R・ムラー「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス」(1)

   楽工社 2010年9月
 
 著者はカリフォルニア大学バークレー校の物理学の教授。原題は「Physics for future presidents: the science behind the hesdlines」。
 もしもあなたが世界の指導者であったら、科学について知らないわけにはいかない。そうでないひとにとっても、科学の知識がなくて、どうして投票で賢明な選択ができるだろうか? ということである。しかしそういう本でありながら、政治やビジネスや外交の問題にはなるべく触れないようにした、とある。あくまで科学についての知識を伝えるための本なのだ、と。
 本書を読んでいろいろと教えられることろがあった。まさにわたくしは科学の様々な点(特に物理学の分野)についてきわめて無知であるということで、そういうひとにきわめてわかりやすく、専門用語をほとんど用いずに、科学の基本についてきわめて冷静に語っていく本である。
 しかし、その冷静さというのが異様な印象をあたえることも事実で、いわば科学の価値中立性ということについての確信犯が書いて本なのである。
 第一章「九・一一事件―何が起きたのか?」の章をみてみる。2001年9月11日の貿易センタービルの倒壊がなぜおきたのかということが議論される。最初のページから驚かされるのは、この時にビルの破壊に関与したエネルギーはTNT火薬約1800トンに相当するもので、これは北朝鮮が2006年に行った核実験のエネルギーより相当に大きいという指摘である。われわれは(わたくしだけかもしれないが)核兵器の破壊力というのは他の兵器とは桁が違うものという認識をもっている。それがのっけから否定されるわけである。
 ビルを破壊したのは飛行機が衝突した衝撃によるのではなく、飛行機が積載していたガソリンによる火災によってであるということが、縷々説得的に説明されていく。ジェット機は60トンの燃料を積んでいる。1トンのガソリンが燃焼するとTNT火薬15トン分のエネルギーを放出する。60トンの燃料ならTNT火薬900トン分である。それが2機なら1800トン。ガソリンが火薬以上のエネルギーがあるというのは本当なのだろうか? 実はチョコチップクッキーでさえ、TNT火薬を上回るエネルギーを持つ。TNT火薬と同じ重量のチョコチップクッキーを若者に食べさせてハンマーをもたせたほうが火薬より破壊力が大きい。チョコチップクッキーのエネルギーは1gあたり5キロカロリー。一方、TNT火薬は1gたった0.65キロカロリー。TNT火薬の威力はひたすら、エネルギー放出速度の速さに依存する。ガソリンやチョコチップクッキーはエネルギーとなるために燃焼しなくてはいけない。つまり空気と化合する必要がある。それに対してTNT火薬は瞬時におきる化学的連鎖反応によって爆発する。
 貿易センタービルの崩壊がおきたのは、積載したガソリンが火災を長時間おこすことによって生じた高熱による支持材の鉄骨の軟化と湾曲によってである。そのような事態はテロリストも予想していなかったであろう。また消火にあたる消防士も予想していなかったであろう(だから、最下階に対策本部をおいた)。このビルを設計した技師の一人がテレビでこの火災をみて、崩壊の可能性に気づいたが、現場の混乱のため連絡がとれなかった。
 この章を読んだだけでも教えられることがたくさんあったが、しかし貿易センタービルの破壊というのは物理学の(あるいは建築学の)実験としておこなわれたわけではない。それはテロリストがある目的のためにおこなった行動の結果なのであって、たとえビルが崩壊しなかったとしても、あのテロ行為は、テロはとして十分に目的を達成したものになっていただろうと思う。あのテロが行われたのは、テロリストが抱いた思想あるいは思考によるのであって、テトリスが自らの敵として想定したものの一つに、この著者が代表するような冷静な科学的思考というものがあるはずである。テロリストは西洋文明一般を憎んでいたであろうし、その中の一つに科学的なものの見方というのもあるであろうが、彼らは神風連のようにあらゆる西洋的なものを否定するという方向にいったのではなく、飛行機という(西洋)文明の利器をその手段として用いた。しかし、そこで利用されたのは、ものとものがぶつかると破壊がおきるという、物理学以前の経験的事実であって、だからこの事件でおきた破壊の規模ははるかに彼らの想定を超えていたのであろうが、とにかくある程度の破壊がおきれば成功であったはずで、その事件に対してなぜビルが倒壊したのかを冷静沈着に説明していく著者の説明というのは何か方向が違っているのではないかという印象がいなめない。
 20世紀の科学哲学では科学の中立性という見方は徹底的に批判されてきているはずであるが、そういう方向には著者はほとんど関心がないように見えるのが不思議である。そういうことで、著者の姿勢については納得できないものが残ったが、科学的な事実や考え方については教えられるところが多かったので、次からはそれについてみていく。
 

今この世界を生きているあなたのためのサイエンス 1

今この世界を生きているあなたのためのサイエンス 1