G・マーカス「脳はあり合わせの材料から生まれた」

  早川書房 2009年1月
 
 本書の原題は Kluge である。クルージと読むらしく、「エレガントにはほど遠く無様であるにもかかわらず、驚くほど効果的な問題解決法」というような意味らしい。
 進化は、その場その場の問題に、そのときにある出来合いのものを転用することで、とりあえず問題を乗りきることをしてきた、その積み重ねなのであるから、われわれの身体にはいたるところに不都合があることはよく知られている。養老孟司氏がよくいう「老人が正月に喉に餅をつまらせて死ぬ」もそうだろうし、高齢化社会の医療の大問題である誤嚥性肺炎もそうである。睡眠時無呼吸症候群もそう。本書の例であれば、二足歩行にともなう腰痛。
 そのように、体の構造には無様なところがたくさんあることは多くのひとが認める。しかし「こころ」についてはそうではないという。こころもまた出来合いの kluge であるというと多くのひとが反発するという。
 こころは kluge ではないという主張の人として、たとえばピンカーやデネットの名前があがっている。「一見、適応的でないものも実際にはうまくデザインされている」というのが彼らの常用の論法なのだそうである。「自然主義的欺瞞」すなわち「自然と優良のはき違え」をかれらはしていて、なんにでも適応価値を見いだすパングロス博士の同類であるとされる。これは最適者生存という言葉が、同義語反復的であることと深くかかわるのであろう。パングロス博士はヴォルテールの「カンディード」の登場人物である。わたくしが「カンディード」を読んでみる気になったのは、S・J・グールドの悪名高い?論文「サンマルコのスパンドレルとパングロス風のパラダイム」のタイトルによってである。
 ここにもあらわれているように著者はS・J・グールド派らしい(といっても、ピンカーの門弟らしいのだが)。本書を生み出すきっかけとなったのは、S・J・グールドの「歴史の遺物」という概念なのだそうである(第一章のタイトルも「歴史の遺物」)。ダーウィンもいうように、体毛や親知らずや尾てい骨などはほぼ不要である。それと同じものがこころにもあると仮定してなぜいけないのか? ということで、本書は、こころもまた kluge であると主張している。
 こころ=kluge 説に対する、われわれはベイジアン・モデルにしたがって行動しているという主張も紹介されている。統計学の話で、わたくしは数式がいたって苦手なので、ネットの解説などをみてもよく意味がわからなかったが、ベイズというひとに由来する確率的な信念にしたがってわれわれは行動をしているという主張のようである。そうであるなら、ひとは理性的な判断で行動している合理的存在であるということになる。本書はそれに反対する。
 人間の脳は「祖先型システム(反射型システム)」と「熟慮型システム」という二つの要素の混合からなる、というのが本書の主張の大きな柱となっている。「反射型システム」は情動と同一ではなく、また必ずしもそれが不合理ということでもない。また「熟慮型システム」は「合理的システム」と同一ではない、ということに著者は注意を喚起している。この「反射型システム」と「熟慮型システム」は、タレブが「まぐれ」(ダイヤモンド社 2008年)でいっていた「システム1」と「システム2」にそれぞれ相当するように思われる。
 生き物には遠い未来よりも現在を重要視するという事実(学問的には「双曲割引」とかいうらしい)事実がある。これはかなり寿命が短い場合や、この世がより予測不能である場合、つまり、われわれの祖先が生活していた状態においては有利だった。われわれの脳はその時代にあわせて作られている。だから現代生活の利便にはまだ慣れていない。老後のために十分な蓄えをもたず、クレジットで破産するまで買い物をしてしまうひとが少なからずいるのはそのためである。
 そういう進化に起因する「短資眼的な部分」と、選択肢のあいだの優劣を検討できるだけの賢明さをもってしまい「長期的展望」ももてるようになってもいることとのあいだの葛藤、つまり、「わかっちゃいるけどやめられれない」ということ、わかるだけの理性をもちながら、それでも理性がとめることをしてしまうということ、脳は互いに矛盾する複数のシステムのよせあつめであること、そういう目先の利益と長い目で見た利益のあいだの緊張関係が、現代の西洋文明の多くの側面を規定している、そう著者はいう。(ひとは、単なる遺伝子の複製のための存在ではなく、「幸福」という抽象的なものを求める生物となったのだろうか? 芸術を創作したり鑑賞する暇があれば、来る冬に備えて木の実を拾い集めたほうがましなのではないか?)
 一般に無文字社会においては、「シベリアのある町では熊はみな白い。あなたの隣人がその町で熊を見つけた。その熊は何色か」という質問にひとびとは「なんで私にわかる? そいつに訊け」とこたえるのだそうである。つまり抽象的な論理を理解できない。言語習得は自然で自動的な現象なのだが、抽象的な論理の獲得はそうではない。つまりそれは生得の能力ではない。
 こういう話をきいてすぐに思い出すのはマクリーンの「3つの脳」説である。「爬虫類型の脳」「下等哺乳類の脳」「後期哺乳類で発達し人類で頂点に達した脳」の3つがお互いに統一がとれないまま人間の中でばらばらで活動していることが人間の不幸の元兇であるというような説である。A・ケストラーの「機械の中の幽霊」(ぺりかん社 1969年)ではじめて知った説で、大分古い説なので、もうとっくに乗りこえられた説なのだとうと思っていたら、ルドーの「エモーショナル・ブレイン」(東京大学出版会 2003年)でも結構まじめに論じられていたから、そうでもないのかもしれない。
 本書は脳の解剖学的構造にこだわった本ではなく、人間の出力(つまり行動)についてだけ論じている。いいたいことは、一見われわれが理性的に判断して行動しているように思っていることでも、決してそうではないのだということである。
 最近、この方面の主張の本が多い。カーネマンとトヴァスキーという名前を知ったのは恥ずかしながらごく最近読んだ「まぐれ」によってなのだが、この二人が行動経済学という学問分野をつくりあげたらしい。経済学といっても現在の不況に対して財政出動すべきかというようなことを論じるのではなく、新古典派経済学のバックボーンとなっている合理的に行動すると仮定された「経済人」という規範的概念に対して、本当のところは、われわれはどう行動しているかをさぐるものらしい。
 タレブによれば、規範的科学と実証的科学の2つがある。人は合理的に行動すると仮定すると、その行動が数学的には最適という結果となるから、人間は合理的に行動すると仮定して研究するのが規範的科学である。ひとは合理的であるべきなのである。一方、本当のところ人間はどのようにしているのかを見るのが実証科学である。経済学、とくにミクロ経済学は圧倒的に規範的であるという。カーネマンらがはじめて実証科学としての経済学を作ったのだ、と。
 ドラッカーの処女作「「経済人」の終わり」(ダイヤモンド社 2007年。日本初訳は1963年 原著は1939年)は、The End of Economic man が元のタイトルで、「この「経済人」の概念はアダム・スミスとその学派により、「ホモ・エコノミカス」として初めて示された」「常に自らの経済的利益に従って行動するだけでなく、常にそのための方法を知っているという概念上の人間」ということになる。
 ドラッカーによれば、「自由と平等はヨーロッパの二つの基本概念」であり、それは「初め精神的な領域で求められ」「あの世ではあらゆる人間が平等」とされたが(宗教人)、その後、それは「知的領域」で実現されるべきものとなり(知性人)、自由な知性が「聖書」を理解するというルターの教義は「宗教人」から「知性人」への秩序の転換を示している。そのあと自由と平等は社会の領域で求められるようになり、「政治人」から「経済人」へと人間像は変換し、最終的に「自由と平等は経済的自由と経済的平等」を意味するようになったという。この「経済人」による思考の典型がマルクス主義である、と。
 ドラッカーは、マルクス主義は大量生産システムにおいては多くの中間管理者を必要とすることを理解していなかった点で敗北したという(1939年の時点でこういっていることに注意)。一握りのブルジョアとその他大多数のプロレタリアートという図式が成り立つのであれば、一握りのブルジョアを排除すればそれでプロレタリアートの天下がくる。しかし、実際には、多数の中間管理者(すなわち官僚)が必要なのであれば、一握りのブルジョアの排除は世の中を変えない。むしろソヴィエトでは、大量のプロレタリアートを搾取する中間管理職としての官僚が生まれつつあるではないかと(1939年当時に)指摘する。
 このドラッカーの処女作には、「タイムズ」にウインストン・チャーチルが書評を寄せている。きわめて要領よく要旨がまとめられている。「今日のわれわれにとって重要なことは、理念としてのブルジョア資本主義の正当性である。大量かつ安価な生産の手段としてのブルジョア資本主義は、少しも失敗していない。資本主義がしくじったのは、「経済人」を社会の理想としたことにおいてだった。/ 産業全盛の頃は、自由競争が自由と平等を与えるものとされた。ヨーロッパ文明において中核に位置づけられていたものが、この自由と平等だった。ところが今日、大衆は、自由競争体制を自由と平等の手段と見ることをやめた。ここに今日、われわれの社会の破綻の根源がある。/ マルクス主義が、別の階級なき社会を提示した。しかしそれもまた、現実には、それ自体の階級構造を生み出すことによって魅力を失った。こうして既存の社会秩序が正当性を失い、大衆には戦争と失業という双子の悪魔に抗する術がなくなった。」
 それがナチス・ドイツを生みだしたというのが、ドラッカーの主張である。
 「社会秩序としてのブルジョア資本主義に対する信頼は、ヨーロッパにおいてはある二つの要因が存在しなかったならば、さらに早く失われていたに違いない」とドラッカーはいう。「一つが中流階級の海外雄飛を可能にした19世紀の帝国主義」で、「もう一つがアメリカ合衆国の存在」だったという。真に平等で自由な国はヨーロッパでは実現しないとしても、アメリカには実現しつつあるのではないかと思われたのだ、と。アメリカの存在があったからこそ、第一次世界大戦後の敗戦国においてさえ、社会の崩壊が防げたと。アメリカは単に1920年代に巨額の借款を提供して経済的に支えただけではなく、精神的にもヨーロッパを支えたのだと。したがって1929年の大恐慌によるアメリカの崩壊が、ブルジョア資本主義を信頼するヨーロッパ人にとっては大きな打撃になった、と。
 このあたりの記述を読んでいると、アメリカ発の恐慌などといわれている今日の状況がダブってくる。《資本主義がしくじったのは、「経済人」を社会の理想としたことにおいてだった》というチャーチルの書評など、今日、そのまま同じことをいうひとがいそうである。ドラッカーによれば、大恐慌によってブルジョア資本主義への信頼が失われ、社会の硬直化と官僚化によってソヴィエトへの信頼も失われ、両体制の支柱であった「経済人」というその体制の基盤となる人間像が変換をせまられているにもかかわらず、かわるモデルはないのである。それがないまま、ドラッカーの本から、70年が過ぎてしまったのかもしれない。
 ドラッカーもいうように「経済人」モデルができたからこそ、経済学が成立することになった。物理学が2体問題からはじまるようなものである。したがって、それが現実の人間とは異なるという批判は的外れである。しかし、当初、経済学のための規範的概念であった「経済人」がいつの間にか現実の人間であるかのように思われてきたことに問題があるのであろう。現実の人間は経済学の教科書のような行動はしないぞということが批判として成立する。
 第2章の「記憶」は人間がコンピュータのような「郵便番号記憶」ではなく「文脈依存記憶」という奇妙な記憶法によっていることから生じる問題点が論じられる。ロスタフの記憶捏造の研究などもこの点から論じられる。「質問によって「証人は誘導」できる」のである。
 本を読む楽しみの最大のものは、「あっ! これはあの本に書いてあった何かと関係するのではないか?」とひらめくことで、だから読んだ本は手許においておかないと読書の楽しみは半減する。となると「あの本」を探すのだが、どこにあったっけと探す時間が大変で、探しても見つからなかったときのいらいらは相当なものである。どうしてもその時に確かめたい。本書によれば、わたしたちは「自分が所有しているとわかっていても、見つけられないものを探すのに」一日あたり平均して55分を使っているのだそうである。わたくしが本探しに費やす時間というのはどのくらいだろう? この本とあの本が関係ある! といってもどう関係があるのかを具体的な言葉でいえるわけではない。何か同じ問題をあつかっているように思えるのである。こういうのも「文脈依存記憶」なのであろう。本の内容ではなく、本の文脈を記憶している?
 記憶がそういうものであれば、われわれは自分が信じないものよりも信じたいものを容易にみとめる傾向をもち(「確証バイアス」)、自分が信じる考えよりも信じない考えのほうにすぐに目くじらを立ててチェックする傾向ももつ(「動機づけられた推論」)。われわれは公平無私でバイアスのかからない見方などすることはできないことになる。われわれはある仮説をもつことなしに物事をみることができないというのがポパーの「サーチライト理論」だった気がする。
 ちょっとびっくりしたのが、肺がんと煙草の関係を指摘したはじめての報告書がでたのが1964年のことだという記述である。まだ50年ちょっとしかたっていないのだと思った。その報告書がでると、非喫煙者はその見解をほぼ認めたが、喫煙者はあまり納得しなかったという。われわれが偏見なくものごとをみているのであれば、肺がん−煙草関係説は、喫煙者と非喫煙者で同じ割合で、賛成・反対がであるはずである。しかし、そうはならなかった。
 喫煙者のさまざまな反論。「たくさんの喫煙者が長生きしている」(著者・・これは報告書で示された統計を見ていない) 「体に有害なものはたくさんある」(著者・・論点をずらしている) 「暴飲暴食より喫煙のほうがましだ」(著者・・見当違い) 「心が不健康になるより喫煙のほうがましだ」(著者・・証拠がない)などなど。
 養老氏などがいう「肺がんの原因はタバコよりもずっと大きなものがあり、車の排気ガスはその有力候補である。それを隠すためにタバコが悪いという宣伝がされている」というのは事実かもしれない。しかし、そうだからといってタバコが肺がんの原因の一つであるということを否定することにはならない。
 「健康に一番悪いのは生きているということだ」というのが誰の言葉だったか忘れてしまったが、健康(あるいは長生き)が最優先すべき価値であるかはなんともいえない。医療の非常に困ったところは、病院にくるひとは、健康や(長生きを)最優先しているのだと決めてかかることである。だから、それを前提としていないホスピスは、病院の中で特異な場所とされてしまう。
 今タバコを喫うことでえられる快と将来それによって生じるであろう苦を冷静に計算することができないことは、本書でたびたび指摘されている。常に現在が優先される。それはわれわわれが狩猟採集時代に適応するように作られた生物なのであるから、というのは進化心理学がする説明であるが、われわれに少しでも余裕ができる可能性が出てきたのは農耕生活をはじめたあとからなのであり、それまでは一年後の自分などというものを思うことは無駄で、とにかく今日を生き延びるためにもてるすべてを使うことが人間の生活だった。しかし、いつのころからか人間には余裕ができ理性というものが備わるようになって、冷静な損得の計算ができるようになった。ということででてきたのが「経済人」という概念である。人間はそんなものじゃないのだ、と本書はいう。
 禁煙運動家というのが(例外はあるとは思うけれども)概して感じが悪いのは、なんでも計算で理解できるというような血も涙もない人間離れした存在のように見えるからで、貴方は何が楽しみで生きているのですか?と聞きたくもなる。生き甲斐は禁煙運動です、と答えるかもしれないが。
 煙草の話はおいておいて、著者は宗教の根拠を《ひとがもつ信じたいものを信じるという性行》にもとめる。しかし、ダイエットは明日からと決めて、今はチョコレートケーキにぱくつくことは生物学的に説明できるのかもしれないが、著者のような西洋人が宗教というのはどう考えても一神教の宗教であり、それを生物学で説明しようとするのは苦しい。
 一神教は決して普遍的なものではない。「ヨーロッパは、人類史上、画期的な − そしておそらくは例外的な − 現象であろう」と中井久夫氏はいう(「西欧精神医学背景史」(みすず書房 1999年)。例外的なものが世界を制してしまった、それが問題なのである。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」にこういう文章がある。「我々にとつて重要なのはギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつたことである。」「古代に属する人間にとつてキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかつたのであり、その狂気が十数世紀も続いたならばヨオロツパがヨオロツパであるには古代の理性が再び働いて均衡の回復を図らねばならなかつた。」
 この言葉にづっと躓いている。ヨーロッパが世界を制したののは、この狂気の部分によってである。もしも狂気の反対が正気であるとすれば、狂気が正気を制したのである。その狂気は現代までずっと続いていて、現在の経済状況もまたその狂気がもたらしたものなのかもしれない。
 わたくしが宗教が嫌いなのはなぜなのだろう? 偉そうなひとが嫌いだからなのだろうか? それとも、自分の考えを他人におしつけるひとが嫌いだからなのだろうか? そうかもしれないけれど、それなら、そういう感情はどこからきたのだろうか? ひとりにしてくれ、抛っておいてくれという気質からなのだろうか? 気質というのは相当程度遺伝に規定されるのだそうである。遺伝子がそうしたのだろうか? 抛っておいてくれなどといいながら、こういうものを書いていれば世話はないのだが。
 あの世とか霊魂といったものを信じないのはなせか? 超越的なものを信じないのはなぜか?、科学の側にとどまりたいと思うのはなぜか? それも気質なのかもしれないが、それとともに、宗教が(特に一神教というものが)、どう考えてもまともなものとは見えないからということがあると思う。正常であること、あるいは正気であることから遠いものと見えるのである。ひとりにしてくれ、というのは自分で考えることをさせてくれ、ということである。宗教は、すべてはわかっているから、あなたは考えなくてもいい、という。
 何もかもがわからなければ気がすまないというのがおかしいので、わからないことがあってもかまわないと思う。とはいっても、少しだけはわかっていることがある。それが科学かのかもしれない。ブラックホールのことはわかっても、一年後の景気については誰もわからない、その程度のものなのではあるが。
 われわれに理性が備わっているとしても、多くの場合にはそれは無力であり、なんなく反射型システムに翻弄されてしまう。しかし、そうだとしてもうろたえない、それが大事なのではないだろうか? ひとが愚かであることを認めることが肝要と思うから、神の似姿としてひとがつくられたなどとする傲慢が嫌いなのだと思う。
 西洋のひとは何か説明をはじめると、それですべてを説明しようとする。これまたキリスト教が生んだ精神なのだと思う。日本で社会生物学論争などというのが一向におきなかったのは、世界のことをなんでも説明しようと思っている生物学者がいないからなのだと思う。
 日本に生まれてよかったと思う。日本の生物学者は自分の学説が世界の森羅万象を説明しきらなくても、別に不安にもならず、落胆もしない。明治期に一方でスペンサーの説が大きな潮流となり、他方で万世一系天皇制もいわれた。それを矛盾と思わないのが日本のいいところである。だから日本人は駄目という説もまた強いのだが。
 ドーキンスの「神は妄想である」などを読んでいて感じるのは、何だか禁煙派みたいということである。清教徒的な感じがぷんぷんとする。家庭で親が子供に宗教教育をさせないように規制すべきであるなど言っているのは正気とは思えない(わたしがドーキンスよりもずっと親近感を感じるハンフリーもまた同じようなことをいっているのだが)。
 一方、S・J・グールドも「神と科学は共存できるか?」(日経BP社 2007年)で変なことをいう。科学と宗教は担当分野が違うのだから、お互い相手に口はださずにいれば、共存共栄できるというのである。なんだか「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」といっているような気もするのだが、こういう論法の一番困る点は、科学と神の2つで全体を形成しまえるような前提が透けていることである。もしも、科学に説明できないことがあったら、それは宗教の出番と自動的になってしまうようにみえる。科学に説明できないことがあったら、自分の頭で考えればいいので、わからなければわからないままにしておくというのが真っ当な態度ではないかと思うのだが。
 わたくしはスピリチュアルというような言葉がとにかく嫌いである。なぜなのだろう?
 

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

脳はあり合わせの材料から生まれた―それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり