B・ゴールドエイカー「デタラメ健康科学」(4)

 
 第9章「製薬業界のだましの手口」
 
 最初のほうに

 政治的な信条がどうであれ、こと医療に関しては誰もが基本的に社会主義者だ。

 とある。この文は「医療関係の仕事に利益がかかわっていると考えると心穏やかでいられない」と続く。わたくしが一度も開業という路線を考えたことがない理由の一つはそこにあると思う。患者さんを前にして、検査を儲けのためにもう一個追加しておこうかなとか、この薬の方が利幅が大きいなどと考える場面を想像するのがいやなのである。従業員に給料を払うためにはこうしたほうがなどと考えて仕事をしたくない(もっとも、開業して流行って流行って患者さんがおしよせてきて困っている、お金のことなど一切考える必要も時間もなくて、眼の前の患者さんの診察にただただ忙殺されているというようなケースもないわけではないらしいけれども)。だから勤務医を続けているわけだが、それでどうなるかといえば、今自分がやっている医療行為に患者さんがいくら支払うかをよく知らないといったことになる。開業の先生は当然、利益を考えるし、病院の医者は自分が最良と思う医療行為がどのくらいかかっているかを気にしない、どちらでも医療は増大する。
 国民皆保険制度はとてもありがたい制度で、さらに高額医療制度というものもあり、通常の診療なら患者さんに滅茶苦茶な負担にはならないだろうという前提で医者は仕事をすることができる(最近、この検査をするといくらかかりますかといった質問をうけることが増えてきたが)。しかし、それは患者さん以外の誰かが負担しているからであり、どうもその負担を公的に今後も続けることは出来そうもないと誰もが思うようになっている。そして、そこでの問題の一つがそれなりに効くがべら棒に高い薬が続々と出てきていることなのである。
 クルーグマンが「経済入門」でいっている。「医療費上昇には何の不思議もない。・・一部は人口構成の問題なんだ。年寄りは医療がたくさん必要で、アメリカは高齢化しつつある。・・アメリカ人の大半はなんらかの健康保険に入っている。・・だから患者と医者が治療について話し合うとき、どっちも金を出すのは第三者だってわかってる。/ さてこういう状況で、すごく高いけど患者を救えるかもしれないテストや治療法があったとしよう。・・金を出すのは自分じゃないから、患者としてはとにかくやってみようというわけ。つまりこの方式では、医学的に得られるものと経済的な損失とが、ちゃんとてんびんにかけられてない。医療経済のギョーカイ用語でいえば、治療はつねに「カーブの平らなとこ」にまで押しやられる。つまり、これ以上金をかけても、まったく医療上のメリットがないってこと。・・こうして治療を、金に糸目をつけないで医療の限界にまで推し進める傾向は、医療技術が高度化するにつれてますます高くつくようになってきちゃったわけ。むかしむかし、金持ちがいくら金を出すったって、買える医療なんてたかが知れている時代っつーもんがございました。・・ところが今日、検査や治療法はいくらでもある。・・こういう新技術はたくさんの命を救うし、さらに多くの人たちの人生を楽にしてあげるのは事実。でも、その値段はとんでもない代物になっちゃう。・・お金をどんどん使って、医学的にどんどんメリットのあることができるという結果になってる。・・患者にとって最善のことをするという倫理観は、人によってぜんぜんちがう医療を提供すると宣言するようなシステムとはなかなか相容れないんだ。・・金で命が買えるってことをはっきり見せつけるようなシステムなんて、ぼくたちとしては口にするのもちょっとためらっちゃう感じだよね。」
 ここでクルーグマンがいうのは、医療費高騰の対策としては「このような医療はノー」といえるシステムをどう作るか問題解決のすべてであって、だれが私腹をこやしているか、たとえば製薬会社がもうけ過ぎなどという方向は見当が違っているのだということである。悪者探しは生産的な戦略とはいえない、と。因みに、クルーグマンは日本のような体制で、この医療行為は保険ではみとめないとする制度のほうが、アメリカの制度よりも安上がりですむのだという。
 わたくしが深い親愛の情を感じるリバタリアンである竹内靖雄氏は、「医療サービスの多くは贅沢品」であるといっている。このような生活必需品ではない贅沢品を必要なひとには安価で提供すべきという発想は異常なのであるが、豊かな先進国では、みんなからカネを集めればこの種の贅沢もできるだろう、という錯覚にもとづいて今日の医療制度ができているのだ、と。もともと社会保険による医療システムは、高齢化・少子化・人口減少が進行する社会では成り立たなくなる性質のものである。竹内氏は医療の基本部分のみ保険でカバーし、贅沢部分は市場経済に委ねればよいという。その結果、今後も医療費が増大し続けるとしても、それは購買者が医療を必要としているということなのであるから何ら問題ではない、と。
 わたくしは、クルーグマンと同じで、現在の医療が高価ではあっても必ずしも贅沢品であるとはいえないと思っているが、一方、竹内氏もいうように現行の医療保険制度が早晩なりたたなくなることも明らかだと思う。医療を社会主義的にやっていくことが今後いつまで可能であるのかがよくわからない。
 高齢化とか少子化というのは随分と前から予想されていたことであるにもかかわらず、みんななんとかなるのではと思ってきたのは、日本の停滞は一時的なものであって、いずれまた日本も成長に転ずる、そうなれば大丈夫としていたからなのではないだろうか? 日本の国民皆保険制度の発足が約50年前であり、ちょうど高度成長の出発と軌を一にしている。制度自体が経済成長を前提としていて、バブルのころはまさにバブルの力でどうにでもなるような錯覚に陥っていた。「失われた10年」などというのも成長が当然の前提であるからでてくる言葉であって、昨今急に年金制度が崩壊するとかいろいろ騒がれるようになってきているのは、もう日本には二度と高度成長といったものがおきることはない(あるいは正確には生産性の向上がもうないということなのかもしれないが)、今と同じ冴えない状況が続いていくか、場合によってはさらなる減速と停滞と縮小の方向となるということを、ようやく多くのひとがいやいや受け入れるようになったからなのではないだろうか?
 
 だいぶ回り道をした。ドールドエイカーの論をみていく。その論はクルーグマンのいう「悪者探し」であって生産的なものではないかもしれないのだが・・。
 イギリスでは製薬業界が金融と観光についで三番目に大きい利益をあげているのだそうである。しかし、その業界も新薬の開発の頭打ちという大きな問題を抱えている。
 薬の開発には時間がかかる。市場にだすまで平均5億ドル前後のお金が必要となる。膨大な費用がかかるため、その薬の試験は大資本である製薬会社が負担する場合がほとんどとなる。製薬会社も営利を追求するから、患者が少ない病気の薬の開発は進まない。また発展途上国に固有の病気の研究も敬遠される。われわれの健康をおびやかすさまざまな要因のうちの1割に9割の研究資金が投入されている。
 さてそれでは、開発している薬が有効であると示すために製薬会社はどのようなテクニックを使っているか?
 1)効きやすい人(たとえば若年者)を対象にする。たとえその対象年齢にはほとんどない病気の薬であっても。
 2)現在では、プラセボと対照するのではなく、すでに流通している既存の薬と比較して有効であるとすることを求められているのだが、飽きもせずプラセボを対象として比較試験がおこなわれている。もしも既存の薬との比較を求められたら、その既存の薬をわざと低用量でもちいる(効かない)あるいは高容量で用いる(副作用がでる)などして、対照薬より有用であるようにみせる。
 3)副作用についてはなるべくきかない。この副作用はありましたかときけばいろいろとでてくるが、一般論として副作用はありましたかときくとなかなかでてこないものである。
 4)コレステロールを下げる薬の目標が心臓疾患を減らすことであっても、心臓疾患が減ったかを調べるのではなく、コレステロールの値が下がったかを論じる。
 5)結果が否定的であったとすれば、公表しないか遅れてから公表する。
 6)その他、基準値の変更とか脱落者のあつかいとか、異常値のあつかい、試験期間の調性などさまざまなテクニックが紹介されている。
 というようなことがあるので、どこが研究費をだすかによって結果が左右される。製薬企業がスポンサーになった場合はその会社に有利な結果となることが圧倒的に多い。だからA>B、B>C、C>Aといった数学的にありえないことがいくらでもおきてくる。
 そもそも肯定的な結果は発表されるが、否定的な結果はお蔵入りとなる。この薬は効かないというのも重要なデータのはずなのだが。代替医療の専門誌に発表された論文のたかだか1〜5%が否定的な結果のものである。漢方医学の論文では否定的なものは一つもなかった。
 肯定的な結果がでたら何度でも発表する。副作用は隠す。対照薬よりも副作用が多かったら、その対照薬にはその副作用を予防する効果があるのであって、自分のほうの薬の副作用ではないと言い張る。自分の会社に都合の悪い研究をしている研究者に圧力をかける。
 これらの不正に対する一番いい対策は、すべての薬の試験を登録制とし、どのような結果であっても発表させるようにすることだと著者はいう。
 
 医者はかなりの大病院に勤務している場合でも基本的に個人として仕事をしているので、きわめて大きな資本をもつ製薬会社の情報操作の前にはとても無力である。変な健康記事を読んでどこかに一円玉を貼ると健康にいいと信じている素人をわれわれは嗤うけれども、同じようにわれわれもまた宣伝攻勢によって操作されている可能性はきわめて高い。
 本書によれば製薬会社の支出では開発費よりも宣伝費のほうが多くなっている。われわれは高血圧治療にかりにカルシウム拮抗剤を用いるにしても、どこの会社のものを使っても大差はないと思っているのだが、売るほうは自分の会社のものを使ってほしいわけで、ライバル会社のものと比べて弊社の製品はここで優れているといういろいろな資料をもっておしよせてくる。そのような資料のグラフの正否などわれわれはたしかめようがないわけで、画期的に違うのでなければどうでもいいと思うのだが、売る方は必死である。そしてあまり差がないであれば接待攻勢ということになる。事実、接待されるのが大好きという医者もいて、受け身で接待されるのではなく能動的に接待を強要する医者までいるらしい。医者というのは医者になった途端からちやほやされることが多いので、製薬会社からの接待もまた当然と思うものも多いみたいである。病院勤務医の待遇は決してよいとはいえないのだが、医者は厚遇であって当然という意識も多くの医師にあってそのギャップを埋めるものとして接待くらい当然という考えもあるらしい。本書で述べられているのは、製薬会社の情報担当者が持ってくるデータがいかに操作されたものであって信用ならないかということなのであるが、たとえ信用できないものであってもとにかくデータをみてみようと思う医者はまだ増しなのかもしれない。
 最近さらに困るのがまったく同じ薬が二社から発売になったりすることがあることで、弊社の薬を使ってくださいと迫ってくる。まったく同じものなのだから、さすがにあちらよりもいいなどとはいえず、ひたすらお願いされる。そういうMRと呼ばれる情報提供担当者から有益な情報が得られることもないわけではないが(たとえば、わたくしの専門関係でいえば、昨年末からC型肝炎の新しい薬が認可されたが、これが相当副作用が強い薬なのでその副作用の情報だとか、極めて高い薬なので公費の補助がどうなるかといった情報)、多くの場合には上の空できいていて早く切り上げたいと思うばかりである。さらに困ったことに、調査会社から各社のMRのひとの勤務評定みないなものの依頼までくる。こちらは早く逃げようと思って碌にきいていないのだから、どのMRさんがどこの会社かも気にしていないし、そもそもこの薬がどの程度きくかには興味があってもどこの会社からでているのかには興味がない。だから評価といわれても困る。とにかくそういうことにとられる時間が馬鹿にならなくて、MRのひとの人件費も薬代に上乗せされているのなら、そういうひとを減らして薬代を下げればいいのではないかと思う。
 しかしこういうことが続いてきた以上は、製薬会社は慈善事業をしているのではないのだからMR派遣が売上向上に寄与しているというデータをちゃんと持っているのであろう。そして情報提供などという真面目な方向ではなく接待といった方面のほうがより有効であったのはないかと邪推する。そのためか今年の4月から製薬会社の医者の接待への規制が強化されるらしい。ついでに情報提供も規制強化してこちらが要求した場合以外はこないというようにしてもらえないものだろうか?
 本書にも書かれているように、画期的な新薬が開発されることが最近は少なくなってきている。少なくとも高血圧や糖尿病というようなきわめて多くの患者さんがいる病気についてはそのようである(糖尿病については最近新薬がでたがスルフォニル尿素系の薬剤がでてきたときほどのインパクトをもつものではないようである)。高脂血症の薬はとんでもなくよく効くのだが、本当にそういう薬を使わなければいけないひとがどのくらいいるのかがよく見えない。最近の薬の多くは分子標的薬といった薬理学的作用機序が明確なものが多く、理屈好きの医者にはとても魅力的であり、説明されるといかに効きそうな気がするのであるが、限られた病気にしか効かないものが多く、しかもとても高価である。
 最近、薬の公費助成がいろいろとさかんであるが、あれも製薬会社が裏で後押ししているのであろうか? 本書ではアルツハイマー病の保険適応の問題がとりあげられている。われわれが使っていて、目の覚めるような効果がなさそうであることだけはわかる。しかし、製薬会社のひとがもってくるデータによれば少なくとも一年くらいは進行がとまり介護するひともそれなりに楽になるというのだが。血圧などはあるいはコレステロールの値は少なくとも薬を使っていれば改善する場合がほとんどである。しかし認知症の進行がとまっても、それを外来の診療の場で有効性として実感することはまず困難である。イギリスでは保険適応がみとめられていないらしい。今のところアルツハイマー病の薬はクルーグマンのいう「カーブの平らなとこ」の相当近辺にあるように思う。しかし患者さんの家族はいうのである。効かなくても仕方ありません。万一効いてくれればめっけものと思っています。インターネットで調べてきて、薬の名前まで指定してくる。このネット情報もまた製薬会社が操作しているのだろうか? 著者はいう。「ああいやだいやだ。悪いやつばかり。なんでこんなひどいことになってしまったのだろう?」 「カーブの平らなとこ」にある薬は保険医療から除外される方向にいくのだろうか? しかし患者団体が反対するらしい。そしてその団体の背後に製薬会社がいるらしい。ああいやだいやだ! だが・・・。
 最近、武田薬品ダーゼンという薬が保険収載から除かれた。要するに効かない薬だとわかったということである。しかし医者のほうだって効くと思っていたひとはあまりいないはずである。そうではあるのだが、外来に来て何か薬をださないと帰らない患者さんには絶好の薬だった可能性がある。本書の最初に「現在おこなわれている全治療法の13%には十分な根拠があり、21%には効果が期待できる」という恐ろしいことが書いてある。かなりの病気には根拠のある治療法はないのであるが、そういうひとにも何か薬をださないと納得してもらえないという事情もある。
 だから再び、

 プラセボ効果について知れば知るほど、ニセ科学を一概に悪くいえないという思いが湧いてきて板ばさみになることだ。たとえばホメオパシーの砂糖玉にプラセボとしての効能しかないとして、それはいけないことだろうか。・・患者には治してもらいたい症状があるのに、現代医学ではほとんど何もできないケースが少なくない。たとえば腰痛、仕事のストレス、原因不明の疲労感、ごく普通の風邪。ほかにもたくさんある。・・こういう場合に偽薬で対処するするのが非常に理にかなった選択肢ではないだろうか。・・

 というところに戻ってきてしまう。著者は製薬会社が薬の効用を偽った論文を大量生産していることを非難する一方で、砂糖玉にも非難しきれないものを感じている。
 医療の場には本来医療が必要でないひとが大量に押しよせてきている。その一方では本物の病気もあるのだがそれの多くには有効な手段がない。そういう中で医療をしていると、医者は呪い師になったりしなければいけない場面もでてくるわけで、なかなかEBMだけで対応できることにはなってくれない。
 それで次がマスコミとメディアの話。
 

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

クルーグマン教授の経済入門

クルーグマン教授の経済入門

衰亡の経済学―日本の運命・あなたの運命

衰亡の経済学―日本の運命・あなたの運命