中井久夫 「臨床瑣談 続」

   みすず書房 2009年7月
 
 「みすず」連載中の文章をおさめたもの。丸山ワクチンについての論が話題になり、急遽、出版されることになった前の「臨床瑣談」の続編である。
 「まえがき」に「一般の人と医師団との間にある、一種のずれ、すれ違い、違和感、どこか相性の合わないもの」ということがいわれる。一般の人が求めるのは端的な「治癒」であるが、医学は実はそうではない、と。患者とその家族は「治癒」を願うが、治癒例を羅列するひとは「治療師」であっていかさまではないかとも思う。一方、医師は疾患が何であり、その治療のプロセスがどのようなものであるかを縷々説明するが、それは患者とその家族が求めているものとはどこかずれている。
 かってそのずれを埋めていたのが「私におまかせ下さい」という「パターナリズム」であった。パターナリズムの時代は去った。しかし、それが去ったための空白は埋められていない。
 前著「臨床瑣談」も本書も、中井氏の身内や知人などが病気になった場合の事例が多く語られる。それは、その空白を埋める一つのやりかたの例示なのである。その埋め方には正解があるわけではなく、中井氏のものも、こういうやり方もあるのではないかということである。
 通常、一般の人と医師団の間のずれというと、情報の非対称性、専門家と素人の違いという観点からされる議論が多い。小松秀樹氏の「医療崩壊」などもその一つなのではないかと思う。マスコミは医療をわかっていない、法律家も医療をわかっていない、という議論である。それはそうであると思う。確かにわかっていないであろう。わかってもらうための努力をし、少しでも多く情報を公開していくことは必須である。しかし、ここで中井氏が述べていることは、かりに患者とその家族が医師団と同じだけの情報をもったとしてもなおかつ生じるであろう「ずれ」についてなのである。
 かっての「パターナリズム」にかわったものが「インフォームド・コンセント」である。わたくしが医者になったときには「インフォームド・コンセント」などという言葉はなかった。癌という診断は家族にはいっても本人はいわないのが普通であった。癌の告知などという言葉もなかったように記憶している。今では、告知が普通である。「残念ながら、あなたは癌です。すでに広範に転移していて、手術は無理です。化学療法もたぶん効果は期待できないと思います。予後は3年は無理です。1年も厳しいかもしれません。半年はなんとか、それも厳しいかな? ということで、われわれにできることはあまりありません。残りの人生を有意義に過ごすために、どのような生き方をあなたが希望されるのか、それを教えてください。1%でも可能性があるなら化学療法をしたいというのであれば、そうします。しかし、副作用は結構きついです。なにもしないという選択もあります。もちろん将来、痛みがでてきたりした場合にはいろいろと薬がありますから、あまり心配されなくてもいいです。どのような選択をされるのも患者としてのあなたの権利です。どうしますか?」というような話を、わりとあっけらかんとする。
 インフォームド・コンセントという言葉が日本にはいってきたときに聞いたのは、アメリカでは医療訴訟が多いので、本当のことを言っておかないとあとで訴えられると困るから、患者さんが落ち込もうともそんなことには少しもかまわず、本当のことを全部いうのだ、という説明だったような気がする。しばらくして、それが患者さんの権利尊重という観点からいわれているのをみた時には本当にびっくりした。
 しかし、パターナリズムの時代には医師団は隠していたのである。医療ミスで患者さんが亡くなったとき、(医療にミスはつきものだから、自分のミスは仕方がないのではあるが)本当のことをいったら家族には納得できないものが残るだろうから、家族の気持ちを考えてあえて嘘をいうのもまた医者の務めである、というような論理がたぶん通用していたのではないかと思う。まさにパターナリズムである。だからパターナリズムの時代が去ったことは正しい。しかし、中井氏のいうようにそれが去ったあとの空白はまだそのままで残されている。
 中井氏は、精神科医療がすすむと入院患者は超短期入院と超長期入院患者に二極分解するという。これは内科でもまたおこっていることである。中井氏の父は1975年に認知症になって結局7年入院したという。これはいまではありえない超長期入院である。そこの病室でみた認知症患者たちをみて、中井氏は50年前の統合失調症患者たちを想起したという。現在、そのときに較べて統合失調症患者の予後は格段によくなった。それならば認知症は?
 認知症は太古からあったものだろうか?と中井氏は問う。それが医療の世界で認知されるようになったのは100年前であり、ちょうど先進国の平均寿命が50歳を超えたころである、と。
 さて、認知症の患者さんの医療について中井氏が力説するのが、患者さんの自尊心の再建であり、これ抜きでは治療でも看護でもリハビリテーションでも必要な士気が得られなくなるという。本当にそうだと思うけれども、それができるのかがわからない。
 実際、今の内科病棟の患者さんをみていると、高齢の患者さんが多く、認知症のひとも多く、それが看護スタッフの士気を著しく低下させている。医者の不足からくる医療崩壊の次には看護スタッフが病院から「立ち去り型サボタージュ」をはじめるのではないかと思う。それについてどうしていいのかはわからない。無条件に老人が尊敬されるような文化をもつところ(たとえば、フィリピン?)から介護スタッフを受け入れるというくらいしか思い浮かばない。しかし、そういうことには看護協会は強く反対するであろうから実現の可能性はあまりない。
 中井氏は、患者とはあるいは一般に不幸なひととは、考え、考え、考え、考えている者だという。それに対して、幸福な人とは、明日も今日と同じであってよいと思っているひとであり、健康もまた幸福の一部である、と。
 中井氏が本書でいう「ずれ」とは、幸福な人である医師団が、病気になることによって考え、考え、考え、考えている者となってしまったものたちに、相変わらず、幸福な人、明日も今日と同じであってよいと思っているひとのままで接していることにあるということになるのかもしれない。
 パターナリズムにはとにかくも、考え、考え、考え、考える者となってしまったものたちを包み込むなにかがあり、そんなに考えなくてもいいのだとして、患者さんの負担を少しでも軽くすることにはなにがしか寄与はしていたのかもしれないと思う。今はそれを全部患者さんに負わせている。それは無責任ではないか、というのが患者さんとその家族が感じる「ずれ」なのであろう。
 次が、血液型性格学の話。ここで論じられるのは「性格」という言葉の曖昧さである。A型性格とはB型性格とかいうのがインチキであるなら、では内向型とか外向型とかいうのは? そもそも性格というのは静的でかわらないものか?
 さて、中井氏は、日本で血液型性格学がはやるのは、宗教の力が大きくないことによるのではないかということを言っている。なるほどと思った。
 中井氏が紹介している大変おもしろい話。精神科教授たちが集まると血液型をつかった人物評に花がさくのだそうである。精神科医は仕事を離れると、浅層心理学でいかないと心身がもたないという機微があるからではないか、と。その場に、人類遺伝学を専攻する教授がいて、苦虫をかみつぶしていたそうである。
 次が、酒を煙草。これまた人類の寿命が延びなかったら問題にならなかったのではないかと。
 アルコール症のひとへの対応の基本は「恥をかかせないこと」だという。目標は「おれも捨てたものではないな」と思えるようになってもらうこと、と。
 わたくしは肝臓を専攻しているから、ほかの医師にくらべればアルコール症の患者さんをみる機会は多いほうかもしれないが、アルコール症の治療は死屍累々というかとにかく難しいという印象をもっている。治せるのは医者ではなく、「AA」の会だけという話をきくことがあるが、本当にそうかもしれないと思う。専門病院に入院してもらっても、断酒できたひとはほとんどいない。アルコール症のひとはお酒を飲んではじめて「普通」になれるというひとである。それを治すのはほとんど人間を変えることをしなくてはいけない。ここで中井氏が書いていることはいろいろと参考になる点もあるが、それでも難しいと思う。
 煙草については、わたくしも中井氏と同じく、「宣教師のごとく煙草を悪魔として黒く塗りつぶすのは好みではない。」 とにかく清教徒的なものが嫌い(あるいは、自分が正しいと思いこんでいるひとが嫌い)なのであるが、いまの状況ではいかんともしがたい。狭く医学の観点からみれば煙草はいいことはほとんどないのであろうが、それは幸福な人としての医者の見地であって、世の中には不幸なひともまたたくさんいるのであるから、狭い医療の見地からの意見を押しつけることについては、深い逡巡がなくてはいけないと思う。オーウェルの「カタロニア賛歌」を読むと、兵士にとって、煙草は食料以上に必要なものであるらしい。恩賜の煙草というのも故あることなのであろう。アメリカの兵士は煙草をすわないのだろうか?
 「外泊の目的は病院疲れを癒すこと」という大変すばらしい言葉があった。さっそく、患者さんに使ってみようと思う。
 次が「現代医学はひとつか」という話で、これと次の「中医学瞥見の記」は主として中医学の話題。今まで中井氏がいろいろなところで書いてきていることが多い。近代医学は主戦場を重視し、中医学兵站を重視する、という。
 大分以前に中井氏の本で患者さんの舌の詳細な観察の図がたくさんあるのを見て、はずかしながらそれ以来、少し患者さんの舌を見るようになった。体調などという言葉はほとんど西洋医学ではでてこないものであるが、舌の変化というのはなにがしか「体調」を示すのではないかと思う。
 最後に最近の新型インフルエンザについての論があるが、とくに新味のあるものでもないように思った。
 
 あいかわらず、大変に面白かったが、ところどころ文章がゆるいというか、表現の的確を欠くように思える部分が散見し、論もぐるぐるとまわって、論旨が不明確となっているところもあるように思えるのが気になった。体調が悪いのだろうか?
 

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