしがもつ強いバイアスである。それはさまざまな偏見を生むであろうことは十分に承知している。
本書を読んで津田氏の以前の著作「医学と仮説」を思い出し、再読してみた。以前読んだときは何となくピンとこなかった。
「医学と仮説」では科学哲学の問題がとりあげられており、ヒュームの問題からポパーまでが論じられている。しかしクーンなどの科学哲学は濃厚にポストモダン的な視点を持っているということ、つまり反=科学という思考、あるいは科学の相対化という側面を持っているということへの理解がいまひとつ足りないように感じた。
科学哲学の陣営のひとたちのなかではポパーが科学者に比較的人気があるのはそういうポストモダン的な色彩がもっとも少ない《「科学」の擁護者》とみえるからなのであろう。しかし「バケツとサーチライト理論」をいうポパーは観察の理論負荷性の側のひとなのだから、偏見なしに事物をみることなどありえないとしているわけである。価値中立的な科学を素直に信じるひとではない。
そしてクーンをふくむ多くの科学哲学者は、科学という営為をひとつのものの見方、西洋という一地方にある時期に優勢になった偏見とするほうに強く傾斜している。津田氏とは大きく立ち位置が異なっているように思える。津田氏はどちらかというとドーキンスなどの反=科学哲学派に近いのではないかと思う。
つまり科学という営為を深く信頼していて、医学あるいは医療が「科学」でないことを強く憂慮するひとではあるが、「科学」という営為への疑念というものはあまり持たないひとであるように思う。
だから「直感派」というのはひょっとすると「科学」への疑念という方向からきているのではないだろうかとか、「メカニズム派」の奉じる「科学」と「数量化派」の奉じる「科学」が科学哲学の方面から見れば同じと見えてしまうのではないかという方向へは議論が進まない。それがわたくしが本書に感じる不満であるように思う。
それで、氏の「科学」観を次の第2章「数量化が人類を病気から救った」から見ていきたい。
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