小谷野敦「里見紝伝「馬鹿正直」の人生」補遺(3)日本の古典・宗教・中井久夫

 
 小谷野氏から三度、お返事をいただいた。
 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090220
 
 宮崎先生からお返事があった。福田恒存大岡昇平中村光夫といった人たちには共通点があって、西洋文学には詳しいけれど日本の前近代文藝に疎いというところです。私はキリスト教系の教育を受けたことがないので、キリスト教と格闘するような人たちの心理が分からないということと、ものごころついた頃には日本が経済大国になっていたので、西洋に対する屈折した心理がどうも分からないのです。それと中井久夫については、『中央公論』の今月号で批判しておりますので、ご覧ください。
 
 小谷野氏が述べておられる論に特に異存はなく、以下に書くことはそれらの問題へのたんなる感想と補足のようなものである。
 一応、手紙文にて。
 
 小谷野敦様、
 確かに「鉢の木会」の面々は、日本の前近代文藝には疎そうです。三島由紀夫は少しはましなのかもしれないですが。
 吉田健一なんかはドナルド・キーンの「日本の文学」を読んで初めて日本の近世にも文学があること知ったなどととぼけたことを言っていたくらいですから、まったく無知に近かったのではないでしょうか?
 こちらが気がついている限り、吉田健一が引用した日本の古典は「酔をすすむるさかずきは、・・・」という「卒塔婆小町」の一節だけで、はっきりとキーンの本からの引用と断っています。三島由紀夫いわく、「吉田家(吉田茂ファミリー)など典型的なアングロマニアで、シナ趣味で、日本の古典にはまったく興味がない。だいたい日本の上層階級の教養には公家を除いて日本の古典は全然ない。」(中村光夫との対談の「対談 人間と文学」(講談社 1968年)
 一言弁ずると、われわれが音楽というとまずバッハやベートーベンを思いうかべ、琴や尺八よりもピアノやヴァイオリンのほうを身近に感じてしまうということはいかんともしがたいわけで、それは明治に日本が西洋を受け入れたことの結果なのであり、文学にも同じ事情がおきているということがあり、明治期の西欧受容によってうけたさまざまな傷をどのように癒していくかということが多くの文学者の焦眉の関心であったとすると、まず西洋の文学にのめりこんでいったのもやむをえないところもあったのだろうと思います。
 
 教育の過程で宗教的なものを教えられたことは一切ありません。麻布という学校は、出自はキリスト教とのかかわりがあったようですが、こちらが通った時代にはそういう教育は一切なく、その代わりにあったのが漢文だったように思います。週2時間6年間漢文の教育を受けたことは、自分の財産となっていると思っています。三島由紀夫がいうように、日本の教育における古典というのはシナだった、その名残なのだろうと思います。
 宗教に関心をもつようになったのは、二つの原因があり、一つは学園紛争、もう一つは医者になったことだと思います。
 直接には後者で、臨床の場にでるようになって経験した《医療者が宗教にもっている劣等感のようなもの》をとても不思議に思ったのがきっかけのように思います。
 医者は身体という機械の修理工で、癌などで患者さんが治療不能になると、もう自分の出番はなく、あとは宗教家に(ある場合には精神科医に)頼むだけというような雰囲気を感じて、それはないだろうと思ったのがはじまりです。
 大学紛争とのかかわりは、そもそも福田恆存にいかれたのが、紛争での各派の争いが、自分は正義の側にいると言いつのって、反対の側にいる正義に反するとするひとたちを非難批判あるいは誹謗をできる特権的立場を手に入れようとする動機によるのではないか、という見方を教えてくれたことによります。そういわれてみれば、本当にその通りなのだと思いました。福田恆存のいう「個人のための宗教」と「集団のための宗教」の違い、イエスの教えは個人には愛の宗教となっても、集団には他民族、他集団排除のための憎悪の宗教となってしまう、そういう話です。福田恆存は、D・H・ロレンスの黙示録論を自分の論拠としていましたが、あとから考えるとその根源はニーチェなのかなと思います。
 間違いなく吉田健一教の信者だった倉橋由美子氏の宗教をめぐる小説「城の中の城」(新潮社 1980年)で、「桂子さんが怒り心頭に発するのは宗教の、と言つても大概はキリスト教のどこかの派の勧誘員である。連中は入信すればお得ですよといふことは余り説かない。それよりもこちらを病人に仕立てようとする」という一節があります。そうやって病人をあわれむ立場になりたいということが彼らの信仰の動機なのだと。
 さいわい、わたくしはこういう勧誘員にまだであったことはなく、せいぜい「悔い改めなさい!」などとスピーカーからがなっている変な外人さんを見るくらいです。しかし、その世俗版は、世に満ちていて、「あわれなるものよ、汝はまだ喫煙の害に気づかぬのか!」という人たちなどは、その典型でしょう。ピューリタニズムの精神そのもののように思います。
 小谷野さんもよくご存知かと思いますが、R・クラインというひとの「煙草は崇高である」(太田出版 1997年)という本があります。そこで氏は、「清教徒伝来の文化が、公衆衛生の見かけのもとで道徳判断を立法化して社会にそのヒステリー的ヴィジョンを押し付け、罪深い束縛を強要し、自由を全面的に制限するに至るまで権力のように監視や検閲を拡大し続けているような時代に(われわれは)生きているのだ」と言っています。
 小谷野さんは、西洋キリスト教(の一派)と格闘しているのであり、西洋思想の根幹の一つと対決しているのではないでしょうか?
 クラインは、「実際、もし煙草がほんとうに健康によいものであれば・・、それを吸うひとなどごくわずかになる、と言うことはできるだろう。・・もし煙草が健康によいものであれば、それは崇高ではなくなるだろう。・・煙草は崇高であるがゆえに、健康と有効性の立場からなされるいかなる批判に対しても、原則として抵抗する」というようなことを言っています。こういう物言いのどこかにニーチェに通じるものを感じます。
 わたくしは吉田健一を通じてアングロマニアになってしまいました。「ぼくはグレコマニアでもっと道徳的なんです。(笑)」と三島由紀夫はいいます。小谷野さんもグレコマニアなのだと思うのです。道徳的です。
 
 「中央公論」の「正直者の書評」拝読しました。
 中井久夫氏の「臨床些談」は、わたくしもここで論じていました。http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20081221
 カリスマ視しているかなと思って見返しましたが、かろうじてセーフでしょうか?
 中井さんのヴァレリーの翻訳はあまり優れたものとは思えないのですが、カヴァフィスという詩人の名前を知ったのは氏によってでした。よくよく見ればフォースターの評論にも名前がでていましたが。
 「外傷性記憶とその治療」の初出は知りませんでした。「家族の深淵」での患者の心拍と時計がシンクロしていたという話もさることながら、患者の脈を診ているうちに自分の心拍がそれを一致してしまうという記述のほうが、本当かね?と思いました。「村上春樹、河上隼雄に会いにゆく」(岩波書店 1996年)で村上春樹が「(ノモンハン迫撃砲弾の破片と銃弾をホテルにもって帰ったら)夜中にパッと目が覚めたら、部屋が大揺れに揺れているんです。もう歩けないぐらいに部屋中がガタガタガタガタ揺れていて、・・それで真っ暗な中を這うようにしていって、ドアを開けて廊下に出たら、ピタッと静まるんです」などといい、それに河合隼雄が「そんなのありだと思っているのです。・・ただ下手な説明はしない。下手な説明というのはニセ科学になるんです」などと答えている。こういうのが一番困ります。それに較べたら、中井氏のほうが罪が軽い、などというと、カリスマ視していることになるのかもしれないですが。
 河合氏はユングを日本に輸入するに際してなんとかそのオカルト性をうすめようとして苦心したのだと思います。でも村上春樹に正面切っていわれると、そういうこともあると答えざるをえないわけです。河合さんてそういうオカルトは一切信じていなかったひとなのではないかと思うのですが。
 中井さんの本は7冊くらいとりあげているみたいで、「兆候・記憶・外傷」も取り上げていました。http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20040405 ここでは、ハーマンの「心的外傷と回復」の問題からは逃げていました。
 わたくしは中井氏の「西欧精神医学背景史」(みすずライブラリー 1999年)などは本当に凄い本だと思います。これも西洋に対する屈折した心理の産物かもしれないのですが、われわれのおこなっている医学は西洋医学であるという現実の産物でもあります。
 わたくしのような臨床の人間からみると、中井氏の本は日々の臨床に役に立ちます。河合氏の本もそうです。それと驚くのは中井氏が精神科医でありながら、われわれ内科医よりもよほどよく患者さんの身体をみていることです。
 丸山ワクチンについては、中井氏はそれは効くという立場なのではないかと思います。効くとしても、ほんのわずか、がんという火事にコップ一杯の水を注ぐ程度の効果であるにしても。とにかくがんの患者さんにとってコップ一杯の水でもあるのは気持ちの支えになる、それはあってもいい、そういう考えかと思います。
 最近の若い真面目な医者の間で漢方薬への関心が高まっています。西洋医学の限界というものを肌で感じていて、人間をトータルにみていく指向がでてきています。たとえば、栄養状態というような全身の状態を大事にしようというような動きです。しかし、彼らはともすれば、オカルト的なものに惹かれてしまうようなのです。そういうひとへの防波堤として中井さんの本は役にたつのではないかと思っています。中井さんの本は最後まで具体的なことに終始していると思うからです。
 中井さんの本は臨床の場でとても役にたつのです。プラセボ効果というオカルトすれすれの事象が臨床では非常に大きな力となっていることを考えると、それを自覚して医療をおこなうということは必須のことなのですが、そのあたりの呼吸を伝えるものとして、中井氏の本以上のものはあまりないように思います。たとえば、「臨床些談」でも言われる漢方薬の官能試験、これを薬効とプラセボ効果に分離することは不可能だろうと思います。
 以上、やはりカリスマ信者の弁となってしまいましたでしょうか?