池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(2)第2章「ハイエク対ケインズ」

  PHP新書 2008年9月
  
 この章は大変面白かった。一言でいえば、ケインズは政治家で、有名な(しかし誰も読んでいない)「雇用、利子、貨幣の一般理論」は政治パンフレットであり、ケインズはまず結論を決め、その結論にあうように「一般理論」を書いたのだといっている。わたくしは経済学の分野に疎いので、ここで池田氏が書いていることがどの程度一般的にいわれていることなのか、どの程度が池田氏の創見なのかを判断できないが、この部分を読んだだけでも、本書を読んだ価値があると思った。
 ここから直ちに導かれるのは、それでは万古不易の経済学というのはあるのだろうか? それともあらゆる経済学の論文というのは、それぞれの時局に対応した政治パンフレットなのだろうか?、という疑問である。本書によれば、ケインズは、アダム・スミスのみを万古不易の学問としての経済学の本を書いたひととしていて、それ以外の経済学者はみなその時々の状況にあわせてパンフレットを書き散らせばいいのだ、としたようである。たしかに紀元ゼロ年の経済学と紀元2000年の経済学に共通なものはありえないかもしれないが、ある時期のみに通じる学説などというのは科学になるであろうか? これは科学としての経済学について重大な疑問を生じさせるものである。
 ハイエクは1931年ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)に教授として招かれた。大恐慌中である。LSEはフェビアン協会の中心人物によって創立された経済学を専門とする大学で、社会民主主義の本拠地であった。フェビアン協会は、ロシアのような革命によってではなく、民主的な手続きによって社会主義を実現することをめざしていた。社会主義が資本主義よりもすぐれていることは、冷静に合理的に考えれば誰にでもわかることなのだから、それを啓蒙すれば、おのずから社会主義が多数派になると考えた。ロシアは後進国だから、革命も仕方がないが、イギリスのような文明国では民主主義的な手続きで社会主義が実現できるとした。しかし。コミンテルンからはそれは修正主義であるとされた。
 フェビアン協会ではマルクスの理論にかわるものとして新古典派経済学を選んだ。なぜなら、マルクスも依拠した労働価値説が現実の経済を説明できないことは明らかであり、経済学の主流は新古典派経済学に移っていたからである。
 大恐慌市場メカニズムへの信頼を失わせた。しかし、新古典派の経済学者は、あいかわらず《自由放任》をよしとし、政府の介入を悪としていた。そこへケインズは《自由放任の終焉》をかかげて乗りこんだ。市場の「無政府性」を政府がコントロールすることの必要を示したわけで、そこには明らかに社会主義の影響がみられる。しかし、ケインズ自身はマルクス主義を「非論理的で退屈な教義」であるといって馬鹿にしていた。
 ケインズは大蔵省の官僚であり、エリートであったので、エリートが社会を導くことは可能であると考えていた(おそらく、この点がプラトンの哲人国家を全体主義の起源とするポパーなどとは対立するところであるが、ケインズは俺ほどの秀才であれば「人知の限界」を超えると思っていたのであろう。ある時期の日本の大蔵官僚もそう思っていたかもしれない)。そして、自分の政策は古い経済理論とは異なる革命的な新理論であるということを示す権威づけのための政治的パンフレットとして「一般理論」を書いたと池田氏はいう。自分以前の古典派経済学は、経済が均衡している状態でしか成り立たない特殊な理論であった。自分の理論は不均衡の場合にもなりたつ「一般理論」であるというはったりをかけたのだ、と。しかし実際にはケインズの論は大恐慌という特殊な場合にしか通用しない《特殊理論》だったのだが、と池田氏はいう。
 実際には、新古典派の経済学者も無原則な《自由放任》をいっていたわけではないのだが、ケインズ新古典派がそういっているとして悪役・敵役をつくりあげることに成功した。ケインズはまず、現在の経済状態は政府の介入を必要としてるという結論をさきに出し、それにあわせてあとから理論を組み立てたのである。要するにケインズは政治家だった。(なお、乗数効果というのもケインズによるのかと思っていたが、本書ではリチャード・カーンというひとの理論であることになっている。)
 ここで著者は面白いことをいっている。大恐慌当時、政府が介入すれば景気が回復するということも、そんなことは無効でかえって財政赤字が増えるだけだということも、理論としてはどちらもありえる話だった。だからどちらが正しいかは、やってみなければわかならかった、というのである。物理学の理論であれば、その正否は原則としては実験で確認できる。経済学の場合、実験とは実際にやってみることなのである。ケインズ理論の場合、ニュー・ディール政策によってその正しさが示されたということになっているように思うが、そうではなくて第二次世界大戦の軍事特需が景気を回復させただけという説も根強いようである(なお、小室直樹氏は、ケインズ政策による景気回復の最良の例は、ナチス・ドイツによる高速道路建設などをふくむ大公共投資策であったというのだが、ナチスの例をあげるのは具合が悪いのか、小室氏のような変わったひと以外には、それをいうひとはあまりいないようである。氏によればヒトラーは、ケインズ理論など知ってもいなかったのに、シャハト博士を起用して大胆なケインズ的施策をおこなった(「日本人のための経済原論」東洋経済新報社 1998」))。
 1970年代からケインズを批判する新古典派が隆盛してきた。かれら合理的期待派は、政府の最善の行動はなにもしないことだと考える点でハイエクの主張にきわめて類似している。
 しかしハイエクは、個人は合理的に行動することも完全な情報ももつことがないとし、その不確実性を補完するものとして市場をとらえた。この点ではハイエクケインズと似ている。ケインズも「不確実性」を自分の理論のもっとも重要なテーマであるとしている。ただ、ケインズはその不確実性を政府の行動によって除去しようとした。一方、ハイエクはそれは(長期的には)市場によって調整されるとした。
 この問題については、オーストリア学派であるフランク・ナイトは計算可能なリスクと計算不可能な不確実性を区別し、前者は保険などでヘッジできるが、後者は企業家精神の本質にかかわるものとしたのだそうである。
 池田氏は、ケインズは政治家であり、ハイエクは学者であるとしているが、竹内靖雄氏はケインズは資本主義のマネー・ゲームをよく知っている実務家であり、象牙の塔にこもって「経済学についての学」をもっぱらにし、学会で認知されることのみを目標にしている経済学学者とは違う、といっている(「経済思想の巨人たち」新潮選書 1997年)。大恐慌に対して何も有効な提言をできない象牙の塔の学者たちに業をにやして、役に立つ本物の経済学の本を書いてみせたというのである。「古典派」の経済学者は貨幣を交換の手段とのみ、みなしていた。しかし、ケインズは実際に投資(投機?)もした人間として「投機的動機による貨幣需要」もよく知っていた。大恐慌の時代、資本主義は病気にかかっていたのだから、資本主義は根本的には(長い目でみれば)健全な制度なのだからなどといって、何もしないのが最善などといって平然としている学者たちを許せなかった。とにかく、病人をどうにかしようとしたのである(その反対には、資本主義は根源的に矛盾を孕んだ死にいたる病にかかった制度なのだから、対症療法で延命させるのなどは愚の骨頂であって、ただちにそれを別の制度にかえなければならないという側もいた)。
 小室直樹氏は前掲書で、「自由市場はベストである。これが大原則である。しかし市場がベストではないこともある」という。そのベストでないときに対応する理論がケインズの論なのだということであろう。
 本書での池田氏の主張と異なり、小室氏は80年代後半からケインズ派が復活してきているという。もっといえば、古典派とケインズ派の融合が進んできており、その違いは、畢竟、短期と長期の違いにすぎないとまでいっている。
 今、自民党の総裁選挙をやっていて、財政規律の維持か、財政出動かといった議論がおこなわれている。上にたどってきた論理によれば、現在の日本の経済が健全であるのか病気であるのかという判断によって、とるべき方策がかわってくることになるはずである。すでに1970年代からケインズ財政出動は無効であるということになっているという説もあるようであるが、いずれにしてもケインズ政策は短期にしかとれない策のようである。日本が老化という不治の病に冒されているのだとすれば、もはや打てる手はないのかもしれない。
 この章を読んでいて分からなかったのが、池田氏が、ケインズの政策提言がその当時においては有効であったのだとしているのかどうかである。大恐慌の時代においてハイエクは有効な政策提言ができなかったことがいわれている。ケインズは学問をしたのではなく、政治をしたのかもしれないが、それがともかくもいいことであったのかどうかである。ケインズ政策は短期には有効であったが、長期にはかえって多くの負債を残した、ということはあるのかもしれない。しかし、ケインズ政策は短期には有効、長期にはマイナスということもやってみてはじめてわかったことなのかもしれない。竹内靖雄氏は「ケインズほどの人物でも、先の事を見通すプロメテウスではありえなかったわけで、人間は凡人から天才まで、おしなべてエピメテウス、つまりことが起こったあとでわかる人にすぎないのである」といっている。それが「人知の限界」ということかもしれない。そうであるなら、明日のことは誰にもわからない。あることがうまくいくかどうかはやってみなければわからないという、なんとも平凡でもあり、こころ踊らない結論につながるしかなくなるように思うのだが。
 

経済思想の巨人たち (新潮選書)

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日本人のための経済原論

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