B・ゴールドエイカー「デタラメ健康科学」(3)

 
 第8章「ビタミンでエイズは治らない」
 まことに恥ずかしい話だが、ここに書かれていることをわたくしはまったく知らなかった。南アフリカ共和国におけるエイズの話である。
 南アフリカでは毎年30万人がエイズで死んでいる。HIV陽性者は630万人。その3割は妊婦。1990年にはHIV陽性者は成人の1%であったが、10年後には25%になった。
 ここで取りあげられるのはメティアス・ラスというひとである。ドイツ生まれのドイツ育ち、カリフォルニア州のポーリング研究所の心血管研究部長を務めていたが、そのころから「人間の死の原因となる疾病撲滅への道を開く心血管疾患に関する統合理論」などという論文を書いていたのだそうである。その統合理論とはビタミンの大量摂取。
 まずヨーロッパで活動をはじめた。イギリスで「がん患者が化学療法を受けるとその9割は数か月以内に死亡している。近代西洋医学の治療をやめれば300万人の命が助かる。製薬業界は金儲けのためにわざと患者を死なせており、がん治療薬はひとつも効果のない有毒な化合物だ」というような広告をうったりした。ベルリンの裁判所から「ビタミンでがんが治るという主張をやめないと罰金25万ユーロ」という命令をうけたが、ビタミンの売上は好調だった。そして南アフリカにのりこむ。新聞に全面広告をうつ。「抗HIV薬は毒性が強く、患者を殺して金を儲ける陰謀である。製薬カルテルによるエイズ患者集団虐殺を止めよう! 自然がくれたエイズの解決策がここにある。毒性の強いエイズ治療薬よりマルチビタミン剤のほうが効果が高い。マルチビタミン剤でエイズ発症のリスクは半分以下になる!」
 時の南アの大統領タボ・ムベキはエイズ否定論者であった。エイズという病気は存在しないとか、エイズの原因はHIVウイルスではないとか、抗HIV薬は毒にしかならないとかいう運動家を信用し支援していた。
 そのため、南ア政府はエイズの原因はHIVウイルスではないと主張し、抗HIV薬は患者のためにならないと言い張り、適切な治療プログラムを展開しなかった。薬の寄付の提供も受け取らず、支援金での薬の購入もしなかった。
 ムベキ大統領にそのような入れ知恵をしたのは弁護士のアンソニー・ブリンクという人物で一時ラスのもとで働いたこともある。1990年代のなかばにたまたまエイズ否定派の論文を目にし、自分でもネットや文献を調べ、その主張が正しいと確信した。
 否定派によれば赤ん坊や子供を殺しているのはエイズウイルスではなく薬なのである。
 ムベキ大統領はエイズ否定論者の闘いはアパルトヘイトとの闘いに似ていると主張し、2003年まで適切な治療プログラムを採用しなかった。
 その経過に大きな影響をあたえた人物として女性保険大臣のマント・チャバララ・ムシマンがいる。抗HIV薬批判の急先鋒である。栄養の大切さを強調する栄養至上主義者で、彼女の推奨するエイズ治療薬はビートの根とニンニクとレモンとアフリカポテト。アフリカポテトはむしろエイズ発症を促進するという研究データがあると指摘されても、でもそれを食べた患者がよくなったと実感している、本人がいうことほど確かなことはないと反論する。
 著者はいう。アフリカは先進諸国から容赦なく搾取されてきた。だからエイズや近代医学が西洋諸国の陰謀だという説もそういう背景を考えればあながち無茶ともいえない。その地に伝統的な医学を強調するのは自己のアイデンティティの主張という側面もあるだろう。また、かつては抗HIV薬は腹がたつほど高価だった。実際にアフリカの人々が治療を受けることは不可能なほど高価だった。
 しかし、われわれだって似たようなものかもしれない、とも著者はいう。HIV感染を防ごうとすれば薬物常習者に注射針の交換を促すことが有効である。しかし薬物の使用自体をみとめない原則論によってなかなかそれがおこなわれていない。アメリカのキリスト教団体が後援する途上国援助では産児制限への関与を拒否している。米国大統領のエイズ救済計画では支援金を受け取る国では性労働者とはかかわらないという誓約書を義務づけるべきであると主張している。すべて西欧の文化が治療を阻害している例である。
 とにかくそういう背景のあるところにラスが乗り込んできて、反エイズ薬キャンペーン、ビタミンを飲んでいればいいキャンペーンをやって、結果的にエイズの蔓延に手を貸したわけである。
 著者がいうのは、このような人物であるラスを欧米の代替医療界の人々は批判しないばかりか、それを擁護しているということである。代替医療界には自己批判の能力がとことん欠けている、そう著者は主張する。
 
 「エイズという病気の原因はHIVウイルスの感染であることは《科学的》に証明されている客観的な事実である」という主張をどのように考えたらいいのだろうか? エイズという病気はHIVウイルス感染なしではおきないが、それだけでは発症せず、ビタミン不足があってはじめて発症するといった主張はどうだろうか?
 エイズという言葉がまだ一般的になる以前、医学雑誌をみているとゲイの間で流行するカポジ肉腫などという文献がたくさん発表された時期があって、なんでゲイの間でおきる特殊な病気のことがこんなにとりあげられるのだろうといぶかしく思ったものだった。
 実にさまざまな病態を示す結核という病気がそれでも結核という名前で呼ばれるのはその共通の背景に結核菌があるからである。輸血にともなっておきる肝炎も長らくその原因が特定できず、それにもかかわらず輸血という行為に関連しておきる事実から何らかの病原体が輸血によって体内に入るのだろうと想定されて、やがてB型肝炎ウイルスやC型肝炎ウイルスが発見されることになる。
 エイズという病気もHIVウイルスが発見されることにより病気としての疾患概念が明確なものとなったのであろう。似たような病態を示す病気であってもHIVウイルス感染が否定されれば別の病気であるとされる。
 だがこのような見方、ある疾患の背景に細菌とかウイルスを想定するというな考え方は西欧に固有な還元論的な見方であって、全世界に無前提的に通用するものではないとするような思考は根強く存在する。おそらく代替医療とか統合医療とかを主張しているひとのかなりにはその背景に西欧的なものの見方への違和感や拒否の感情というのがあるだろうと思う。つまり《科学的》な見方というものは西欧という地域だけに限定的に通用するものであって普遍的に正しいものではないとする見解である。
 ドーキンスなどが激しく苛立つのはこのような見方に対してであり、物理法則は世界どこにいっても、あるいは地球上のどこにおいても、そしていうまでもなく宇宙の隅々においてもなりたつのだから、最終的には物理法則に帰結する化学も、化学に帰結する生物学もまた普遍的なものであることがどうしてわからないのかと憤る。
 しかし宇宙の片隅にある地球にたまたま生命が生まれ、たまたま人間という奇妙な生物が生きのこったのは偶然であって、それを物理学に還元して説明することはできない。ましてや人間の精神であるとか思考であるとか、また人間がつくる文化といったものまで《科学的》に説明できるなどということはありえないということが、反=科学のひとのいいたいことのようなのである。そういうひとたちは《科学》によって何でもわかるというような見解には頭にくる。人間というのはもっと崇高なものではないのかなどといいだす。《科学》はたかだか物質のふるまいを説明できるだけなのであり、生命は物質のふるまいの総和ではなく、人間の精神は物質の法則では説明できないとする。そして《科学》の対極にくるのが《自然》であるらしい。
 《科学》は操作する。《自然》はありのままを尊ぶ。女性保険大臣マント・チャバララ・ムシマンがビートの根とニンニクとレモンとアフリカポテトを推奨するのもそれが《自然》だからなのである。そして栄養評論家などというのがでてくるのも薬といった化学が合成した物質に頼るのではなく《自然》によって病気を克服したいあるいは健康でいたいという欲求をもつひとが非常に多くいるからなのであろう。
 この章を読んでいてわからなかったのが、ラスというひとが本当にエイズの治療にビタミンが有効であると思っているのか、そうは思っていないが金儲けのためにそう主張しているだけなのかということである。アメリカ時代に書いた論文のタイトルを見ると本気でそう信じているのかなと思う。しかしそうであるなら南アにおけるエイズ感染の実態を見て考えを変えそうなものであるが、さらさらその気配はみえない。信念という眼鏡をかけてみると事実が見えなくなるのであろうか? しかし事実などというものはなくて、われわれはある前提あるいは仮説のもとでしか事物を観察できないというのは科学哲学の常識のようである。
 本章を読んで真に恐ろしく感じるのは、政治が《科学》を否定することができている事実が示されていることである。非常に幸運なことに日本においてはそのようなことがおきる懸念は非常に少ないであろうと思う。アメリカではいまだに進化論を教えることに抵抗があるところも多いのであり、そもそも政治と宗教が不可分であるイスラム圏においては《科学》の独立性をいうことはまたきわめて難しいであろうことが予想される。
 日本は江戸時代に宗教が根扱ぎにされた。明治以降は和魂洋才であって、あちらからきた学問はもっぱら物質的な進歩に貢献するものであればよかったわけで、「社会生物学」などというのがほとんど物議をかもさなかった大変恵まれた国である。建国神話と万世一系天皇を教えながら一方で進化論を教えることにどこからも文句がでなかった国でもある。そういう国で医療をできるというというのは何と幸運なことであろうと思う。日本はどのような政治体制になっても、政治は政治、科学は科学で没交渉でいくのかもしれない。
 医療行為には普遍的な部分と文化に依存する部分がある。著者も指摘するようにプラセボ効果は文化に依存する。だから普遍的な《科学》では説明できない部分が医療行為にはつねに残ってしまう。政治はとても普遍的な営為であるとはいえず、その地域の文化を無視しては成立しえないものであろう。それが《科学》を主導する立場になってしまったとすれば、《科学》の普遍部分はどこかに飛んでいってしまう。医学の教科書はその普遍部分について述べている。教科書からすれば、Aという国ではエイズの原因はHIVウイルス感染であるが、Bという国では栄養不良でおきるなどということはありえない。しかし政治が優位になってしまえば、そういうことも起きてしまうことになる。
 日本でもエホバの証人の信者が輸血を拒否すればそれを尊重する。エホバの証人が日本の国教となって、すべての医療者に輸血を法律で禁じるようになったとしたらというのは想像したくない事態である。しかしそのような事態はおきないだろうと思う。日本がこれからそのように宗教に熱中するようになることはないだろうと思う。エイズの治療薬は無効であるばかりか有害であると信じて治療を拒否するひとがいてもそれは尊重される。しかしそれが国家全体の方向となってしまうのであれば、それは困る。しかし上に述べたように政治は政治、宗教は宗教、科学は科学で没交渉で日本はいくのではないかと思う。
 著者もいうように西欧だってひとのことをいえない側面もあるように、日本においても経口避妊薬の認可が大幅に遅れたのは、そのようなものを許可すると性道徳が乱れるとか日本の良き家族制度が崩壊するとかいってそれに反対するひとが多くいたためらしい。だから政治的なものがまったく科学に影響しないということでもないとは思う。ある会社の海外担当のひとがいっていたのだが、エイズの危険性をいくら出発前に教育してもいざ現地できれいな女のひとが眼の前にあらわれたらそのような教育はたちまち頭から消えてしまう、だからコンドームを持参させるしかないのだが、独身ならまだしも奥さんがいる社員に会社からコンドームを支給するというのはどうしてもできない、本当に困っている、と。家族制度が社員の健康より優先するようである。
 憲法第11条で、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とある。このような文言が《科学》とどのような接点ももたないのは明らかである。人文方面と自然科学とはなかなか折り合いがつかない。そして多くの国ではそのことから様々な問題がおきるのだが、日本は君は君の道を行け! ぼくはぼくの道を行く! ということでお互いが没交渉であまり問題がおきないようなのである。
 本章で述べられていることが、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の問題と深くかかわることは明らかである。《科学》というのが無色透明で価値中立的なものであるかという問題である。そして。《科学》という営為は無色透明でも価値中立的なものでもないということは、この数十年多くの人文の方面のひとが倦まず説き続けてきたところであり、現在ではほとんど陳腐な言説とさえなってしまっている。しかし日本は「サイエンス・ウォーズ」もまたほとんど話題にもならなかった国である。
 ここで示されているのが、あまりにもベタであまりにも常軌を逸したことであるのでさすがのわたしたちでもこれはあんまりであると感じる。自分たちはこんな馬鹿なことはしないと思う。しかしそう思うのは《科学》というものをあまり真面目には考えてこなかったからだけなのかもしれない。われわれには「エイズという病気の原因はHIVウイルスの感染である」という言明はあまりに当たり前のものであって、それのどこかに問題がある可能性があるとは思わない。それが少しも当たり前でないひともまた多くいるだろうことを忘れがちかなのかもしれないのである。
 

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

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