日本禁煙学会

 
 この前、岩田健太郎氏の「「本当に」医者の殺されないための47の心得」から「ほんとうにこわいニコチン中毒」というのをおもしろかったので紹介した。必要なことはそこにつきているので、わたくしがつけくわえることは何もないのだが、最近、日本禁煙学会が「風立ちぬ」という映画への要望を表明した(要するに、この映画では喫煙場面が多く、それが子供たちを将来の喫煙へと誘導するようなことになることを深く憂慮するというような文)が、それへの抗議が殺到して日本禁煙学会のHPが炎上しているというようなニュースを知って、少し書いてみることにした。
 まず岩田氏の文。

 この前、ある医者から意見されました。「ルパン三世や次元や、ポルコ・ロッソや、ジェームズ・ボンド(007)や、フィリップ・マーロウはみんなタバコを吸っている。教育上問題である。けしからん。だいたい、ああいうキャラがタバコを吸っていなくたって、別にストーリーが変わるわけじゃないじゃないか」
 どうも、この先生は本気でそうおっしゃっているみたいなのです。

 次に日本禁煙学会の要望文。

 映画「風立ちぬ」なかでのタバコの描写について苦言があります。現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告・宣伝を禁止しています。この条項を順守すると、この作品は条約違反ということになります。(別冊をご参照ください)
 教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルのレストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがありません。
 特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったのでしょうか。他の方法でも十分表現できたはずです。
 また、学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります。事実、公開中のこの映画には小学生も含む多くの子どもたちが映画館に足を運んでいます。過去の出来事とはいえ、さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません。
 誰もが知っているような有名企業である貴社が法律や条約を無視することはいかがなものでしょうか。企業の社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴社におきましてもぜひ法令遵守をした映画制作をお願いいたします。
 なお、このお願いは貴社を誹謗中傷する目的は一切なく、貴社がますます繁栄し今後とも映画ファンが喜ぶ作品の制作に関わられることを心から希望しております。
 どうぞその旨をご理解いただき、映画制作にあたってはタバコの扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします。

 わたくしのまわりにも禁煙派、嫌煙派の医師はたくさんいるが、ここで岩田氏が紹介しているような、極端なことをいうひとはいない。たぶんに岩田氏の誇張があると思っていたのだが、そういうひとも確かにいるのだということがこの要望文をみてよくわかった。どうもこの方たちも本気でそうおっしゃっているようなのである。
 「風立ちぬ」という映画は見ていないが、ゼロ戦の開発者を主人公としたものらしいので、戦前が舞台である。そうであるなら喫煙があたりまえの時代であるから、タバコをすうひとが出てきても当然である。なんでそれに目くじらを立てるのかよくわからない(もっとも喫煙シーンが相当多く、目立つらしいが)。そうであれば紫煙モクモクの「カサブランカ」などは許しがたい映画ということになるのであろう。実際、日本禁煙学会では、映画を喫煙シーンの多寡によって採点しているのだそうである。まさかと思ったが本当にそうしているらしい。お遊びとか冗談にではなく、大の大人が本気でそういうことをしているらしいのである。その「無煙映画大賞」2011年の受賞は「しあわせのパン」というきいたことのない映画、反対に汚れた灰皿賞(モクモク賞)というのもあり、2011年の受賞作は「ALWAYS三丁目の夕日 64」。 またさらに「無煙テレビ大賞」というのもあり、2013年の受賞は「ビブリア古書店の事件手帖」、汚れた灰皿賞は「吉田類の酒場放浪記」。映画とかテレビをみながらじっと喫煙回数を数えているひとというのはなんとなく鬼気迫るものがある。学会(といっても本当の学問の会ではなくたんなる同好の士の集まりであると思うが)のHPには、テレビや映画で喫煙している場面を子供の時代に多くみればみるほど将来その子供が喫煙者になる率が高いというデータが仰々しく提示されている。よくまあこういう研究?をするひとがいるものだと思うが、そういう研究を使命感にもえてやっているひとがいるのかと思うと、それもまた鬼気迫る。しかし、そう感じるのはわたくしの主観であって、ここの学会員は、喫煙画面を平気で流す映画やテレビをみるたびに、日本人の将来の健康と子供たちが成人したあと(その前から?)の喫煙への懸念に胸ふさがる思いで平常心ではいられなくなるのであろう。
 前にオーウェルの「カタロニア賛歌」を読んでいるときに、オーウェルが何よりもつらく苦しく思っているのがタバコの欠乏であることが書かれていた。たんにオーウェルが重度のニコチン中毒であったというだけかもしれないが、これは兵士に共通した悩みであるようにも書かれていた。戦場においてはタバコは兵士にとってのほぼ必需品なのではないかと、読んでいて感じた。日本でも「恩賜の煙草」である。
 「風立ちぬ」が戦前から戦中、「カサブランカ」も戦中の話である。ともに戦争が時代の背景にある。アメリカは大禁煙国家になりつつあるが、軍隊においてもそれは徹底しているのだろうか? 「タバコはかつて戦争遂行に重要な役割を果たしていました。そのいまわしいタバコは平和国家日本にはふさわしくありません。この映画はタバコをすわざるをえなかった不幸な時代の日本を描いたものですが、われわれはそれを教訓としてあらためてタバコのいらない世界をめざしたいものです。映画をみたかたも、この映画を反面教師にして、タバコをすう必要のない世界をぜひ、ともにめざしていきましょう」くらいなことでもいえば、まだしもだったのではないだろうか?
 日本禁煙学会のHPが炎上しているのは二つの方向かららしい。映画ファン、アニメファンからのものは、要望文が映画の筋をばらしてしまっている、映画のメッセージを理解していない。アニメを子供だけがみるものと思っている、などという方向からの非難のようで、アニメファンはコアなひとが多いから、映画を楽しむのではなくてそれの喫煙場面をかぞえるような下らない見方をするな、もっと映画そのものを楽しめよという主張である。もう一方は、何か日本禁煙学会の抗議文って変じゃない?、気持ち悪くない?、あのひとたちっておかしくない?という方向で、しかもその多くは非喫煙者であり、タバコが嫌い、喫煙者が嫌いというひとであるにもかかわらず、声明を変!と感じているのである。日本もまだ捨てたものでもないのかなと思う。健全な感覚のひとはまだまだ多いようである。
 この禁煙学会の声明は話題づくりをねらった意図的なもので、炎上も想定内であろうという見方もあるようだが(日本禁煙学会の知名度をあげるため)、あのような声明をだすとかえって自分たちの評判を落とすのではないかということは想定していないように思う。喫煙という誰がみても健康に悪い習慣を日本から減らしていこうとしている自分たちの正当な活動がなぜそのような見方をされなければならないのか理解できないのではないかと思う。あるいは専売公社が裏から手をまわしてHPを炎上させているのではないかといった陰謀論だってでているかもしれない。

 いいかげんにしなさい。どういうつもりできみたちは、二匹のがまみたいに座りこんで、自分たちの息で空気を腐らしてるんです。もうたくさんだ。

 これはチェーホフの「退屈な話」の一節であるが、「汚れた空気」というと禁煙学会のひとたちはすぐにタバコを想起するのではないかと思う。しかし、血走った目で問答無用、悪いものは悪い! というような雰囲気の議論もやはり「空気を汚す」のである。(日本禁煙学会のかたがたは、自分たちは科学的で根拠にもとづいた理性的な議論をしていると心から信じていると思うので、問答無用などとは一言もいっていないのに心外であると感じるだろうと思う。しかしこの声明を読んで多くのひとが、この人たち何か変なんではと感じているというのはどうしてなのだろうということを、ときに自省してみることは大事なのではないかと思う。)

 あなたはりっぱな教養も教育もおありで、とても潔白で、一本気で、ちゃんとした主義をお持ちですけれども、それがみんな、あなたのいらっしゃるところ、どこへでもところきわらず、一種むっとする空気や圧迫感を、なにかしらとてもひとを気まづくさせるような、見さげるようなものをもっていく結果になるのですわ。(チェーホフ「妻」)

 岩田氏もいうように、

 タバコ依存症の患者さんはタバコの事しか考えられなくなります。タバコを吸っていないと落ち着きがなくなり、イライラして、冷や汗をかくようになります。
 タバコのことしか考えられなくなった医者は、患者さんの胸ポケットにタバコが入っている、患者さんが喫煙していると、顔がこわばり、落ち着きがなくなり、イライラして、冷や汗をかくようになります。あれ?これっておんなじ症状じゃないですか。

 タバコのことが四六時中頭から消えないニコチン中毒のひとと、喫煙の問題で頭が一杯で、24時間そのことが頭から離れないひとは、第三者から見ると似たようなものに見えるということなのである。時々、街で「悔い改めなさい!」とスピーカーから呼ばわっている変な外人さんを見かける。その人からみると街を行き交う「罪ある生活」をしているひとを見ているともう放っておけないのだろうと思う。あの人たちはこのままでは地獄行きである、なんとかしてあげねばとの善意からあのように呼ばわっているのであろう。しかしそれが第三者にとっては騒音にしかすぎないということにはなかなか思い至ることがないようである。禁煙学会のかたがたからみれば、街で平気でタバコをすっているひとなどは自らの健康を害しているばかりでなく、大気を汚染し、多くの喫煙しない善男善女の健康をも損なおうとしている「罪ある人」である。なんとかそれを悔い改めさせたい、そう思うとほかのことが見えなくなってしまうのである。

 タバコや喫煙の健康被害のことをあまりにも考え過ぎ、過度にこういうものを攻撃するような医者は、コインの裏表のようにタバコ依存の患者さんと同じようにふるまってしまうのです。まるで、病人であるかのように。周りは困っているのだけれど、本人はその弊害に気づいていないところも、そっくりです。(岩田氏・続き)

 しかし、わたくしも「禁煙運動」をみると頭が熱くなってきて、ついつい口調がきつくなっていくのは困ったものである。禁煙学会のひとが喫煙者をみたときに起こす反応を、こちらは禁煙運動に感じるらしい。自戒せねばならない。
 チェホフに「煙草の害について」という一人芝居があった。こういう題だけれども、煙草の害は語られず、生きることの悲哀のようなもの(まあ、奥さんがこわいという話なのだけれども)が立ちあらわれるとても面白い戯曲である。禁煙学会の方々にももってほしいと思うのは、こういう人の生への惻隠の情というか、何らかの柔らかさのようなものである。ひとの生に医療がはたせる役割などは多寡がしれていると思えれば、あれほど入れ込んで煙草の問題に猪突猛進することはないだろうにと思う。