B・ゴールドエイカー「デタラメ健康科学」(1)

    河出書房新社 2011年5月
    
 著者はイギリスの精神科医であり、医療ジャーナリスト。本書を読んでの第一の感想は、イギリスも日本も同じなんだなというものである。日本のマスコミは他国にくらべて程度が低いのではないかと思っていたのだが、イギリスでも似たようなものらしい。BBCなどというのもひどいものである。また日本はワクチン後進国であると思っていたのだが、そうでもないらしい。反ワクチン運動家というのはどこにでもいるものらしい。ということでいろいろと蒙を啓かれるところのある本であった。
 最初の3章は小手調べというか、あんまりな例の紹介から。
 最初が毒素排出(デトックス)療法。お湯をはった足浴器に足をつけていると足から毒素がでてきて、健康になれるという機械の話。毒素がでてくるため、お湯の色が変わっていくというものである。身体には「毒素」が詰まっていて、それが足にある「小さな穴」から抜き取られるのだという。著者いわく対照実験をすればいい。足を入れてなくてもお湯の色は変わるよ、と。お湯には食塩が入れてあるので、それが基本的は電気分解装置であるこのデトックス装置により分解され塩素が発生し、それが色を生じさせるし、その塩素臭も効果を感じさせるらしい。演出がすべて。
 「デトックス」の機構は現在までのすべての人体の代謝の研究になかで認められていない。とすればこれは科学の産物ではなく文化の産物である。著者によれば、先進国の人間は極端なまでに物欲にふけっているため、その罪を清めて贖いたいと思っている。人間は時代時代でそれぞれの時代に応じた贖罪の儀式を発明してきた。現代は科学の時代なのでこのような科学を装った儀式がでてくるのだと。
 こういう話をきくと東洋医学の経絡とかいったことを思い浮かべてしまう。それもまた現在科学の代謝経路に中にどこにもでてこない。しかしその存在を信じているひとは多い。そもそも「気」というようなものもまた代謝経路のどこにもでてこない。そういうものを信じるひとは代謝経路は「モノ」をみているだけであるというであろう。そして「モノ」の集合体としてしか人体をみない「科学」者を軽蔑するであろう。あなたは西洋の「物」欲世界の世界観にとらわれた犠牲者であると憐れむであろう。このデトックスのかわいいところは還元主義的世界観への軽蔑と科学への盲信が一体となっているところである。
 このデトックスのようなものが売れるのは、われわれが体液説的な思考に強い親和性をもつためではないかと思う。すべての病気は「○○」によっておきる、したがって「○○」を「××」すればすべての病気は治るという思考法は非常に魅力的らしいのである。この「○○」のなかに「毒素」をいれてもいいし、「酸とアルカリのバランスの乱れ」をいれてもいい。「野菜の摂取の不足」というようなものもあるかもしれない。病気というのは単なる言葉であって、そこには骨折も癌も統合失調症も糖尿病も子宮内膜症も喘息もインフルエンザもエイズもふくまれる。それらに共通の治療法などあるわけはないことは誰でのわかるはずであるが、おそらく、すべての病気は「○○」によっておきる、したがって「○○」を「××」すればすべての病気は治る、という場合の病気は上記のようなものではなく、なんとなく体調がすぐれないといったものだと思われる。そんなものは病院にいっても相手にしてもらえない。それでこのような治療法?の出番がでてくるわけである。
 次が「ブレインジム」の話。これはイギリスでのローカルな話なのであるが、何百という公立学校で正規にとりあげられている「脳全体を使った学習の効果を高めるため」の複雑なエクササイズなのだそうである。水を飲めとか、ある部分をマッサージすると頸動脈の流れがよくなる、とかのさまざまな組み合わせから成る。こういう馬鹿げたものが流行る理由として「脳科学の専門用語」による説明にわれわれは弱いというということがあるのだという。ここで著者は「世界のさまざまなことが単純な原因で説明されるのを私たちが異様に好む」ということをいっているが、上での体液説的説明への親和ということと同じなのかもしれない。
 次が化粧品の話。安価な化粧品でもさまざまなお肌にいいという効能書きの物質をてんこ盛りに入れたという高級化粧品も効果は同じという話。化粧品には興味がないのでパス。化粧などという面倒なことをしなくてすむのだから男に生まれてよかったと心底思う。わたくしの偏見かもしれないけれど、最近の日本人の化粧というのは異様に濃いのではないだろうか?
 ここまでが前座でそのあとが本番となる。まずホメオパチー。著者によれば、ホメオパチーはEBM(科学的根拠に基づいた医療)について考える最高の材料となるのだという。なぜならホメオパチーは砂糖玉という分析可能な物質を治療に使っているのだから、と。
 代替療法産業によって健康神話がどのようにつくられ、広められ、維持されているを知ることが重要なのは、彼らが世間に対して用いている策略が、巨大製薬会社が医師に対して用いているものと同じであるという点においてなのである、そう著者はいう。医者は代替医療信者を笑うけれども、その医者が製薬会社にはころっとだまされていることには気がるいていないかもしれないぞ、ということである。
 ホメオパシーは典型的な代替医療である(日本ではそうではないが)。ホメオパシーの薬(レメディ)にはプラセボ効果以上のものはないことは確認されている(ホメオパスの処方した砂糖玉を、ただの砂糖玉とかえて効果をみると差がない)。科学の研究にはばらつきが生じる。だから、いくつかの研究の中には、ホメオパシーの有効性を示すものもある。問題はホメオパシーを支持するひとが、そういう自分に都合のいいデータのみを引用し、自分に否定的なデータを無視することである。ホメオパシーができた時代、「正統」医学は理論にとりつかれ経験を軽視していた。今日はそれが逆転し、経験が重視される時代となり、「正統」医学はメカニズムがわからなくても効くものは用いるようになっているのに対して、ホメオパシーは奇妙な理論にこだわり効能を否定する膨大なデータを無視している。
 病期には「自然な経過」がある。ヴォルテールは「医術とは、自然が病を治すあいだ患者の気を紛らわせること」といった。風邪であればなにもしなくてもいずれ治る。そして「自然の経過」に反する驚くべきことも時におきる。末期がんといわれた患者の1%は五年後にも生きている。
 ホメオパシーはある程度有効である。それはそのプロセス全体が効果をだすのであって、処方された砂糖玉が有効なわけではない。ホメオパスのもとで話をきいてもらい、自分の症状について説明をうけ、ホメオパスが威厳のある態度で安心させてくれる、そういう昔ながらの医療行為というプロセス全体が効果を発揮する。それならオメオパシーの砂糖玉が薬局で手軽に買えるようになったらばどうか。花粉症には花粉症用のレメディとか。
 そこで話はプラセボ効果の方へ。
 医師が患者を安心させることで患者の状態がよくなることは、この世で医療が始まって以来知られている。プラセボは毒性がない。その効果は痛みの分野でとりわけ顕著である。プラセボ効果は、偽薬の量に依存することがある。2錠投与より4錠のほうが効果がある。ピンクの錠剤とブルーの錠剤でも効果は違う。錠剤よりカプセルの方が有効なことがある。錠剤より注射の方が効く。立派な箱に入った偽薬のほうが効果的である。高いほうが安いものより効く。ものものしい処置を用いるほど効果的である。医者がその薬の効果を信じているかどうかも効果に大きく影響する。何か(嘘でもいいから)診断をつけると患者の状態はよくなる。「なんだかよくわかりません」と正直にいうより、「適当な診断名をつけ、何日かすればよくなるでしょう」と自信をもっていえば64%がよくなった(正直派は39%)。「プラセボ説明」「プラセボ診断」も有効なのである。
 ホメオパシーの有効性は、患者の状態を「診断」し、それに説明をつけることが働いている可能性が高い。それはいけないことなのか? 病気でないひとに病気であると思わせてしまう、病人にしてしまうという弊害はあるかもしれないと著者はいう。
 「温かみがあって親しみやすく、安心させてくれる」医師のほうが、「よそよそしくて安心させてくれない」医師よりも治療実績がいい。しかし最新の医療倫理は患者に嘘をつかないという方向に(著者によれば過度に)傾いている。このような医療倫理が不必要にひとを代替医療に走らせているのではないか?
 驚くような研究が紹介されている。対象は神経症の患者さん。処方する薬が偽薬であることを説明し、「あなたのような症状は偽薬でよくなることがしばしばあるのです。あなたにも効くのではないかと思います。偽薬というのは有効成分が何も入っていないのです。でもあなたには効くと思います。飲んでみますか?」ときく。偽薬はピンクのカプセルで小さな瓶にはいっており、「ジョン・ホプキンズ病院」というラベルがはってある。患者の症状は大幅に改善した。
 プラセボに反応しやすいのはどういうひとかという研究もたくさんおこなわれている。結果は、そういう特定のひとはいない、誰にでも効くというものである。プラセボ効果を「意味に対する反応」と考えるひともいる。
 シメチジン(潰瘍の薬。これがでた当時、潰瘍の手術がなくなり外科医を失業させるという話があった)が出た当時、その効果は劇的であった。しかしそのあとさらに効果の強いラニチジンがでるとシメチジンの効果は弱くなった。薬自体はまったくかわっていないのに医師の薬に対する信頼が落ちたことがその原因かもしれない。抗鬱剤の有効性は最近高まってきている。抗鬱剤へのわれわれの期待が高まったせいかもしれない。
 これらのことを考えると、プラセボ効果の表れ方は文化によって異なることが理解できる。
 
 ときどき偽医者がつかまり、そういえばあの人のやっていたことは変だったなどという話が新聞記事にでる。わたくしなどももし何かで捕まったりしたら、どんなことをいわれるかわからないと自戒しているが、概して偽医者というのは評判がいいようである。どこかに引け目があるのだから居丈高な態度はなかなかとれないわけで、「温かみがあって親しみやすく、安心させてくれる」医者とならざるをえないからではないだろうか? 偽医者はなんらかの医療機関で働いた経験を持つものが多いようであるが、その経験から医者なんか誰だってできると思うのであろう。なにしろ大部分の病気は「自然経過」で治ってしまうのであるから、その間、「患者の気を紛らわせる」術さえ会得していればいいわけである。概して若い医者より年のいった医者のほうが信用されるのは、経験年数があるほうが信頼されるという面ばかりでなく、「患者の気を紛らわせる」技術を会得しているためかもしれない。
 最近、若い真面目な医師の一部が代替療法に強い関心をもつようになってきている。いわゆる西洋医学に限界があるのは当然であるが、西洋医学はここで著者がいっているような理由でプラセボ効果を発揮しづらい状況になってきている。だから以前よりもその有効性が低下してきている可能性さえある。なによりも西洋医学は自分の限界のそとにいる患者には冷たい。たとえば、再発して手の打ちようがないがん患者であるとか、西洋医学的にどこにも異常が指摘できないにもかかわらず体の不調を訴えつづける不定愁訴といわれる患者であるとかは見捨てられてしまう。少なくとも患者さんの側はそう感じてしまう。代替医療は基本的にどのような状況においても治療を提供できる。病名に対してでなく患者さんの側の訴える症状や状況に対して治療をおこなうのであるから、何もできない状況というのはありえないことになる。代替医療は患者さんを見捨てない。そういう点が若い真面目な医師たちに魅力的に映るらしい。中井久夫氏が「看護のための精神医学」でいう「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ」ということである。中井氏のいう医師は多分に西洋医学の医師である。西洋医学の医師は治せない患者には冷たい。あるいは自分で治すのではなく自然に勝手に治っていく患者には興味がもてない。代替医療はそうではない。それは(西洋医学の)医師+看護師の両者を兼ねるものであり、しかも患者さんの側が医師という存在に抱いている幻想のゆえに同じことをしても(プラセボ効果により)看護師がおこなうよりも大きい効果が得られることさえあるかもしれない。
 だから前にも引用したが、著者が

 だが何より考えさせられることがある。プラセボ効果について知れば知るほど、ニセ科学を一概に悪くいえないという思いが湧いてきて板ばさみになることだ。たとえばホメオパシーの砂糖玉にプラセボとしての効能しかないとして、それはいけないことだろうか。・・患者には治してもらいたい症状があるのに、現代医学ではほとんど何もできないケースが少なくない。たとえば腰痛、仕事のストレス、原因不明の疲労感、ごく普通の風邪。ほかにもたくさんある。・・こういう場合に偽薬で対処するするのが非常に理にかなった選択肢ではないだろうか。・・

 というのは非常によくわかる。
 問題は、代替医療の側がしばしば全人医療とか統合医療とか言いだして、デカルト的世界観の否定とかをへて、あっという間に神秘主義すれすれのところまでいってしまうことである。プラセボ効果というのも神秘といえば神秘なのかもしれないが、しかしそれを神秘として説明しないで、われわれの理解できるタームで理解しようと努力することが大事であるはずなのだが。どうも代替医療の側にいるひとは科学が嫌いなようで、物質で説明するやりかたも嫌いである。では何が好きなのかというと生命力であるとか「気」であるとか物質では説明できないとされている何かなのである。そういうものはアニミズムなのではないかと思うが、還元主義的な方向での理解は生命や人間の神秘を消失させて、生を味気ないものとしてしまうとされているようで、科学は生命の尊厳を失わせるのだということになるらしい。
 そういう見解への反論として、ドーキンスは「虹の解体」を書いた。それは根本的に方向が違うのではないかとわたくしは思うが(ドーキンスは科学による生命の理解がいかに人をわくわくさせる魅力的なものなのかを説明して、科学は冷たいものではない、感動的なものなのであるということをいう)、それは代替医療の方向にいくひとはもともとDNAがどうとか眼の構造が進化によって説明されることの驚異とかいっても何も感じないだろうからである。彼らは生命というのは特別なものであって、物理化学的な説明を拒む独自のもので、そのもつ潜在力は計り知れないという方向の議論に強い親和性をもつらしい。ドーキンスなどは教育制度(それと幼少時の親の子どもへの関与)を変えればそういう「非科学的」な方向にひとがいくことを阻止できると思っているようであるが、わたくしなどはどうもそうは思えない。DNA二重螺旋のクリックなどはそういう神秘的な方向への感受性はまったくないひとのようで、ドーキンスもまたその同類なのではないかと思おう。だからドーキンスのいうことは全部頭でこしらえた理屈という感じがする。その対極にはたとえばディラン・トマスのようなひとがいるわけである。こういうひとは頭ではなく体全体で何かをわかるのではないかという気がする。
 脳の構造が違うのではないかと思う。もちろん脳の構造の違いは連続的なものであり、正規分布の中央にいる多数派は理屈によってある程度説得することが可能であるのかしれないが、端っこにいるひとは自分の信じていることをありありと感じているのであろうから、両者が議論によって説得されるというようなことはまず考えられないのではないかと思う。
 代替医療の側にいるひとはどうも来世であるとか死後の世界であるとかというようなことをいいだすひとが多いのではないかと思う。そういうのがわたくしは嫌いであるので、なるべくそちらには近づかないようにしているのであるが、そこから宗教へまではあまり距離がないのではないかと思えてしまう。物質的なものは浅薄で表層的で、それに対する精神的な世界は深く、その深さの究極が宗教であるというような見方は、わたくしからみれば浅薄しかいいようのないものなのであるが、そう思うのはわたくしの脳の構造に原因があるのであろう。
 医者になってしばらくして、多くの医者がもっている宗教への劣等感のようなものに非常に驚いた。病気が進行してもはや医学的には何もできることはなく、あとは死をむかえるだけというような局面にたつと、もう自分には何もできることはない、あとは宗教の出番であるというようなことをいう医者に少なからず遭遇した。中井氏がいうように「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできる」のであるから、医師としてできることはなくなっても医療者としてはできることは無数にあるはずなのだが。

 第6章「栄養評論家の作り話」以下は稿を改めて。
 

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

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看護のための精神医学 第2版

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