M・ブルックス「まだ科学で解けない13の謎」(終)第13章「ホメオパシー(同種療法)」

 
 本書のタイトルは「まだ科学で解けない13の謎」なのだが、それではホメオパシーが科学で解けない謎なのかといえば、本文にもあるように「実証ずみの科学的現象という基準で見るかぎり、ホメオパシーにはまったく“効力がない”という評価が下されている」のであり、超希釈液のほうが、希釈されない元々の物質より疾患を癒す効果が高いなどというのは、「科学的な思考をする大半の人々にとっては、実際ばかげている」のだから、それでもう終わりである。いうことはない。それなら、なぜそういうものが広く普及しているのかが問題なのだろうか? 本章のサブタイトルは「明らかに不合理なのになぜ世界じゅうで普及しているのか?」である。それが科学で解けない謎なのだろうか?
 しかし本章をみるかぎりそうではない。この療法?の始祖ハイネマンにもそんなことはわかっていた。治療するのはそこにふくまれる物質それ自体ではなく物質の持つエネルギーなのだというその説明を著者は紹介し、今度はそれを検討する科学論文として1988年の「ネイチャー」の論文が論じられ、さらに水というのが科学的にとても奇妙な液体であるという話になり、水素結合がどうのこうのという話になり、ホメオパシーの効果は“水の記憶”と“気”によるのではないかというホメオパシー支持の側の説明を紹介していくことになる。著者はそれに賛成しているのではない。しかし100%間違っているとも言い切れないのではないかという方向の未練を残した筆致となっている。
 著者はレメディ製作の実際の場でどのような奇妙なことがおこなわれているかを紹介している(嬰ヘ短調とかト長調和音というような処方があるのだそうである)。そしてそういうことを遺憾としているのであるが、そのような不合理や神秘主義をとりのぞけば、ホメオパシーにもまだいくばくかの可能性が残っているのではないかと、言いたいようなのである。もともとホメオパシーは植物や鉱物も治療の手段として用いたのであろうから、過度の希釈といったことを行わなければ、一定の効果をもつものがその中にあるであろうことは自明である。しかしそうまでして、ホメオパシーになんとか擁護できる余地を残したいとする著者の姿勢が何に由来するのかがよくわからない。
 日本ではまだホメオパシーを用いる医者はあまりいないのではないかと思われるが、フランスやオランダでは40%の医者が、イギリスでは37%、ドイツでは20%の医者が使用しているとある。しかし、どういう風になのかは、書かれていない。これ一本でいっている医者があるとも思えないので、ホメオパシーを信じている患者さんがいたら、希望があれば出すということなのだろうか? ドイツで診療を受けてきた患者さんにきいたら、むこうでは“スパ”という処方があるらしい。温泉に行けということである。日本ではなさそうである。医療というのはそれぞれの地域の歴史の中で続けられてきているわけであるから、その土地その土地で有効と信じられているやりかたを利用するということはあるのではないかと思う。
 そのような問題の所在ににはじめて気がついたのは、だいぶ以前、養老孟司氏の何かの本を読んでいて、中国は西洋医学と漢方、インドでは西洋医学とアーユルベーダといったように、どこでも二本立ての医療をおこなっているのに、なぜ日本だけは西洋医学一本槍になってしまっているのだろうかという疑問が書かれているのを読んだときである。明治期において日本は医療は西洋医学一本でいくことを国策として決めてしまった。そこでおこなわれた無理がいま怨霊となって祟っているのではないだろうか? 
 橋本治氏は「キリスト教は、ヨーロッパ各地に伝搬していく段階で、その地の民俗信仰を消滅させて行くが、しかしそれでも“その土地に根づいた民間信仰というのは、そうそう簡単に消えない」といっている。そして、その消滅させたはずの民俗信仰がオカルトとなって祟るのだという。しかしそうだとしても、今さら日本にホメオパシーを持ちこむ必要があるとは思えない。木に竹を接ぐようなものである。日本でホメオパシー信者が最近でてきてるらしいのが不思議である。
 このごろ、日本でも統合医療というようなことをいう人たちがでてきている。たとえば日本統合医療学会というところのHPには、こんなことが書かれている。「疾病を治療し症状を緩和する方法には「対症療法」と「原因療法」があります。これまで多くの医療機関などで実践されてきた医療は、「対症療法」を中心とした近代西洋医学を根本としてきました。しかし昨今、国際的な医療の趨勢(すうせい)は、単に病だけではなく、人間の心身全体を診る「原因療法」を中心とした伝統医学や相補・代替医療も必要であるという考え方に急速に移行しています。統合医療とは、二つの療法を統合することによって両者の特性を最大限に活かし、一人ひとりの患者に最も適切な『オーダーメイド医療』を提供しようとするものです。実際に、救命救急や外科手術などの臨床現場では近代西洋医学でしかなしえない治療が施されます。しかし一方で、慢性疾患の治療や予後の療養、さらには近代西洋医学では治療不可能と言われた症状に対して、伝統医学や相補・代替医療の有効性が数多く報告されています。」
 わたくしが若いころには「全人医療」という言葉があった。近代西洋医学は「からだ」しかみない。「こころ」もふくめた人間全体を診よ、というような話である。このHPの表現にもその流れがあることは明瞭にみてとれる。わたくしはこのHPの主張とは反対に「近代西洋医学」は「原因療法」が得意であり、「対症療法」こそが不得手であると思っている。それにもかかわらず、医療の現場で経験する症例のほとんどは「対症療法」ですむもの、もっと具体的に言えば何もしなくても自然治癒するものであるので、それへの近代西洋医学の対応へのまずさへの不満が、患者さんの側にも医療をおこなう側にもあって、それが代替医療とか統合医療といった方向に一部のひとを向かわせることになるのだろうと思う。
 お医者さんであるNATROMさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100903)に、標準医療(つまり近代西洋医学)がなぜホメオパシーに“勝てない”か?という考察がなされている。標準医療では本当のことをいわなければならない。しかしホメオパシーではどんなことでも言いたい放題である。あらゆる症状の変化がすべて治癒に向かう過程、改善へとむかうために乗り切らなければいけない道程であるとして説明されてしまう。あらゆることを説明できるほうが、煮えきらなくて本当のことはわかりませんという医療よりも優位に立つのは明らかである、としている。
 ポパーは、精神分析はおきているあらゆる事象をすべて説明できてしまう点で科学ではないといっている。しかし科学ではないというだけのことであって、それで“治らない”ということではない。とにもかくにも精神分析という技法が今日まで続いてきているのは、それが有効に働くひとがいたからである。
 NATROMさんがとりあげているのは悪性リンパ腫ホメオパシーで治そうとして患者を死にいたらしめた症例である。悪性リンパ種がホメオパシーで治るはずがない(もちろん、悪性腫瘍でも自然退縮例はあるのだから、ホメオパシーで治療していて治る症例はありうるであろう。そして前章の「プラシーボ効果」のところで考察されたように、ホメオパシーは一部の患者さんにとっては非常に強力なプラシーボ効果を生じさせるのではないかと思う)。
 近代西洋医学は対症療法ですむもの、自然治癒が期待できるものへの対応が苦手である。というかそんなものはそもそも病気ではないと思っている。「また風邪か? なんで風邪くらいで病院なんかに来るんだ。家で寝てればいいじゃないか? そのうち治るよ」と思っていて、「まあ仕方がないな。一応、薬を出しておくか」という診療をしているのと、あらゆる症状が症状があるというだけで自分の治療の対象であるとしているひとは、どちらが患者さん側の信用を勝ち取るかという問題である。患者さんの側の信用ということが治療効果に無視できない影響があることは、前章の「プラシーボ効果」の章でもいわれていた通りである。
 シンらの「代替医療のトリック」では、近代医学がほとんど有効な手段をもたない疾患として風邪と腰痛が挙げられていた。しかしもっとも苦手とするのはいわゆる不定愁訴の患者さん、病気の心配をし、病気があるとは思えないのに症状があるのだと訴える患者さんである。(医者の側からすれば「病気」がないのだから「病気」ではない。すでに自分のあつかうべき領域ではない。しかし訴える側からすると「症状」があるのだから何かあるはずということになる。実はここでの問題は、「症状」があるのだから何かあるはずというのがすでに西洋医学的疾病観によっているのであり、症状があればそれの原因などを考えるまでもなくそれへの対応をすればいいという「漢方医療」的?発想が患者さんの側にもないということである。おそらくホメオパシーの立場からすれば症状があることが、治療の出発点である。症状に対して何かが行われる。診断は必要とされない。だから症例が悪性リンパ腫であったりすると困る。しかし患者さんの側からすれば、相手にしてくれない医療者よりも、相手にしてくれるひとを信頼するのは当然であろう。
 キャッセルの「医者と患者」に「病棟医長症候群」という言葉がでてくる。医学部を卒業して3〜4年の若い医者が実践に足を踏み込むとどうなるか? 彼は「うつ状態に落ち込む可能性がある。彼がモノクロナールガンモパチー(多発性骨髄腫)の患者にお目にかかることは稀であり、電気泳動の必要性はめったにないことを知る。彼は欺かれてきたことになる。昨日の“老いぼれ”と“ばか”ども(興味がわかぬ疾患を持った患者)が、今や毎日の患者である。彼の腕は普通の風邪、下痢、膣感染のために求められる。」 そしてキャッセルがいうには、本当の問題は、モノクロナールガンモパチー患者が実際に診察室にきたときになにが生じるかということのほうである。「診断を下すだけでは十分でない。患者はケアされなければならない。入院期間中だけでなく、彼が生存する何ケ月も何年も‐そして彼の配偶者や両親もである。患者の機能が最大限に発揮できるようにし、不安や恐怖を鎮めるように努力しなければならない」のだ、と。(それにもかかわらず)診断のための電気泳動の知識をのぞけば、それ以外のことについては、この若い医者の知っていることは、素人とあまり変わるところがないのだ、と。
 最近の若いお医者さんの一部が漢方などに強い興味を示すのは、西洋医学が苦手とするこのような領域について、それらが有効な何かをもっているのではないかと感じるためではないかと思う。実はわたくしが医者になって最初に受け持った患者さんが多発性骨髄腫の患者さんであった。そのころは免疫学が脚光をあびていて、医学部の授業においては免疫グロブリンの構造決定に寄与したモノクロナールガンモパチー(多発性骨髄腫)は花形の病気であり、授業をきいていて非常に興味ひかれる疾患であった。しかし実際に受け持ってみると何ともさえない病気なのである。あちこちの痛みを訴えるただの元気のないお婆さんなのであった。
 計見一雄氏の「脳と人間」に、「現代医学が臓器ごとに専門化され、木を見て森を見ない医者が増え、それどころか病人を診るのが仕事であることにも眼が向かない事態になり、その結果人間には心があって、病気になればその心も痛むことが近代大病院の中でおろそかになった。そういう事態に対して、専門家を作って対処しましょうというので、「総合病院精神医学」なるジャンルができた」とある。そして、そこに一部の患者さんにみられる自分の病気は過去の罪業に対する懲罰なのではないかという思い込み(妄想)のことが書かれている。計見氏は精神科のお医者さんであるけれども、わたくしのような内科の医者はそもそも患者さんがそんなことを考えているのではないかということにさえ、ほとんどの場合、思い当りもしない。かりに気づいたとしても、あまりに突拍子もない“非科学的”な思い込みである。どのように対処したらいいのか見当もつかない。その症例で計見氏がしていることを読むと、受容、支持、保証という精神医学のごく基本のようなことである。しかし、受容、支持、保証という言葉を知っていてもそれが実践につながるわけではない。おそらくホメオパシーの“医療?”の場では受容、支持、保証といったことがそれと意識されることもなく、実践されているのではないだろうか? そして、それを実践しているうちに、臓器ごとに専門化した西洋医学の独壇場である疾患にも時にかかわってしまうこともあり、その場合に死にいたるような重大な帰結が生じてしまうということなのではないだろうか?
 シンらの「代替医療のトリック」に、ホメオパシーをハイネマンが創始したころ、西洋医学がしていたことといえば、しないほうがましなこと、することによって患者さんを悪くすることがほとんどであったことが指摘されている。ハイネマンはそういうものへの疑問からホメオパシーを始めたのだそうである。あの超希釈というのもあれだけ薄めればすくなくとも毒にはならないだろうということだったのではないかという気がする。
 しかし、現代ではとにかくも西洋医学はなにがしかのことができるようになった。そのできるなにがしかのことをする機会がホメオパシーに頼ることで失われてしまう、それがホメオパシーが最近問題にされる一番の点なのであろう。もっといえば、必ずしも理由がないわけではない西洋医学的の行き方への反発が、そうはいっても有効なところもある西洋医学(重大な病気、命にかかわることの多い病気をこそ得意とする)を全面的に否定しまうことにつながってしまう、それが問題なのである。
 ホメオパシーは科学からみれば、議論以前のものである。しかし医療の場は科学だけでなりたっていない。というか、科学だけで通用していける部分は決して多くはないことはキヤッセルの指摘する通りである。あれほど“非科学的”なホメオパチーにむかうひとがいるのは、科学としての医療に充たされないひとが多くいるからなのであろう。「ホメオパシーは科学の目から見ればまったく議論の余地なく無意味である」という見解にホメオパシー支持者がほとんど反射的に示す不快感、嫌悪感というのは、そこに「宗教は科学も目からみたら一切の根拠を否定される」といった議論に通じる何かを直観的に感じるとることによるのであろう。人間が科学などというもので簡単にわかってたまるものか、人間というのはあるいはこの世界は、もっとずっと神秘的なものなのであって、科学などという浅薄な学問では到底理解できないような多くの謎にみちみちているのだという信念を否定するようにみえる論をそこに感じて、それが許せないのであろう。
 「まだ科学では解けない」謎ではなく、「科学だけでは解けない」問題が医療の場にはまだ無数にあるということなのであろう。しかし、そうではあっても医療は科学に足場をおかなければならないのであり、そのすべてを捨てて、いきなり神秘のほうにいってしまったりされるのは困る。科学と神秘のどっちをとるかという二者択一のような極端な議論がいきなり表にでてきてしまうことがあまりに多いように思える。統合医療などというのも(わたくしから見ると)古来からの叡智などという議論がすぐに科学では解明できない人間の神秘という方向にむかいそうな危うさを内包しているもののように思える。そしてこの最終章をみる限りこの著者もまた、そういう方向への誘惑にかなり弱いところがあるのではないかと感じた。
 
 (お詫び:書名を「科学ではまだ解けない13の謎」と前エントリーに書いてしまっていた。訂正しました。)
 

まだ科学で解けない13の謎

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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代替医療のトリック

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医者と患者―新しい治療学のために (1981年)

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脳と人間-大人のための精神病理学 (講談社学術文庫)

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