池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(終)第5章〜「おわりに」

  PHP新書 2008年9月
  
 第5章「合理主義への反逆」
 この章は、正直いってよくわからなかったのだが、それは池田氏が「ハイエクは合理主義に反対した」といっているにもかかわらず、わたくしにはハイエクが合理主義者としか思えないからである。もちろん、それは合理主義というものをどう定義するか次第であろう。ヒュームやアダム・スミスなどのスコットランド啓蒙派をわたくしは合理主義の側の人間であると思っているのだが、池田氏によれば、それは懐疑主義ということになる。かれらが人間の「無知」から出発したからである。全知全能で未来を知る人間がいるならば、われわれには自由は必要ない。しかし、人々が神でない以上、合理的な社会意思決定をすることは不可能である。自由の意味は、無知な人々が最大の選択肢をもち、いろいろな可能性を試すことができることにある、と池田氏はいう。われわれが全知であって、未来を完全に予見できるとする立場の人間を池田氏は合理主義者とするらしい。しかし、それが一般的な用法であるのかは、よくわからない。
 『進化によって「客観的知識」に近づくというポパーの理論を、ハイエクは批判した。われわれの社会が最適だという保証もなければ、それに近づいているという保証もない。必要なのは、人々に間違える自由とそれを修正する自由を与えることによって、少しでもましな状態に保つことだけだ。それが自由な社会の最大の特長である』と池田氏はいう。
 最初のセンテンスは、《批判によって「客観的真理」に近づく》とした方がいいように思うが、それは自然科学の分野の話である。以降のセンテンスはポパーの論とそれほどは違わないように思う。というか、むしろポパーの論よりもよほど「合理主義」的であると思う。ポパーは「われわれが誇りにすべきは、われわれがひとつの理念をもっていることではなく、良かれ悪しかれ、多数の理念をもっているということ、われわれが一つの信仰、ひとつの宗教ではなく、良かれ悪しかれ、多数の信仰をもっているということです。われわれが十分にそれをなしえているということ、それが西側の卓越した力を示しています。西側がひとつの理念、ひとつの信仰、ひとつの宗教に一致したら、それは、西側の終焉であり、全体主義理念への降伏、無条件の隷従でしょう」といっている(「西側は何を信じているか」 「よりよき世界をもとめて」未来社 1995年 所収)。つまり、多元主義なのであって、客観的知識に収斂するなどということはまったく言っていないと思う。
 「合理主義的な伝統においては、自由は旧体制を破壊する革命(revolution)によって実現するものと考えられているのに対して、経験主義の伝統では漸進的な進化(evolution)によって自由を獲得すると想定されている」と池田氏はいう。合理主義が経験主義と対になるものとされている。フランス革命が合理主義なのであり、イギリスの政体の変遷が経験主義なのであろう。
 経験主義は多くの場合、保守主義に通じる。それではハイエク保守主義者なのかという疑問が生じる。しかし、ハイエクは自分は保守主義者ではないといい、「自由な成長と自発的な進化を好む党」の人間であると自称したのだそうである。確かにハイエクは漸進主義をつねによしとしたわけではないうように、その例がサッチャー革命?である。
 サッチャー首相はハイエクの「自由の条件」を自分の信念を支えるものとしたそうであるが、池田氏は、サッチャーのしたことは、ある意味では労働党よりも過激な「革命的」改革であったので「保守的」な政策とはいえないといっている。
 確かに、保守主義とは変わらないこと、変わるとしてもなるべくゆっくり変わること、激変を避けることを根本的な信条としているので、サッチャー保守主義者とはいえないだろうと思う。あきらからにヒュームは上記の意味での保守主義者であるが、ヒュームに連なるものとしてのハイエクは、必ずしもそれは継承していないのかもしれない。「実は理性とは大声で語ることの内にあるのではない。本当の理性は「よく聞く」ことの内にある。自己を無にし、空にして、他者の声を聞き、森羅万象の声を聞くこと―それこそが理性のはたらきの基本なのである。そのようにして虚心坦懐に事柄そのもの語る声を聞くことができるとき、正しい判断は、いわば事柄のほうからやって来る。(長谷川三千子「民主主義とは何なのか」文春新書 2001年)」 本当の保守主義とはそういうものなのであろう。本当の理性は「よく聞く」ことの内にある、などというのはポパーにも通じるように思うけれども、ポパーは他人の批判をきくことをいっても、森羅万象の声を聞くなどとはいわないだろうと思う。わたくしにしても、森羅万象の声をきくなどというのは、どこかオカルトめいているように思ってしまう。
 合理主義者とは、超越的な説明原理を導入しないもの、オカルトな原理を導入しないものであると思っている。だから、「自由とは必然の実現にほかならない」などというわけのわからないことを言っているヘーゲルは、合理主義者であるとは思えないのだが、池田氏の分類では、大陸合理主義の系譜の主流にいることになっている。
 語の定義の問題、見解の相違なのかもしれないが、わたくしにはむしろ、大言壮語をする者としないものというポパーの分類のほうがよほど生産的であるように思う。ヘーゲルとかマルクスは大言壮語をする側であり、ヒュームとかハイエクはしない側だと思う。サッチャー首相はハイエクを信じるといっていたにもかかわらず、大言壮語への誘惑を断てなかったひとのように思える。大言壮語できない人は革命的なこと、激変に通じるようなことは絶対にできないのである。
 
 第6章「自由主義の経済政策」
 ここは経済学について論じた部分であるので、わたくしには理解できない部分が多いので、関心がある部分のみをつまみ食いすることにする。
 (フリードマンは)ハイエクのように哲学を語ることはほとんどなかったし、おそらく興味もなかっただろう。彼の思想的バックボーンは、ごく単純なアメリカ的プラグマティズムであり、合理的な個人と自由な社会への信念だった」と池田氏はいっている。
 フリードマンらのシカゴ学派アダム・スミスやヒュームのスコットランド啓蒙の伝統に連なるということがよく言われるが、それがわたくしにはどうも納得できなかった。フリードマンの言っていることに、スミスやヒュームのような香気がみじんも感じられないように思えるからである。慎みといったものがないように見えるのである。フリードマンも大言壮語の側の人なのだと思う。
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」での解説によれば、フリードマンケインズへの攻撃や「フィリップス曲線」への批判は、思想的バックボーンから導出されたものではなく、自身の経済学的仮説が現実に合致しているという信念からきているのだとされている。たまたま、その仮説が結果的に、規制撤廃、経済的自由、「小さな政府」に連なるので、ヒュームやスミスの説とフリードマンのものと重なったのだというのである。
 フリードマンにとって、なによりも関心があるのは経済学の分野の理論なのであり、当然、「経済人」としての人間を分析の基礎においている。「経済人」はスミスに由来するものであるとしても、スミスの本を読んでいると、そこには「経済人」をこえた深くて広い人間像が浮かんでくる。一方、フリードマンのものでは、平板な、ただ経済のみに関心をもつ、人間とも思えない像が、ただぼんやりと浮かんでくるだけである。
 哲学がないというのは、確かにそうなのだろうと思う。ハイエクフリードマンのことを論理実証主義の方法であると批判しているらしい。理性でなんでもわかるとしているひとということなのであろう。
 経済学界への影響はフリードマンの方が大きく、哲学的な射程として点ではハイエクの方が広い、と池田氏はいう。よくわかる話である。経済学プロパーの話題にはあまり興味がないわたくしには、ハイエクの方がずっとなじめるわけである。
 サッチャーレーガンの小さな政府という政策は、ハイエクよりもずっとフリードマンに依拠してるのではないだろうか? フリードマン保守主義など薬にしたくもない人間であると思うので、規制撤廃などもラディカルにすればするほどいいということになるのだろうと思う。フリードマンフランス革命の側の人間なのである。
 池田氏は、サッチャーレーガンが闘った相手は福祉国家への志向であったとするが、日本では、それが「官僚社会主義」との闘いとなったという。イギリスが労組と闘ったのに対して、日本の官僚機構との闘いが小泉改革といわれるものとなったという。
 わたくしの所属する医療の世界においてはサッチャーのとった医療政策は批難の的となっている。そのあまりにも無謀な政策のため、サッチャー時代にイギリスの医療体制は崩壊したことになっている。イギリスの轍を踏むな、が日本の医療関係者の共通の標語になっている。
 小泉改革も福祉抑制、医療費抑制といってとても評判が悪い。日本の現在の医療崩壊といわれる事態も小泉改革がもららした大きな負の遺産ということになっている。池田氏によれば、小泉政権下で竹中氏がおこなったことは、現在の経済学者のコンセンサスといってもよいごく常識的なものなのだそうで、それはハイエクがひいた路線の上にあるのだそうである。
 経済学からいえば小さな政府が当然追及されるべき今後の方向ということになるらしい。医療の世界で働くひとは、よく言えば独立独歩、悪くいえば人交わりが不得手で社会性に乏しい、他人からの干渉を嫌うひとが多いのではないかと思う。そういうひとは個人的な心情としては、小さな政府志向であろう。しかし、医療の世界も福祉の分野の一端なのであり、福祉は大きな政府を志向する。
 さらにもう一つ、医療の世界にはパターナリズムが宿痾のようについてまわる。偉そうな顔、大きな顔をしたくなるのである。これまた、大きな世界に通じるところがあると思う。基本的には小さな政府がいいが、ある部門については大きな政府がいいなどという虫のいい主張がありうるのだろうか?
 大きな政府というのは、基本的に、《何をどうやればうまくいくかを知っている賢人》の想定を背後に隠していると思う。人間の「無知」の前提に反するものである。ハイエクの立場からすれば、抑制すべきものとなるはずである。
 それでいつもわからないのが、経済にはたす中央銀行、とくにそのトップの役割である。グリーンスパンはあたかも《何をどうやればうまくいくかを知っている賢人》そのもののようであった。そのステッキのひと振りで、世界は明るくも暗くもなるというような言われ方であった。しかしグリーンスパンもわれわれと同じ「無知のひと」なのであり、どうすればいいのか本当にはわからないが、試行錯誤でとにかくなにかをやっていただけなのだろうか? その神格化は名医をもとめる患者の気持ちと同様の心情が生んだものなのだろうか?
 とても困ったことに医療の世界においては、名医という神話はなにがしかの治療効果をもつ。経済の世界でもグルースパン神話は、それ自体が有効に世界の沈静化に役立ったのだろうか? だが、そうであるなら経済学ははたして学として成立するのだろうか? むしろ、心理学に近づいてしまうのではないだろうか?
 
 第7章「自生的秩序の進化」
 われわれの自由を妨害している最大の要因は、煩雑な規制や政府の裁量的な介入なので、規制を撤廃してルールを明確化する制度設計が、自由な社会を実現するために重要であると池田氏はいう。これは明らかにシカゴ学派的な主張である。
 ハイエクは自生的秩序形成の根拠として集団淘汰をおいたのだそうである。この集団淘汰という言葉がよくわからないのだが、種淘汰のことなのだろうか? 現在では種淘汰の概念は否定され、ハミルトン−ドーキンスの「血縁淘汰」「利己的な遺伝子」論が正統とされているのだと、わたくしは理解している。ここでハミルトンの理論では説明できない現象として提出されている細菌感染の実験は、個体にかかる淘汰圧として理解できる話なのであり、ドーキンスの論の守備範囲であるように思える。種と種の争いに淘汰がかかり、ある種が生き残り、別の種は滅びるという考えは否定されているのだと思う。
 新古典派経済学では、「合理的」とは「利己的」の同義語であるから、ドーキンスの「利己的遺伝子」論とのかかわりが問題になる。その点にかんし、利己的に行動する経済人(ホモ・エコノミクス)は、互いの足を引っ張り合って集団が自滅するので、合理的でない、と池田氏は書く。これは、マンデヴィルの「蜂の寓話」とかスミスの「見えざる手」などにも反する議論でどう考えてもおかしい。社会の構成員それぞれは社会のことなど考えず、自分の利益のみを追求していればいい。そうすると、あら不思議、社会はそれでも(それのほうが)うまくいく、というのが経済学のいろはなのではないだろうか?
 人類は歴史の圧倒的大部分の時間を飢餓線上で暮してきたので、利己的な行動を「不道徳」と感じるメカニズムが、遺伝的に埋め込まれていると想定される、と氏はいう。これがハイエクのいう「部族社会」の基礎にあるのだ、と。「格差社会」を指弾するパターナリズムが多くのひとに支持されるのも、その狩猟採集時代からの部族社会的なメンタリティーをいまでも持っているという遺伝的背景による、とされる。
 しかし、経済学はたかだかこの千年程度を問題とする。経済学は余剰や蓄積が生じないところでは必要にならない。それは農業がはじまり、その結果として、都市が生まれ、文明がうまれることになった時点で、はじめて必要とされるようになる。一方、われわれの遺伝には、農業以前の狩猟採集時代にうまく生き延びるために戦術が組み込まれている。
 集団同士の争いが熾烈な状況では、《利他的》な心情を遺伝的にうめこまれたものに生き残るチャンスが多い、とだけここには書かれている。ヒトは社会的動物なのであり、集団を形成しなければ生きられない(経済学もまた、集団がないところでは必要とされない)が、現代の集団は部族集団や血縁集団ではない。集団同士の争いといっても、過去とはまったくことなったものとなっている。
 さらに、争いが穏やかになれば、《利己的》な個体が活躍できる余地が増えるわけである。しかし定義上、《利己的》な個体にも《利他的》な心情が埋め込まれているはずである。とすると、われわれはどの程度遺伝に支配され、どの程度そのくびきを脱しているかという、現代の進化心理学の最先端の話題、例の《氏か育ち》か論?、あるいは《こころは「空白の石版」か?》論にいきあたってしまう。そして、どちらかといえば、「氏」派は右に、「育ち」派は左に属する傾向があるので、それぞれの派が「部族社会」を形成して相争う。議論は錯綜するばかりである。(その争いに部族的感情が登場すること自体が、「氏」派を支持しているのだろうか?)
 われわれが狩猟採集時代の感情を今もひきづっているとすると、《利己的》な心情の持ち主は、集団から疎外されるはずである。原著にあたっていないから間違っているかもしれないが、ハイエクは「部族社会」的なものに否定的ではないかと思う。それは明らかに自由や個人と背馳する何かである。しかしハイエクは「自生的秩序」を肯定するわけである。その関係がどうなっているのかがよくわからなかった。このあたりはおそらくハイエクの思想の変遷と関係していて、前期には無条件で肯定されていた「自生的秩序」が、後記では「部族的感情」によって容易に破壊されかねない弱いものにみえてきて、さまざまなその防衛のための方策を考察する方向にいったことと関連してるのであろうが、本書を読んでいて、理解しづらい部分であった。
 
 第8章「自由な社会のルール」 第9章「21世紀のハイエク」 「おわりに」
 「平等な分配」や「格差是正」を求める社会主義的な要求は「部族社会の感情」であるとハイエクはした。それらは遺伝的な基礎があるのだから、利他的な行動を「合理的行動」として肯定し、財産権をその中核におく資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれないと池田氏はいう。そして唐突に、「情報を共有するインターネットの原則が資本主義にまさるのは、感情的に自然だという点だろう」といいだす。ここでなんでインターネットがでてくるのかが理解できない。しかし次章「21世紀のハイエク」はインターネットの話題なのである。インターネットは自律分散の思想によるというのである。
 そして「おわりに」まで読んでくると、池田氏ハイエクをとりあげた理由は、インターネットが自生的な秩序であり、自律分散の最適例であるということを示したかったからであるように思えてくる。自由とか合理主義という原理的な話題を論じていたのに、最後がインターネットというきわめて具体的な問題に帰着すると何だか拍子ぬけである。それを言いたいのであれば、最初にインターネットが従来のさまざまな組織形態といかに異なるものであるかを示し、そういう形態を説明できるものとして、ハイエクの思想があることをいい、そのあと、ハイエクの思想全般を紹介して、インターネットというものが見方によれば、いかに深い思想的意味合いを背後に秘めているかを示すという構成のほうがいいのではないだろうか?、と思った。場合によってはインターネットとあまりかかわらない部分のハイエクは割愛し、関係する部分のみに話をしぼったほうが、理解しやすい本になったようにも思う。
 本書では、ハイエクの思想の変遷をたどる構成になっているので、最初のほうでのハイエクの主張と後のほうではかなりの違いがでてきている。それで場合によっては相互に矛盾しているように思える主張が提示されたあとに、インターネットに話が収斂してくるために、余計に読者には方向がみえにくくなるように思う。
 正直にいうと、インターネットとハイエクの思想のかかわりという池田氏の主張はそれほど説得的であるようには思えなかった。
 そして、思想的な射程ということからいえば、ハイエクよりもポパーのほうが遠くまで届いているのではないかとも思った。ポパーの方がより原理的なのである。この原理的ということが、原理的→理性的→合理的という方向で池田氏の批判の対象になっていくのであるが、前にも書いたように、わたくしはハイエクもまた合理主義者の一人であると思っているので、池田氏ハイエク理解には、いまひとつ理解できないところが残った。
 ハイエクについては「感覚秩序」は読んでみたいと思う。そう思った点、またポパーについて考え直す機会を得た点、本書を読んだことは有意義であった。
 ハイエク一般を紹介する本、ハイエクから見たインターネットという本の2冊が必要だったのではないかと思う。あるいは「第一部 ハイエクの思想」「第二部 ハイエクとインターネット」というような二部構成にしたほうがよかったのかもしれない。池田氏にはいいたいことがたくさんあって新書というスペースの中では充分には展開できなかった部分が残ったのではないかと思う。しかし、われわれとしては、ハイエクの原著にあたって、それぞれが考えればいいのである。そのための種はたくさん播かれていると思う。
  

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)