池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(3)第3章「社会主義との闘い」

  PHP新書 2008年9月
  
 前半は社会主義経済体制下では、市場が存在しないので、価格メカニズムを通して資源を適正配分することが困難であることがいわれる。
 知識人は世界どこでも左翼的であるが、それは彼らは合理的であるので、自然科学によって自然が操作可能になってように、社会科学によって社会を合理的に操作できると思いこんだからであると池田氏はいう。
 理論的には計画経済のもとでも、適正配分は可能であるはずである。しかし、そのためには経済全体の目標を定めなければならない。しかし、すべての知識と情報を単一のセンターに集めることは不可能であるという理由で、それは挫折した。結果的には、社会主義社会での実験の失敗が、市場経済の効率性、それが膨大な計算を自律分散的におこなっていることを明らかにした、と池田氏はいう。理論の成否はここでも実験により試されねばならなかったのである、と。
 社会が単純であれば、計画経済が市場経済にまさるということはないのだろうか? 1960年ごろまで、社会主義体制の方が資本主義体制よりも効率的にみえていた部分があるように思う。ソ連の計画経済を運営していたゴスプランの官僚が、「膨大な計画をどうやって実行しているのか」ときかれて「電話」と答えたということが笑い話として紹介されているが、電話で統括できる規模というのがあるのかもしれない。だが、社会が複雑化するにつれて、社会主義体制の非効率というのがどんどんと表にでてきたということではないだろうか?
 
 後半で、ハイエクポパーの類似性と異質性が議論される。ポパー反証可能性の論が簡単に紹介されたあと、その論理的弱点として海王星の例があげられる。もしもニュートンの説が正しいのであれば、海王星の軌道は説明できない。しかし、海王星という反証によっても、ニュートン力学は否定されなかったではないか、と。
 だが、海王星の発見は、もしも海王星のそとに惑星があると仮定すれば、説明できるものであった。事実、海王星の軌道から予想してさらにもう一つの惑星が存在する可能性のある場所を探索して、冥王星が発見された。わたくしの理解がまちがっていなければ、海王星の軌道が提示した問題は、もしも海王星の外にもう一つの惑星が存在しないならば、ニュートン力学は否定されるという形での問題提起であったはずである。
 ポパーがいう反証可能性とは、ある理論は、それがもし真であるならば、こういうことはおこらないはずである、あるいはこういうことがおこるはずであるということをワンセットで提示し、それを検証しうるか否かに自分の身分を委ねるというものではないだろうか? そういう点でいえば、この海王星の例は反証可能性の見事な例なのではないだろうか?
 ポパー反証可能性の論の一番大事なところは、科学の論というのが常に仮説にとどまるというところで、それは今まで反証されていないということであっても、決して真理であるということではないという点にある。論理実証主義は、科学の手続きはあることが真であると証明できるとし、真であると証明できるものだけが大事なのであって、真であると証明できないその他のものごとはすべてたわごとであるとした。つまり形而上学はすべて有意味な言明ではないとして否定されてしまった。
 それにに対して、ポパーは科学も形而上学も仮説であるという点では身分が同等であるとし、それにもかかわらず、科学の場合は批判に対して開かれているという点を指摘した。ポパーのいっていることは理想論であって、実際に科学者が現場でおこなっていることは、クーンが指摘したようにパラダイムの中での Normal(規範的? 通常的?)な行動であって、パラダイムを疑うことはしていないわけであるが、それでも通常の規範的な科学の範囲内においても、こういう事実がでてきたら自分の説はまずいことになるということは多くの科学者は自覚しているはずである。
 ポパーは主として自然科学の分野に関心をもっていたので、「開かれた世界とその敵」とか「歴史(法則)主義の貧困」などは明らかに専門外、守備範囲外のことに口を出している。著者が「ハイエクポパーの議論があまりにも素朴な「科学主義」であると批判するようになった。経済学が自然科学と違って、人間の主観に依存する学問であり、「経済学の過去100年の重要な進歩は、ことごとく主観主義の一貫した適応による進歩であった」とした」というのは、少し筋が違っているように思う。
 ポパーはあるべき社会体制ということには甚大な関心を抱いていたし、その結果として、計画経済体制を否定したのは事実であるとしても、それは学としてマルクス主義経済学が成立しないからではなく、賢人が社会を運営するというやりかたそのものを否定したからであり(この点でハイエクとまったく同じ立場にたつ)、経済学自体にはほとんど興味をもっていなかったし、経済学が何に依拠する学問であるかということについては、何もいっていないと思う。
 問題は、ここでハイエクがいっている主観主義というのがどういうことを指すのかである。池田氏は、ハイエクポパーを離れて、マイケル・ポラーニーの「暗黙知」や「個人的知識」の理論に傾いていったとする。わたくしはポラーニーのいう「個人的知識」という概念をほとんど理解できていないけれども、M・ポラーニーのいっていることの根本は科学もまた人間の営みであるということではないかと思う。科学とはきわめて人間臭いものだのだということではないかと思う。
 一方、ポパー帰納を否定するのであるから、さまざま枚挙された事実をみて科学者が理論を思いつくことを否定する(「バケツ理論」対「サーチライト理論」)。では科学者を理論に走らせるものは何か? それはわからないのである。
 しかし科学者は事実に対して受け身なのではなく、外界を積極的に探索する存在である。ここではポパーはベーコンを否定している。観察というのは積極的な行為であり、理論なしには観察できないというのである。われわれはある期待をもって外界に接する。その期待は肯定されるかもしれないし、裏切られるかもしれない。しかし、われわれはある期待をもってみないかぎり外界に何もみることができないのである。
 このポパーの説が、M・ポラーニーのものとどの程度異なっているのか、それはわたくしにはよくわからない。ポパーもM・ポラーニーも自然科学を深く愛するひとなのだと思う。自然科学とくに物理学は永遠の相のもとにあることのみに関心をしめす。経済学などというのはたかだか100年程度しかカバーできないことを論じるのである。物理学が遠い宇宙のかなたにブラック・ホールを予見し、ビッグ・バンというとんでない過去の時代を理論によって示すのに比べれば、随分とスケールの小さいつまらない話なのである。
 しかしM・ポラーニ―もいうように、宇宙の歴史という時間からみれば、人類の歴史など無視できる短さであるし、宇宙全体から見れば、地球などまったくとるに足りない存在である。だからわれわれは宇宙それ自体に興味をもっているのではなく、われわれの生きている地球との関係において、またわれわれ人類との関係において、それに関心をもつのである。一方、人文科学においても、ヒトの歴史の長さにもかかわらず、われわれが関心をもつのは、ほとんど文明の誕生以降だけなのである。狩猟採集時代のヒトに関心をもつのは、むしろ生物学のほうであろう(しかし、それも現在のヒトを説明するためにではあるが)。その点で(自然科学も人文科学も)科学は客観的ではない。
 M・ポラーニ―もいっているように科学上の発見は!「ユーレカ!」という法悦的喜びを科学者にもたらす。そこまででなくても、科学者のプライオリティーへの異常なこだわりをみただけでも、科学が人間的な営みであることは明らかである。
 栗本慎一郎氏は「ブダペスト物語」(晶文社 1982年)の中で「カール・ポッパーの客観的知識への依拠、およびルカーチの知識人的態度を快いを感じる人々にはマイクル(・ポランニー)は苦痛である。しかしポッパーの客観的知識人論には、最後の部分でマイクルと正反対となることをのぞけば、常識的知識理論(精神のバケツ理論)あたりで、まさにマイクルの深層の知の理論と合致する部分があることに気付きうる人がいるだろう」と言っている。同感である。
 身体的知識や暗黙知といったM・ポラーニ―がいったことは、その当時は科学的裏づけがなかったが、最近では「辺縁系」として脳の構造として同定されたと、池田氏はいう。本当だろうか? 通常、いわれている辺縁系の機能は、もっと原始的な感情であるとか、興奮といったものにかかわっているというものではないだろうか? 身体的知識とか暗黙知とかは、それよりもずっと高級な機能なのではないだろうか? わたくしにはむしろダマシオなどの最近の説のほうが、ずっとM・ポラーニ―のそれに近いように思える。
 そもそも、われわれの科学の出発点が、身体的知識や暗黙知であることはポパーも進んで認めるのではないだろうか?
 池田氏はさらに、M・ポラーニ―の科学思想は、クーンの「科学革命の構造」に影響をあたえたという。パラダイムを倒すのは、よりすぐれたパラダイムなのだ、という。M・ポラーニーのクーンへの影響については、わたくしは科学哲学の歴史の知識をまったく欠くので判断できないが、M・ポラーニ―とクーンは同じものをみているのであろうか? クーンは前のパラダイムと続くパラダイムは共約が不可能なのだということをいっているのであって、どちらかがより優れているということはいっていないのではないだろうか? というよりも、後の方が優れているとすることが西欧の進歩史観のあらわれなのであって、ただ二つのパラダイムは異なっているということをいったのではないだろうか?
 「ハイエクに捧げる」という献辞をもつポパーの「推測と反駁」(法政大学出版局 1980年)におさめられた「マッハとアインシュタインの先駆者バークリー」において、バークリーのニュートン批判が紹介されている(ただし、例によって、大幅にポパーの言葉に翻訳されてではあるが)。確かにポパーもいうように、驚くべき現代性である。そして、ポパーのいうように、マッハの説と驚くべき類似を示している。量子力学における確率振幅という概念がいかにわれわれの理解をこえたものであっても、すべての実験がそれを支持するように、遠く離れたものが、接触していないにもかかわらずお互いに引き合うなどというわれわれの理解をこえた何かが、それでも(その当時においては)すべての実験の結果を支持したのである。重力とは何かということを誰も説明はできないのと同じに、確率の振幅というのが何かを誰も説明はできない。つまり、それは現実をよく記述することはできるが、事物の本性をあるいは本質を説明しているものではない、とバークレーはしたというのである。
 ポパーもいうように、マッハはすべての形而上学、すべての経験をこえるものを否定し、形而上学はすべて神学であるとする、反=宗教の立場にあり、一方バークリーはすべてを司る神を肯定しようとしたわけであるから、よってたつところはまったく異なるが、それでも両者は似ている。ポパー道具主義と呼ぶものの立場としてである。
 われわれは何が正しいかを知ることはできない(バークリーはそれは神のみが知っているとし、マッハは誰も知らないという点で、正反対なのではあるが)、だからわれわれは役に立つ知識、有用な道具としての知識として科学を利用すればいいとする立場である。
 ポパーから見ると量子力学の世界観もそうみえるわけである。何が正しいのかを問わず、こう仮定すればすべてうまくいくという、という立場に安住しているように見えるのである。しかし、ポパーはたとえ何が本当であるかを知ることはできなくても、ある仮説が別の仮説よりもより優れていると判断できる根拠はあるとする。たとえばニュートンの仮説よりもアインシュタインの仮説のほうが優れている、とする。それはより多くの批判に耐えてきたからである、と。
 それを批判したのがクーンであり、ニュートンアインシュタインは依拠するパラダイムが異なるのであるから、比較は無意味であるするのである。
 問題は、ポパーハイエクも、西欧が生んだ「個人」とそれとカップルした「自由」を擁護する立場であることである。M・ポラーニ―が「個人的知識」を標榜しているにもかかわらず、その立場であるのかは微妙で、もう一人のポラーニーのカール・ポラーニ―は明らかにそれと対立するのであるが。
 ドラッカーは「わが軌跡」(ダイヤモンド社 2006年)で「六人のポランニー親子に共通していたのは、奴隷制に代わりうるのは市場だけであるとする一九世紀マンチェスター学派のセッセフェール(自由放任主義)は、間違いでなければならないとする信念だった。/ まさに、マンチェスター学派の市場至上主義は、ポランニー家にとって不倶戴天の敵だった。(中略)マイケルは禁欲的な個、カールは、経済社会の原理というように、それぞれがそれぞれの道を追求した。/ とくにカールは、先史時代、原始経済、ギリシャ、ローマを究めれば究めるほど、リカードベンサム、ミーゼス、ハイエクの悪しき市場信仰を是としかねない証左と遭遇する羽目になった。こうしてカールは、ますます人類学そのものに熱中し、脚注にこだわる学究生活に入り込んだままとなっていったのだった」と書いている。
 クーンは西欧の価値観の優位を否定しようとした。だから、西欧近代の価値を信じるハイエクとは基本的に立場を異にする。近代思想には二つの流れがある。大陸の観念論と英米の経験論である。マッハは大陸の観念論を否定しようとした。しかし西欧近代思想を否定しようとしたのではないだろう。市場は英米の経験論の象徴であり、マルクス主義は大陸の観念論の象徴である。
 クーンは近代思想や西欧中心主義を相対化しようとした。だから、英米経験論を擁護しようとしたハイエクと共通するものがあるようには、わたくしにはどうしても思えないのだが、なにしろハイエクの原著を読んでいないから、自信はない。しかし、ここでの池田氏の議論が、次の「自律分散の思想」につなげるためにかなり強引な議論の展開になっていることは否定できないように思う。
 

客観的知識―進化論的アプローチ (1974年)

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推測と反駁―科学的知識の発展 (叢書・ウニベルシタス 95)

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ドラッカー わが軌跡

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