池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(4)第4章「自律分散の思想」

  PHP新書 2008年9月
  
 本章は、経済学固有の領域について議論をしている部分が多いので、近代経済学をまったく勉強していないわたくしには、よく理解できない部分が多く、また内容を誤解したところも多いと思う。
 池田氏の本の記述だけではわからない部分が多かったので、ここに紹介されていたハイエクの論文、「経済学と知識」と「社会における知識の利用」も読んでみた。とても理解できたとは思えないが、クルーグマンのいうギリシャ文字式の論文ではなかったので(数式もグラフも、ただの一つもでてこない)、何とか読み通すことはできた。いずれも短い論文である。
 「経済学と知識」で議論されるのは、新古典派的な「均衡」の問題である。これは価格と需要供給の関係を論じる理論であるらしい。この問題を数学的にとくためには、生産者も消費者も関係するすべてのことについての完全な情報を持っていることが必要とされるらしい。しかし、実際にわれわれがすべての情報を手にすることはありえないではないか?、という方向からハイエク新古典派経済学を批判していく。
 そんなことはあらためて指摘するまでもない当たり前のことではないかという気がするが、1937年当時は画期的な指摘であったらしい。そこでハイエクは「知識の分業」という考えかたを提示している。スミス的な分業の世界では、分業を担当するそれぞれは、自分のするべきことのみを知っていればよくて、全体について知る必要はないのと同じで、社会を構成する各人がそれぞれ全体については断片的な知識しかもっていないにもかかわらず、社会がそれなりに機能していっているのはなぜか?、という問題である。
 池田氏は、ここに客観的知識と個人的知識という言葉を持ち出してくる。前章でポパーの「客観的知識」とか、M・ポラーニーの「個人的知識」が論じられた関係なのだろうが、そういう大袈裟な言葉を持ち出してくる必要はないと思う。ここで「客観的知識」といわれているものは、価格とかいった数字になるもの、デジタル化できるものであり、一方、「個人的知識」といわれているものは、各人の嗜好とか長年の経験といった数字化できないものである。ただそれだけのことである。ポパーも、M・ポラーニ―も特に関係はないと思う。
 ハイエク新古典派経済学批判はもっともであるが、経済学はユークリッド幾何学のようなもので、いくつかの公理を設定したときに、そこからどのくらいのことが論理的・数学的に導出できるかということを学問として論じているのではないかと思う。「完全競争」というのも、その公理の一つなのだから、公理が正しいかどうかということは問うても意味がないようにも思う。ユークリッド幾何学において、平行線定理を変えるだけで、非ユークリッド幾何学がでてくるように、「不完全競争」を仮定すれば、また別の経済学がでてくるだけなのではないだろうか?
 現実をすべてとりこんだ経済理論などというのはできるはずがない。どこかで抽象化が必要になる。抽象化すれば当然現実から離れる。問題は経済学者がいつのまか自分が現実とは異なる抽象空間を議論しているということを忘れて、自分の理論が現実とあわないと、現実が悪いなどと言い出しかねないところにある。
 行動主義心理学も同じで、刺激‐反応系だけで人間の心理を理解するのは無理に決まっている。しかし、観察できないものはあきらめて観察できるものだけに議論を限るというのは、学問の方法としてはありえるものである。だが、人間の心理のほとんどは観察不可能なのであるとすると(そして人間以外の動物の心理というのが何かというのが大いに問題であるとすると)、行動主義心理学の成果が実際の人間心理とはほとんど関係をもたないということだけが、問題になるのだと思う。
 つねに自分の利潤を最大化することだけを考えている人間などというのが、実際にいるわけはない。しかしある仮定をおかないと学問はスタートできない。人文科学の中では、まだしも経済学と心理学は学問になっている部分がある。それにくらべて、文学などは各人の言説という以上のものはほとんどないのではないだろうか?
 次の論文「社会における知識の利用」は、市場が効率的な資源配分をもたらすという新古典派経済学は、ひとつの前提、すなわち「すべての人々が無限の将来にわたる完全な情報をもっている」という前提に依拠していることを指摘する。しかし、実際にはそんなことがあるわけはないのに、それでも市場は機能している。
 池田氏は数字にできる客観的な知識ならばすべての情報をえることも不可能ではないが、時々刻々の変化をすべて数字として得ることはできないとし、経験とかチームワークといった暗黙知も数値化できないという。しかし、数字化できる部分だけでも、その全部の情報を得ることなど不可能に決まっているのだから、池田氏の議論は「客観的知識」と「個人的知識」という氏の設定した土俵に読者を導くための、少し強引な議論になっていると思う。第一、ハイエクは「客観的知識」とか「個人的知識」などということは、いっていない。
 原著で例としてだされている錫の話が、本書では銅の話として紹介されているが、なんらかの理由で錫の値段が上がった時に、別に錫の値段がなぜ上がったのかの知識がなくても、今まで錫を使っていた現場では、錫の利用の節約を図るととか、今まで錫を用いていた仕事にほかの金属を使えないかを探るなどをする結果、市場には新たな均衡がもたらされる。これは市場が効率的な資源配分をもたらしている(これは錫の場合に実現されている)だけではなく、知識の分業をも調整している例にもなっている。
 すべての知識を所有する有能な独裁者が強権的に権力を行使しなくても、価格メカ二ズムは、部分的な知識しかもたない多くのひとの知識を意図せずに統合し有効に活用させるのである。
 次に独占や寡占の体制が必ずしも悪いとはいえないということがいわれるが、これはあまりに提示されている情報が少なく、正否を判断できない。
 また、ケインズが「市場において私的利害と社会的利害がつねに一致する保証はない」としていることが紹介される。これは一般論としては正しいが、市場も失敗するが、政府も失敗するとし、そのどちらが有害かは先験的にはわからないという。市場の失敗がたかだか不景気とインフレをもたらすだけなのに対して、社会主義全体主義のもたらした犠牲はそれとは比較にならないほど大きいとして、池田氏は市場を擁護する。しかし市場の対立物として、ナチスの体制やソ連の大粛清や中国の大躍進政策を持ち出すのはフェアではないと思う。ケインズナチスやソヴィエト、共産中国を支持したわけはない。
 ここで計画主義という言葉がでてくる。社会主義全体主義に共通する「社会を特定の目的のために計画的に動かす」という思想をさす言葉である。ハイエクが否定しようとしたのは「計画」とか「制度設計」ではなく、《社会を「目的合理的」に計画しようとする思想》なのだと、池田氏はする。ハイエクはその源流をプラトンの国家論に求め、またデカルト以来の合理主義に求めたという。ほとんどポパーの論そのものという気がする。計画主義の根底にあるのは、ニュートン力学の応用で月にロケットをとばせたのと同じように、人間の社会も操作によりある目的の方向に誘導できるはずであるという思想なのだという。
 ハイエクは、ラプラスの魔のようなすべての粒子の位置と運動を知るような存在がもしも存在するならば、計画主義も可能になるとしているように思えるが、しかしそれは現在の科学では(この場合には新古典派経済学と同じと岡田氏はいう)不可能なのだとして、市場に軍配を上げる。だが市場が機能するためには財産権や習慣法などのルールの体系が必要なので、すべての市場がそのように機能するわけではなくて、世界中の市場のうちで、知識の分業が機能しているところは少ないともしている。
 その次が大変面白かった部分で、1952年に書かれた「感覚秩序」の紹介である。ハイエクが書いた心理学の本で、ハイエクニューロンの結合パターンが一定の感覚に対応していると言っているという。これは何ら実験の裏づけもない単なる思弁の産物ということだが、エーデルマンの「ニューラル・ダーウィニズム」仮説といった最新の脳理論にも通じるものであると岡田氏はいう。事実、エーデルマンはハイエクの「感覚秩序」を自分の先駆であるとしているのだそうである。
 それで、本棚からエーデルマンの「脳は空より広いか」(草思社 2006年)を引っぱり出してきた。驚いたことにたくさん線が引いてあって、さらに驚いたことに去年の4月に感想も書いていた。みんな忘れていた。ぼけが進んでいるらしい。困ったものである。覚えていたのは、恥ずかしながら「脳は空よりも広い」というエミリ・ディキンスンの詩だけだった。忘れてしまうからこそ備忘録が必要なのだが、やはり書いておくものである。こうして何回か論じるうちに、エーデルマンの説ではないが、シナプスの配線が強化されていくであろうことを、期待したい。少し安心したことには、「脳は空より広いか」は特に「ニューラル・ダーウィニズム」についてだけ述べた本ではなく、進化論的観点から「こころ」の問題を論じようとしたものであった。
 ハイエクの思想の一番根底にあるのも「進化論的思考」なのではないだろうか? 計画者がいなくても各個人がそれぞれ自分のために活動している結果として生じてくる自生的な秩序というのは、創造神という計画者・設計者を否定し、生き物それぞれが生き残りを賭ける戦略の結果として、より複雑な生物が生じてくるという、進化論の教義そのものであるように思える。
 J・モノーは「偶然と必然」(みすず書房 1972年)の冒頭で、自然のものと人工のものの区別という問題を提出し、意図の存在をその鍵としている。それは合目的性につながる。生物は合目的にできている。
 ハイエクは「価格メカニズムは、人間がそれを理解することをせず、たまたま行き当たって発見し、その後で利用することを学んだ組織の一つにすぎない」といっている。今のわれわれから見れば、価格メカニズムはある目的のために意図的につくられたとしか思えない。だからそれがどのように機能しているか、さまざまな観点から論じることができる。われわれが臓器の機能のついて様々に論じることができるのと同じである。肺が呼吸のためにある、とすると、それは誰が設計したのだろうか?、という議論にすぐにつながる。しかし、それは誰の計画によるのでもなく、ただ偶然に生じる変異とそれにかかる淘汰によってだけ生じたのだなどという話はとても信じられる話ではない。しかし、そのとても信じられれない話をさまざまな証拠が支持している。量子力学と同じである。
 もしもわれわれが、ごく限られた情報しかもたない人間の集団を効率的に運用していく方法をまったく頭脳だけで考えたときに、価格メカニズムと市場経済体制などというのを考えだすだろうか?
 「価格メカニズム」と「市場経済」はワンセットであるとおもわれる。市場経済も意図せざる偶然の産物であったのだろうが、一度できてしまうと、今度はそれがわれわれが持つ最高の淘汰のための装置となってくる。あるものが有用であるかどうかは、市場に投げ入れてみればわかる。市場で生き残れなかったとすれば、理論的にいかに優れているようにみえても、どこか欠点があったのである。
 計画主義というのは、このテスト装置をもたなかった。《社会を「目的合理的」に計画しようとする思想》は淘汰などというまだるっこしい判定をまたなくても、どうすればいいのかは自分が知っているという前提から出発する。当たり前であるが「市場」の淘汰機能がベストのものを残しているなどということはありえない。市場に参加しているものが、そんなものは必要ないと思ったものが、後年、絶対に必要なものと認識されるようになるなどということはいくらでもあるだろう。
 そして歴史というのが、はやり淘汰の結果を示しているのだろうかということが問題になる。ナチズムもマルクス主義も歴史から消え去った。そのことをもって、それが間違っていたことが証明されたとしていいのだろうか? ナチズムがあれほど多くのひとを熱狂させたということは、そこに否定できない強い魅力があったということである。マルクス主義もあれだけ多くの人を熱中させたし、多くの殉教者を生んだ。今となってはなぜそのようなことがおきたのか、われわれにはもはや十分には理解できないのだが。
 わたくしがこのハイエクについての本を読んでいて、想起したのはたとえば、ドラッカーの「経済人の終わり」(ダイヤモンド社 2007年)である。この1939年に書かれたドラッカーの処女作は、明確に反ナチズムの旗印をかかげた政治の書である。
 ドラッカーはここで、ナチズムが生まれた原因として、マルクス社会主義に対する信条の崩壊をあげる。マルクス主義の魅力は「自由と平等のない資本主義に打ち勝ち、階級のない社会を実現できる」とする点にあった。しかしマルクス社会主義が、階級のない社会を実現できず、自由のない硬直的な階級をもたらさざるをえないことがわかった点で、教義としての魅力を失ったという。
 それは《少数の搾取者対膨大な労働者》というマルクス主義の図式が、実際に生じた膨大な中間層をまったく想定しなかったことに原因があったという。近代大量生産においては、帳簿、技術、製図、購買などの専門家からなる中間階層が最も重要で不可欠な存在となる。企業家を一掃しても労働者だけの世界になるわけではなく、直接生産をするひとの上に実にさまざな中間層がいるので、階級のない世界はできてこない。
 マルクス主義革命がおきたのが、資本主義以前、産業化以前の封建主義諸国であった理由は、そこが本当に《一握りの企業家と大多数の労働者》という図式をほぼみたす社会であったからだという。そして革命後、社会が複雑化し生産規模が拡大するにつれ、多くの中間階層が必須のものになり、その中間層が新たな支配階級になっていった。新しい特権官僚が生まれた。生産の拡大にともなう必然がマルクス社会主義の実現を不可能にした。
 マルクス主義のすごいところは、資本主義社会における大衆の窮乏化と不平等化の進行が、そのまま階級のない社会への道程であるという壮大な見方を提示したことである。しかし、それへの信仰が崩壊した。
 マルクス社会主義が魅力を失ったとすれば、ブルジョア資本主義のほうはどうか? ブルジョア資本主義は、より多くの製品を、より安い価格で、しかもより短い労働時間で供給するための経済体制として、失敗したどころか、あらゆる人の予想をこえて、それは成功した、そうドラッカーはいう。
 しかし、経済の成長と拡大は、社会的な目的を達成させるための手段としてしか意味がない。ブルジョア資本主義は、経済的な進歩が個人の自由と平等を促進するという信念に基づいている。マルクス社会主義とは正反対に、それは私的利潤を社会行動の規範とすることにより実現してくる、と主張する。ブルジョア資本主義以前にはみられなかった主張である。それ以前には利潤追求を積極的に肯定する信条はどこにもみられなかった。
 しかし、経済発展は平等をもたらさなかった。それにもかかわらず、なんとかブルジョア資本主義への希望が維持されたのは、19世紀の帝国主義による海外雄飛とアメリカ合衆国の存在によるところがとても大きい。無限の可能性をもつ真に平等で自由な国としてのアメリカというイメージである。だが、1929年の大恐慌は、それを崩壊させた。
 ブルジョア資本主義とマルクス社会主義はともに、経済的自由を追及することが、人々に自由と平等をもたらすという信条によっていた。それが依拠する「経済人」(エコノミック・マン)の概念が崩れた。人間を既定するものは第一義的に「経済」の問題であるというこの概念は、アダム・スミスとその学派に由来する。それによって経済学が成立した。「経済人」概念が受け入れられれば、経済学の成立はほぼ必然である。
 人間を自由と平等の存在とみることがヨーロッパの本質である。ギリシャ、ローマからヨーロッパはそれを引き継いでいる。自由と平等ははじめは「あの世」で実現されるものであった。ついでそれはルターにより「知的領域」で実現されるものとなった。やがてそれは社会の中で「政治」により実現されるものとなり、ついには「経済」により実現されるものであるとされるようになった。
 しかし、その信仰が失われた。だが、われわれは「経済人」に代わる人間についての新しい概念をもっていない、そう1939年当時のドラッカーは書く。その絶望がナチズムを呼ぶのである、と。
 おそらく、ここでいわれる中間層の存在が、市場の存在を必須にする。
 社会が複雑になると、とりあえずの解を市場にきくしかない。しかし、社会が複雑になり過ぎると、市場の出す解が奇怪なものになるということもあるのかもしれない。
 いま、アメリカの経済におきていることを、わたくしはほとんど理解できていないけれども、現在の市場は「効率的な資源配分」とも「知識の分業の調整」とも関係ない、また生産とも消費とも需要と供給とも関係のない資本の自己増殖のゲームの場になっているようにも思う。オイルが足りなくなると、オイルの値が上がる。それでみながガソリンの消費をひかえるようになるとまた下がる、というのはまさしく、効率的な資源配分の例なのであろう。またガソリンの値段が上がると、代替エネルギーの需要が増えてトウモロコシの値段があがるというのも、効率的な資源配分かどうかもなんともいえないとしても、複雑な世界を市場が調整している例ではあるのだろう。
 しかし、オイルが不足するとそれを買いたいひとが競うから値があがるというのならわかるのだが、オイルの不足が儲けるチャンスであるとして、少しもオイルを必要としていないひとがそれを売ったり買ったりしていることによって、値が上がったり下がったりしているだけなのであれば、それはまさに純粋に「経済人」としての行動で、社会的な目的を達成させるための手段ではなくなっている。ハイエクが分析した当時、市場はハイエクがいうように機能していたのかもしれないが、浮き袋が進化して肺になるように、現在ではまた全然別のものになっているかもしれない。1939年のドラッカーの危惧が再燃しないという保証はないように思う。
 これが社会科学が自然科学と違うところで、1900年に提出され承認された物理理論が2000年には通用しなくなるなどということは原則はないはずである。本書でケインズは政治家であり、ハイエクは学者であるということがいわれるが、もともとある情勢にのみ適応する理論であると自覚していたのであれば、ケインズの理論が現代に通用しなくても問題はない。それを永劫の真理であるがごとく錯覚したひとがいれば、錯覚したほうが悪いのだと思う。ハイエクも市場の機能についてある真実を発見したと思ったかもしれない。だが、ひょっとするとそれはハイエクが生きた時代前後に一時的に通用するだけの説明だったのかもしれない。
 人知には限界があるので、ハイエクのいったことは、市場の機能についての一つの説明である。それが一時期だけを説明するものか、もっと長いスパンを説明できるものなのかは、淘汰に耐えるのかどうかであり、歴史が証明する。歴史が正しい答えを出すとはもちろん限らないのだが。
 ブルジョア資本主義は利子を肯定する、資本の自己増殖を肯定する、利潤追求を肯定する世界なのであるから、市場がまたマネー・ゲームの場となることも避けられない。ハイエクのころと現代とで、マネー・ゲームに投入される資金の規模というのはどう変わっているのだろうか?
 ポパーの「客観的知識」は「進化論的アプローチ」と副題されている。「客観的知識」と「進化論的アプローチ」はワン・セットなのである。人知に限界があり、われわれはごくわずかのことしか知り得ないとすれば、ある考えが正しいかどうかは誰も決めることはできなくて、ただそれが生き残るかどうかだけが問題となる。
 ポパーの「客観的知識」も、M・ポラーニ―の「個人的知識」も、ハイエクの「個人主義と経済秩序」も、ともに書物として出版されることによって、われわれにとっての客観的知識(ポパーのいう世界3)の対象となっている。それは批判に対して開かれたものとなっている。われわれが暗黙知によってある行動をとったとして、それが行動となってあらわれるのであれば、それまた「客観的知識」の一部となる。われわれが何かを感じ考えたとしても、それを一切表現しなければ、それはその人の死とともに消え去る(ポパーのいう世界2)。
 物質の世界(ポパーの世界1)においては何の問題も生じない。物理法則が貫徹するだけである。生命が生まれて、はじめて問題が生じる。その問題に対し、われわれはとりえあずの答えを出す。ある答えは、結果としてその生物の生き残りに資するかもしれない。あくまで結果としてであって、やってみるまでは結果はわからない。生命体は見る前に跳ばなければならない。
 ポパーがしばしば提示する図式、
 P1→TT→EE→P2
 は、科学についていわれたもので、ある問題(P1)があった場合、それにとりえあずの理論(TT)を提出する。それは批判され、誤りの排除(EE)の過程にさらされ、その結果新たな問題(P2)を生む、という過程を示している。
 しかし、これは生命体のしていることそのもので、何か問題があれば、とにかく何かをしなければいけない。それが正しかったかどうかは、結果としてしかわからない。運よく生き残ったとしても、生きている以上は、またすぐに次の問題に直面する。
 人知の限界は、ほぼワン・セットで、P1→TT→EE→P2、を要求する。
 有限な資源の配分と知識の分業(P1)のための装置としての市場(TT)が有用なものであり、問題解決体として、有用であることが明らかになったとしても(EE)、それが有用な装置であればあるほど投機のための装置としても有用であることになり、それについての新たな問題(P2)を生じさせてしまうのかもしれない。
 人知は有限であり、未来のことは誰にもわかならないのだから、ある時期に非常に有効であった市場という装置が、次の次期には有害なものになってしまうということもありえることである。いまわれわれが考えても、市場以上に効率的な装置があるようには思えない。しかし、それは理性で考えても思いつかないということである。しかし人知をこえて、自生的に、新たな市場にかわる装置ができてこないということはいえないわけである。
 進化論とのかかわりは、第5章「合理主義への反逆」と第7章「自生的秩序の進化」を論じるときにも、再度検討することになると思う。
 

個人主義と経済秩序 ハイエク全集 1-3 【新版】

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