バルサルタン(ディオバン)問題・続き

 
 2回、この問題についてみてきたが、もう一回。

 自分の研究に対し、資金を提供してくれる人がいるとします。その研究において、スポンサーが期待する結果と異なる、どちらかと言えばスポンサーが望まない結果が出たものとしましょう。そんな時、自分の研究結果の発表を躊躇するような人間は、そもそも研究の道を歩むべきではなりません。・・ある大学病院の教授が、ある製薬会社の新薬を試す依頼を受け、巨額の研究費を毎年もらっているとしましょう。ところが新薬には、何の効果もなく、古い薬のほうがマシだということが判ってしまいました。こんな時、あたりまえの話ですが、効かない薬は効かないと報告すべきです。なのにデータを隠したり、もっとひどいのになるとデータを捏造するケースすらあるのです。・・研究は真理の追究を優先すべきで、それができないなら研究者になるべきではありません。残念ながら、データの改竄や捏造は、世の中にいくらでも例がありまして、最近でも国立大学や有名な私立大での不正行為が報じられていました。

 これは谷岡一郎氏の「データはウソをつくから。(前々回の記事より)
 

 今回の問題は、原発事故における“原子力村”の問題と同じ構造からおきている。電力会社が製薬会社、経産省厚労省に置き換わっただけで、それに御用学者がまんまと使われている。「原発は安全だ」といっていた学者と、今、製薬会社と癒着している医者たちはまったく同根。
 「民」と「官」がべったりと癒着する背景には、「官」の絶対的な権力がある。日本では中央官庁の役人が医療の価格をすべて一律に決めている(先進国では日本だけ)。薬価を決めている中医協の人事権を掌握しているのは厚労省の技官。それは国会のチェックもうけない。研究費の配分も彼らがおこなう。だから製薬会社も教授も技官にすりよる。

 これは上昌広氏が「週刊ポスト」に書いた記事の一部のわたくしが要約したもの(前回の記事より)。
 
 谷岡氏の文は一般論であり、個別のディオパン問題について論じたものではない。大学と製薬会社の間ではかりに金銭の授受があったとしても、しかしそのことで真理がないがしろにされるようなことがあってはいけないということをいっている。上氏の論は、表には大学と製薬会社がでてきているが、その背景には「官」もいて、実はそれが主役であるという話。
 今回、問題となっているのは降圧剤であり、問題とされているのは製薬会社とともに循環器内科の教授たちである。このような問題がおきる理由としてわたしが考える《仮説》は、今回問題となっている教授たちは高血圧の治療ということにはあまり興味がないのではないかということである。いくらなんでも自分の最大の関心事が降圧剤の有効性ということであれば、あんないい加減なことはできないのではないではないかと思う。循環器内科の教授が高血圧治療に関心がないなどということはありえないというのが一般の感覚であろうが、今回問題になっている教授たちはあまり患者のことに興味がないのだと思う。では何に関心があるのか? 病気であり病気のメカニズムである。高血圧であれば血管平滑筋の収縮や拡張がどのような機序で調節されているかといった問題である。今回問題になっているディオバンをふくむARBにしても、ACE阻害剤にしても、あるいはCa拮抗剤にしても、そのような研究のなかから、このポイントをアタックする物質を開発できれば有効な降圧剤となるはずであるという理論からできてきたものである。大学での基礎的な研究から血圧調節のメカニズムが明らかになると、それを受けて製薬会社のほうで資金にものをいわせて絨毯爆撃的に有効物質の候補を合成してみて、商品になりそうなものを探す。教授たちの関心は病気の基礎的なメカニズムにあるのだが、それの研究には金が必要である。幸いなことに製薬会社のほうから多額の資金提供の申し出がある。それを使って研究に精を出す。そういう恩があるから、製薬会社のほうから臨床研究の依頼があれば断れない。あまり興味はないけれども教室員や教室をでて実地の臨床に従事している医者をかき集めてなんとか協力する。でてきた結果にいささか色がついているように見えても、まあ持ちつ持たれつ、効かない薬を効くとしているわけではなし、血圧はちゃんと下がるのだからそんなに害はないだろうと自己説得をする。
 わたくしの理解では、こういう臨床研究は学者世界の内部ではあまり評価はされない。こんなもの金と時間さえかければ誰でもでき、頭も使わなくてもいいし、といった感じである。一方、評価されるのは病気のメカニズム研究のような基礎的研究のほうである。この分野こそ学者のオリジナリティと創造性が発揮される場であり、学者の能力を示すものであるとされるわけである。ここに「官」がどのようにからんでくるのかはよくわからない。科学研究費のようなものは「官」の管轄であるが、国の金を使う以上、ある程度役に立つということでないと困る。だから申請してくるほうも臨床とかかわりがある研究であるような顔をして書類をだしてくる。「○○癌の発癌プロモーションにかかわる××の関与についての基礎的研究」とか。この研究者は××研究の専門家なのであるが、発癌には全然関心はない。しかしこのごろ研究タイトルに「癌」という文言がはいると通りやすいといわれているので、そういう題にしてみた。もし申請が通ったら1〜2回タイトルの検討をしてみて、○○癌の発癌には××の関与はみとめられなかった、というのをどこかに入れて、あとはながなかと××についての研究成果を書けばいい。そんな研究ばかりでは「官」としても困るので、もうちょっと臨床の教室なら臨床に直結をした研究をしろよ、と思っているのかもしれない。
 上氏は今回の問題を東日本大震災の事故のおける“原子力村”の問題と比較している。 電力会社・経産省・学者のトリオが、製薬会社・厚労省・学者のトリオに変わっただけというのである。原発事故の後マスコミに登場した原子力学者たちの発言というのはなんとも頼りないというか情けないというかみっともないというか、原子炉の安全管理ということにどれだけ関心があるのか心許ない感じがした。原子炉がかわいいということはわかるのだが、それにくらべれば、国民の安全ということはどこかにいってしまっているように思えた。炉にボロンを注入するとか海水を注入するといかいう話がでると、それは困る、そんなことをしたら二度と原子炉が使えなくなるというなことばかり言っていた。親として可愛い我が子の命を絶つようなことはとてもできないとでもいったような。まさに我が子なのであって、“村”すなわち“共同体”内部に原子炉はあるのだが、国民はその外にいるので、優先順位が低いわけである。
 上で今回のディオバン問題の当事者となっている教授たちはあまり患者のことには興味がないのではないかというような変なことを書いたが、これも同じことをいいたいわけで、“高血圧村”のなかには大学や製薬会社はふくまれても、患者はふくまれないていないのではということをいいたいわけである。“高血圧村”に「官」がふくまれるのかはわたくしにはよくわからない。「官」は「村」の管理を通じて種々の統制をおこなっているわけだから「村」が崩壊したら困るということはあるだろうと思う。最近の動向を見ていると少なくとも“ディオバン村”は崩壊をはじめているようで、もっと狭い共同体の利益を優先して、製薬会社は大学の責任といい、大学は製薬会社の責任と相互に反目を始めているいるようである(これが実は裏では連絡しあっていて、芝居による相互の反目から真相が解明されにくくなるという形になることをねらったのであれば大したものであると思うが・・。そしてそれを裏で指導しているのが「官」であれば、最高である)。
 小室直樹氏は「危機の構造」のなかで、「機能集団が同時に運命共同体としての性格を帯び、かかる共同体的機能集団の魔力が、日本人の行動を際限もなく呪縛することになる」といっている。氏はいう。「かかる「機構信仰」は・・ひろく国民一般にもゆきわたっているから、汚職に対する国民の「いきどおり」も、小児病的な「君権神授説的」なものとならざるをえない。つまり、そこには暗黙のうちに「統治者は神のごとく正しく、絶対に汚職など本来しないものである」という信仰がある。・・どんな汚職も、結局はやった当人だけが悪いことになってしまって、機構の問題として意識にのぼることがなくなってしまう・・。そこには「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」という認識もなければ「政治はより少なく悪しきものの選択である」という理解もない。」
 最近、この事件をめぐって、再発防止のための倫理規定作成云々ということがいわれている。まさに「やった当人が悪い」であり、「機構の問題ではない」としたいわけである。研究論文の審査は性善説を前提にしているから悪意をもってデータを捏造する場合を想定していないということもいわれている。
 村=共同体の内部にいる人間から見れば「制度や慣行は確固不動の所与である」と思われているから、これからも研究を続けていかなればならないとすれば、現行の体制でいくしかないことになる。そうであれば、今回のことはたまたまあまりにも稚拙で露骨なやりかたで「ヘマ」をしたのが問題なのであって、製薬会社から資金を得て研究をせざるをえないという現実は所与であって変えようもないのだから、それが何が悪いということになる。“共同体=村”意識は何も変わらないのだから、今回の事件があっても何もかわらずまた数年するとまた新たな問題が明るみにでてということが繰り返されていくことになるのだろうと思う。
 いまよりも少しでも悪しきものの少ない体制を作る方策はあるのだろうか? 臨床の教授と研究の教授を分けるということは一つの方策とならないだろうか? 基礎的研究の成果で教授になった臨床や患者に興味がない循環器科教授というのはやなりまずいだろうと思う。
 だが、大学は学問の府である。そうなると基礎医学は学問であっても臨床が学問たりえるだろうか? それは難しい問題だと思う。だからみんな“学問”をしたがって“研究”に走りわけである。外科の医者が発癌遺伝子の研究をしても手術の腕があがるはずはないが、さりとて純粋の臨床の研究で何か成果を出すことは基礎研究でささやかなのノイエスを出すよりもずっと大変である。
 ディオバン問題についてネットをみていて実に多くのことがそこで開示されていることがわかった。時代は変わったなと思う。その中で岩田健太郎氏のものが大変面白かった。「「本当に」医者に殺されない47の心得」というもので、もちろん最近話題の近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」(わたくしは読んでいない)を意識したものであろう。いくつか紹介してみる。
 [心得13] 高血圧の治療薬 そのいびつさ http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/07/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8447%E3%81%AE%E5%BF%83%E5%BE%97-%E5%BF%83%E5%BE%9713-%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7%E3%81%AE%E6%B2%BB%E7%99%82%E8%96%AC-%E3%81%9D%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%95.html
 [心得36] 高血圧学会がとるべき態度 http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/07/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8447%E3%81%AE%E5%BF%83%E5%BE%97-%E5%BF%83%E5%BE%9736-%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E6%85%8B%E5%BA%A6.html
 これはディオバン問題についての言及。わたくしがぐだぐだと書いてきたことを簡潔明瞭に書いてある。頭がいいということは本当に素晴らしいことだと思う。
 [心得15] ほんとうに恐ろしいニコチン中毒 http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/07/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8447%E3%81%AE%E5%BF%83%E5%BE%97-%E5%BF%83%E5%BE%9715-%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AB%E6%81%90%E3%82%8D%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E4%B8%AD%E6%AF%92.html
 これは禁煙問題をあつかっているが、わたくしがうまくいえないことを実にうまく書いている。ふたたび、頭がいいということは本当に素晴らしいことだと思う。
 近藤誠氏の主張についても全否定するのではなく、とるべき意見についてはきちっと採用したあとで、その発想の根底にある問題点を指摘するという行き方をしている。近藤氏の本があれだけ売れているということは、現在の医療について多くのひとが感じているであろう納得できない問題にそれが答えているからであることを認めたうえで、そこには禁煙運動が抱えている問題点と共通の弱点があることを指摘していく、実に鮮やかなやりかたである。みたび頭がいいということは素晴らしいことである。
 岩田氏は大学の医者には珍しい、患者のことを本気で考えている医者である。