津田敏秀「医学的根拠とは何か」(3)第2章「数量化が人類を病気から救った」

 
 a)ジョン・グラント(1620〜1674)
 貿易商であるグラントは趣味としてロンドンの地区ごとの出生や死亡を集計し、死因を分析し、週ごとに報告した。それによりペストによる死亡が不規則におきる(他の慢性疾患による死亡は規則性をもっていた)ことから何らかの環境要因があることを推定した。ペストの流行は星の位置であるとか王の即位、死体が放つ瘴気と関係があると当時は思われていたのであるが、これとは関係ないことを推定したのである。また男児の出生は女児の出生より多いことも示した。ここで大事なことは病人だけでなく健康人も考察の対象としたことである。分母が大事なのである。
 b)ジェームズ・リンド(1716〜1794)
 壊血病の船員をグループにわけ、さまざまなものを投与し、オレンジとレモンを投与した群が有効であることを示した。それは壊血病の原因がヴィタミンCの欠乏であるからなのだが、ヴィタミンCが同定されたのは1932年である。原因のメカニズムが同定されていなくても、統計的な事実によって治療法が確立された例である。
 c)イグナツ・ゼンメルワイス(1818〜1865)
 産褥熱が医師の手洗いと消毒の励行により激減することをしめした。彼がそれを思い立ったのは、二つの産科病棟で産褥熱の死亡に差があったためで、死亡が低い病棟は助産師が、多い病棟は医師が出産の介助をしていた。医師は遺体解剖を素手でおこなったあと、手洗いもせずに分娩の介助をしていた。この当時、細菌というものは発見されていなかったが、統計から消毒の有効性が推定されたのである。しかし彼の主張は他の産科医には受け入れられなかった。死亡の原因が自分自身の手であることを医師が受け入れたくなかったからである。
 この話から、現代のタバコの問題に話が飛ぶ。肺がん、肺気腫、心臓病などタバコにもとづく過剰死亡は日本では年間10万人をこえる。これを科学的に認識した医師・保健医療関係者・民間人が禁煙を推進しようとすると、タバコは以前から社会に流布していたという理由だけで、そういう動きを「ヒステリック」を見るひとがいる。しかし、そういう動きは、禁煙を推進するものからは、世界で毎年600万人を越す死者を作り出しているタバコの害に対してあまりにおっとりしすぎていると見えるだろう、と津田氏はいう。(ちなみに困ったことに、わたくしもその「ヒステリック」と思う人間の一人で、「風立ちぬ」という映画でタバコを吸う場面が多いと抗議したという日本禁煙学会はどう考えてもヒステリックであると思う。さらにちなみにわたくしは宮崎駿さんというひとをあまり好きではなくて「風の谷のナウシカ」というのを見て、どうもこのひとエコロジー派ではないかと思うのである。わたくしはエコロジー派というのが嫌いなのである。エコロジー派と禁煙派というのは通底するのではないかと思っているので、ヘビースモーカーであるという宮崎駿というひとは不思議なひとであると思う。「風立ちぬ」という映画がアメリカで公開された場合、アメリカでも同じような抗議がくるのだろうか?)
 d)ジョン・スノー(1813〜1858)
 コレラの疫学研究をおこない、テムズ川からの取水をしている水道会社からの水を使っている地区でコレラが多く発症することを示した。
 e)ファーとナイチンゲール
 ファーは1839年にロンドンの人口登録局情報集約編集者として統計業務をおこなった。クリミア戦争での死亡統計の分析でナイチンゲールを助けた。
 以上が19世紀までの展望で、20世紀以降は疫学の現代化として別に論じられる。
 a)タバコと肺がん
 感染症のような急性疾患は原因が単純な集計だけから明らかになることが多い。しかし慢性疾患の場合には原因の特定が容易ではなく、さまざまな分析が必要になる。1950年代にはじまったタバコと肺がんの研究はそれの解明をめざすものであった。
 b)フラミンガム研究
 1948年にアメリカのフラミンガム州で開始された大規模な国家的研究。これで、高血圧やコレステロールあるいは習慣的な喫煙と飲酒や体重さらには糖尿病と心血管疾患の関係などが検証された。
 さらに研究方法の説明がおこなわれる。
 a)コホート研究
 人を追跡して発病の程度を観察する研究。1952年から開始されたアメリカがん学会でのコホート研究では1954年には肺がんと喫煙の関係が確認され、喫煙と心筋梗塞の関係も示された。
 1951年から開始されたイギリス医師会での研究でも喫煙と肺がんとの明瞭な関係が示された。さらに喫煙は心筋梗塞、慢性気管支炎(慢性閉塞性肺疾患)、消化性潰瘍、肺結核とも関連していた。その後の追跡で、タバコを一日25本以上吸っている人では50%が70歳までに死亡するが、非喫煙者では20%以下しか死んでいないこと、前者では85歳までに92%が死に、後者では67%が死んでいることも明らかになった。このコホート研究に参加した医師の喫煙者の割合は、この結果をみて激減したのだそうである。
 b)リスク比とオッズ比
 ともに暴露されていないひとと暴露されているひとでどのくらい多く病気が発生するかを示す数字。
 病気の有無がわかっているひとに対して過去の履歴をしらべる研究もあり、これはコホート研究が前向きの研究であるとされるのに対して、後ろ向きの研究といわれる。重大な病気の場合には何十年も結果がでるまで待つことは現実的ではないので、多くは後ろ向き研究がおこなわれる。技法の発達と洗練により、疫学研究は少人数の観察で短期間で効率的におこなえるようになってきた。
 c)放射線の健康影響
 1956年の研究で、妊婦が放射線検査を受ける場合、照射部位によって出生児のその後の白血病などの悪性腫瘍の発生頻度が異なることが示され、腹部への照射の影響が大きいことがわかった。1997年には、10ミリグレーごとに出生後の小児がんの頻度が上昇することが示された。日本では診断放射線による健康被害の問題がほとんど話題にならない点が気になると津田氏はいう。
 d)がんの疫学
 1964年にアスベストと肺がんや中皮腫の関連が明らかになった。このころからタバコと肺がんの関連も次々に明らかになってきた。
 e)大気汚染と健康
 1992年にあるアメリカの州の日々の死亡率がPM2.5と関連していることが示された。100マイクログラム/立法メートルの増加で4%の死亡率の増加がおきるのだという。
 ここから医学の研究対象の変化が論じられる。19世紀半ばのベルナール以降、研究はミクロの方向にむかった。一方、20世紀の疫学は人間の方向にむかった。
 ここで話題が「病気の原因とは何か」になる。
 疫学においては、疾患の発生速度を変える要因を病気の原因とみなす、「何倍その病気が多発する」という発生の程度によってわれわれは因果関係を知るのだということがいわれる。これは「結核の原因は結核菌の感染である」あるいは「ある遺伝子を持っていると特定のウイルスに感染しやすい」といった説明に慣れているひとには耳慣れないものであろうと津田氏はいう。氏によれば「結核云々」の説明は因果関係を説明しているのではなく病気の定義なのだという。それも病気の名前の付け方の一つに過ぎないという。たとえば腰痛症のように症状だけからつける病名もある、と。
 どうもこのあたり臨床の場にいる人間としては納得できない。結核症と腰痛症では診断のレベルが違うとしか思えないからである。結核の場合、肺結核と腸結核と腰椎に生じた結核ではまったく症状が異なる。それにもかかわらず結核症となづける意味があるのは治療の方向が定まるからである。一方、腰痛症はとりあえずの病名である。腰痛症なら鎮痛剤あるいは湿布をだすということでいいのならばその病名で充分であろう。しかしその腰痛がなぜおこっているかということを考えるのが普通である。おそらくレントゲンをとる(発がんリスクが若干増加する)。今ならばMRもとるかもしれない(脊髄の状態や脊椎や椎間板の状態が非常によくわかる)。それで椎間板ヘルニア腰部脊椎管狭窄症などと診断される。まれに前立腺がんの骨転移がみつかることもあるかもしれない。さらには膵臓がんが腰痛の原因であることになるかもしれない。
 さらに問題があるのは、レントゲン検査やMR検査でヘルニアや脊椎管狭窄と診断され、それに対する手術をしても一向によくならないひとが多数いるし、一方では明白なヘルニアや狭窄がありながら、まったく症状がないひともたくさんいることである。
 腰痛の原因の問題はいま整形外科の一大問題であるらしい。「心因性」の腰痛というものが非常に多いらしいのである。心因性と器質性の腰痛ではfMRなどで観察される脳の活動部位が異なるらしい。
 津田氏は人間では実験ができないから疫学が必要ということをいうのだが、どうも人間での実験がいろいろとできるうようになってきているらしい。もちろんfMRなどという大変な検査をどこでもするわけにはいかない。で、心因性とそうでない腰痛をどうやって区別するのか「患者をみればわかる」と「直感派」はいうであろう。臨床の場で「訴えの多い患者」と呼ばれる一群のひとたちがいて、四六時中どこか具合が悪いと訴えている。そういうひとが腰痛を訴えるならば「心因性」と診断されそうである。この前まで胸が苦しいといっていたのに、というわけである。
 しかし心因性と診断したからといって、それでうまく治療できるわけではない。むしろ治療がうまくいかない場合がほとんどである。そういう患者さんが外来に沈殿していき、外来通院患者の多くがそういう人たちで占められるようになっていく。そしてがんノイローゼの患者さんにはがんがおきないという保証はないのであって、昨日までの訴えは単なる心配性によるものであったが、今日の訴えは器質的なものかもしれないわけである。
 「器質的」という言葉は現在の西洋医学の宿痾のようなものであって、西洋医学の場では器質性疾患をもたないものはほとんど病人とは認定されない。病人あつかいされないひとは失望して、整骨院とか整体とかに走るのである。そこでは病人として扱ってもらえるし、何よりも何か治療らしいことをしてもらえる。少なくとも体にさわってもらえる。ろくに診察もせず、血液検査とレントゲンで、あとは鎮痛剤か湿布をくれるだけというのとは大違いである。
 どうも手当てということは非常に有効な治療手段であるらしい。そんなことはお母さんなら誰でも知っていることかもしれない。しかし手をあてるだけで治るなんて、なんだかアフリカの呪い師のようである(もちろんアフリカの呪い師のほうがわれわれよりもはるかに優れた臨床家であろう)。いくら有効だと思っても、痛みを訴える部位に口をつけたあと、口から血を含んだガーゼをペッと吐き出し、これでお前の病気は治ったなどという芸当はさすがにわれわれにはできないから、そういう非科学的なことはいやだなと思う人間が大学で病気のメカニズムの研究に励むのである。
 そして「器質性」という言葉の呪いがもっとも色濃くあらわれているのが精神医学の分野である。SSRIの投与とナラティブ・テラピーが同居しているのである。
 それはさておき、津田氏の「因果関係とは何だろうか」に戻る。
 ヒュームである。個別の観察をいくら続けても因果関係は定まらないということをいったのだとされる。しかし観察を複数回積み重ねれば・・、それが疫学だとされる。
 そうなのだろうか? ヒュームは個別の観察をいくらくりかえしても、そこから法則を引き出すことはできないとしたのではないだろうか? ヒュームは帰納という方法を否定したのだと思う。例の100羽の白鳥が白かったとしても101羽目の白鳥は黒いかもしれないという話である。
 津田氏は医療がかかわる日本の裁判の判例の奇妙さを指摘する。タバコの問題について「個人における因果関係を求める方法は、疫学的な方法とは根本的に異なるものであり、疫学的方法では、どのような個人に対しても因果関係を当てはめようとすることはできない」とか「疫学上のデータとして、喫煙者が非喫煙者に比べ、当該疾患に罹患する確率が相当程度高まっているとしても、その結果を、他要因の存否や、その寄与の割合等の検討なくして個別的な因果関係に結びつけることがはできない」というような判例が多いらしい。
 長期に多量の喫煙をしていたひとが肺がんで亡くなって、遺族がタバコ会社を訴えたとする。でもその個々のひとがタバコのせいで肺がんになったとはいえないとするような判決が多いらしい。津田氏は、裁判官は臨床医学基礎医学なら個々の患者における病因の因果関係を解明できると誤解しているのではないかと憤っている。それが不可能であるからこそ疫学があり、疫学こそが医学における因果関係について明瞭に示すことのできるものであるということを法律関係者はまったく理解していないと慨嘆する。
 「疫学の結果を個人の因果関係に適応できないと主張することは、一般法則が個々の観察データに適応できないと言うことと同じである」という。しかしヒュームが言ったのは帰納からは法則を導くことはできないということであり、ヒュームの立場を支持するのであれば、この判例は正しいということになるのではないかと思う。
 わたくしがいま少し関係している産業医療の分野で「過労死」という問題がある。一定以上の過重な労働を続けた後には心臓血管病死と脳血管病死が増えるという疫学的な事実がある。それで、ある一定以上の過重な労働が続いた後でこれらの疾患による死亡がおきた場合、個々のケースでの個別の因果関係は問わず、自動的に過労死と認定するという制度である。
 たとえば死因が脳動脈瘤の破裂であった場合、死亡診断書の直接死因は「脳動脈瘤破裂」である。その経過に悪影響をあたえたものとして「過労」とはたぶん書かれないと思う。個々の患者を診た医者にはそのようなことは判断できないからである。「過労死」の認定は個々の直接死因がどうであれ、その前に過労があれば、それを発症を促進した因子とみなし(「疾患の発生速度を変えた要因」とみなすわけである)、過労がなければ発症しなかった疾患が過労により発症したと自動的に認定するわけである。
 肺がんの場合も疫学的な因果関係は明らかなのだから、肺がんに罹患した場合、個々のケースの因果関係は問わず、タバコによるものと認定するというような法律を別につくれば、このような裁判の判決はかわると思われる。一切喫煙をしていないひとも肺がんになるかもしれないが、それも間接喫煙などの可能性からこれも自動的にタバコによると認定すると決めてしまう。そのようにしない限り、個々のケースの因果関係を問う場合には、今のような判決になってしまうのは仕方がないような気がする。
 わたくしが少し関係している問題としてはB型肝炎の訴訟がある。B型肝炎の感染が、以前行われていた、今から考えると感染防御に十分な配慮をしていなかった予防接種によるのではないか(同一の注射針で何人にも接種をしていた)というもので、母児感染などが除外されれば、予防接種をした既往があれば認定される方向である。B型肝炎の感染経路としては性交渉によるものや薬物の打ち回しによるものも多いわけで、そのような認定基準では既往の予防接種による感染ではないものもふくまれてしまうのは仕方のないことである。この訴訟は集団訴訟であるが、個別の裁判で自分のB型肝炎感染は以前受けた予防接種によると主張しても、それは認定されないされないのではないかと思う。
 オーダーメイド医療についても批判されている。「個では個々の観察事例にすぎず、統計分析なしに医療に応用することはできない」という。しかし乳がんでのHer2遺伝子などの測定によるハーセプチンの投与などはオーダーメイド治療とまではいかないにしても、個々の事例に応じた対応にはなっているのではないだろうか?
 次が「科学としての医学」
 津田氏によれば、科学とは「自然現象の観察に基づいて、言葉や数式を用いて論理的に言えること、特に定量的に一般法則を探求・推論する試み」である。「科学において一般法則を得るということは、データを分析して何らかの代表値を得ることでもある」ともいう。氏は「観察の世界」と「概念の世界」を対立させる。医師は個々の患者と対面しているときには「観察の世界」にいるが、常に「概念の世界」も意識していなければいけないという。氏によれば、臨床医と病理診断医はともに「観察の世界」の側にいるとされていて、「概念の世界」にいるのが理論科学者とされている。「観察の世界」から「帰納」によって「概念の世界」にゆき、「概念の世界」から「演繹」によって「観察の世界」に戻る、そのフィードバックが重要であるとする。そして観察と理論をつなぐのが「科学の文法」である統計学であるとしている。
 これは随分と狭い「科学」の定義であると思う。たとえば量子力学などは、観察できない事象についての仮説・理論から演繹的に導出されたことを確認するという作業からなりたつのであって、相対性原理などというのもそうであるはずである。エーテルという変なものを想定しなくてもよくなるというのは後知恵であって、とにかくアインシュタインがてんでもなく変なことを考えたというのが出発点で、誰もがそんなことはありえないと思うような変な説であるからあっという間に粉砕されてしまいそうに思えたものが、その後も観察に耐えて不思議と生き残ってきているというのが実際であるはずで、そこには帰納が入り込む余地はないと思う。
 わたくしには量子力学など少しも理解できないが、ファインマンもいうように、それについて本当にわかっているひとなど誰もいないのかもしれない。とにかくその理論は奇妙きてれつで「常識で考えれば不条理そのものであるが、その理論のだす予想は実験の結果とぴったり一致する。」 これまたひたすら演繹である。どうも津田氏は科学を自分の専門分野である疫学に引きつけて考えすぎているように思う。
 次の第3章は「データを読めないエリート医師」であるが、エリートでないわたくしにも大いにかかわる話のようである。
 

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