池田信夫「希望を捨てる勇気」
ダイヤモンド社 2009年10月
池田氏の本を読むのは「ハイエク 知識社会の自由主義」についで2冊目であるが、同じ著者が書いたのだろうかといささか面食らった。「ハイエク」に池田氏自身が書いているように、ハイエクの思想はその背後には「近代の合理主義を攻撃し、人間の「無知」をすべての理論の前提に置く一種の不可知論」がある。「理性の限界」であり「われわれが考えうることなど所詮大したものではありえない」とする思考である。
「ハイエク」で氏はタレブの「ブラック・スワン」を共感をもって紹介している。そしてタレブが、不確実な世界を正しく予測していたほとんど唯一の経済学者として評価したのがハイエクであったとする(タレブが本当に尊敬している思想家はポパーであるように思うけれども、ポパーは経済学者ではない)。いずれにしても、タレブはハイエクとポパーを同じ陣営の思想家であると思っているわけである。そしてポパーは知識人の倫理として、こんなことをいうひとである。「われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えてでいる。それゆえいかなる権威も存在しない」「自己批判的な態度と誠実さが義務となる」。
ハイエクのノーベル賞受賞講演のタイトルは「知りもしないことを知っているふりをすること」(「ブラック・スワン」での訳は「見せかけの知識」、原題は Pretence of Knowledge )である。本質上知り得ないもの、コントロールできないものについて、把握でき、コントロールできると考えて、そこに介入していくことへの批判である。それとしてハイエクが第一に念頭においているものが社会主義であることは間違いないが、 現代の主流の経済学もその批判の射程にはいっている。
しかし、本書での池田氏は、すべてを把握できるかのように、非常に断定的にいろいろなことを裁断していく。氏は「政策担当者は、法律職や行政職でも、学科の教科書ぐらいの(経済学の)知識をもっていないと困る」といい、本書は「現在の経済学の常識に近い内容をなるべくやさしく解説したつもり」であるという。つまり、現代の経済学もまた限界をもつ、あるいはもっと一般的に社会科学の提示できることには限界があるという立場にはたたないわけである。今ものごとがうまくいっていないとしたら、それはそれに責任をもつ人達さえも必要な知識をもっていないからで、もしも必要十分な知識が広く行きわたるならば、政策の方向は自ずと見えてくるはずだととしているようである。つまり「理性の限界」ではなく「理性が眠っていること、使われていないこと」が問題なのだとする。
ハイエクは啓蒙という名前で指すものが、フランスの哲学者(ヴォルテールからコンドルセまで)とスコットランドからイングランドの哲学者(ヒューム、アダム・スミスからE・バークまで)では大きな違いがあることをいう。フランスあるいはドイツの啓蒙思想家はハイエクのいう設計主義的主知主義( Constructive Intellectualism )の立場、近代の合理主義の側に立つものであるとする。それとは異なり、ハイエクはスコットランド啓蒙の伝統の中にいる。
池田氏の立場はハイエクが批判する設計主義的主知主義の側のものなのではないかと思った。氏はアダム・スミスがいう体系の人( men of system )である。「われわれはいかようにも理想的な共和国を書斎の中で作る上げることができる(ヒューム)」。
それでは氏の構想する理想的な共和国の像がどのようなものであるかであるが、本書を読んでいて、強い既視感があった。本書の主張は10年くらい前に木村剛氏などがいっていた「現在日本の最大の問題は、無能な経営者が居座っていること、あるいは歴史的使命を果たし、もはや不要のものとなっている衰退産業が公的な支援で倒産せず生き残っていること」なのであり、「その未来のない産業が人材を抱え込んでいることが日本の不調の最大の原因なのである」としていたものに酷似しているように思った。木村氏は、無能な経営者が若い人材に席をゆずり、不要になった会社が倒産するならば、若い人材が活用され、衰退産業が抱え込んでいた労働力がこれから成長していく産業に移動できるから、日本は活力をとりもどし回復するだろうというシナリオを提示していた。
本書は、正社員をほとんど解雇できない日本の法体系により、無能の人材が会社の中で社内失業のような状態となって飼い殺しになっているのだから、それを解雇できるようにすれば、会社はもっと有為な人材を自由に採用できるようになり、現在の若年者の雇用の不安も解消し、日本は活力を取り戻すであろうということを主張している。
池田氏はそのような会社内失業者を「ノンワーキング・リッチ」と名づけている。もちろんワーキング・プアの対語である。本書には多くのグラフや資料が提示されていて、議論をささえているが、このノンワーキング・リッチについては、客観的なデータは示されていない。著者は以前NHKに勤めていたということだが、そのNHKの同期生が、今、地方局の局長ぐらいになっていて「死ぬほど退屈」であるといっているというような話だけなのである。地方の名士の会にでたりすることくらいしか仕事がなく、「あと5年は消化試合だよ」といっているが年収は2千万円あるというような事例である。年功序列という慣行がなければこの人もいまでも現場で元気に働けているのにという。たしかにそういうひともいるのだろうと思う。著者がほかに例としてあげているのが(管理職でない)役人などである。
わたくしは池田氏以上に実際の社会での労働の実態については知らないけれども、普通の会社で「ノンワーキング・リッチ」などというひとはほとんどいないように思う。失われた10年あたりのどこかで大量の人員整理をおこなっているから人が減っている(そのときにワーキング・リッチは割り増しの退職金をもらって消えてしまった)。人が減っても仕事が変わらなければ忙しくなって当然である。その仕事が生産性の高いものであるのかといえばもちろん問題はあるだろうが、とにかく死ぬほど忙しいようにみえる。「ノンワーキング・リッチ」であるとは思えない。著者は日本のサラリーマンのほとんどは年をとると何もすることがなくなる。取締役になるごく一部の人は超多忙になるが、それ以外は50を過ぎると極端に暇になるというのだが、どうしても本当のこととは思えない。
議論は昨今の大きな話題である格差の問題からはじまる。格差は構造改革による弱肉強食の市場原理主義が日本の良き伝統を壊したためであるという巷間に流布している説に反論する。終身雇用という言葉が最初に使われたのが1958年であることを指摘し、もともと中小企業には終身雇用などなかったといい、年功序列も戦後の雇用慣行であり、株式の持ち合いも1960年代にはじまったもので、いづれも日本の伝統とは関係がないとする。
雇用は企業収益の従属変数であるとし、したがって雇用をそれ自体として増やす特別な政策はありえないし、そればかりか「雇用対策」という規制強化は労働コストを引き上げて雇用をかえって減らすという(このことは本書のなかで何回もくりかえされるメイン・テーマとなっている)。雇用に対する本当の対策は「GDPを引き上げて雇用を創造すること」なのであるとする。老年層と若年層の貧困率が上がっているのは事実であるが、それは急速な高齢化によって年金生活者が増加し、単身所帯が増えて所帯所得が減ったためと説明される。所得だけからみた貧困率はそんなに悪くない(つまり所得があるひとだけからみるとそんなに貧困ではない)が、再配分後は貧困率が高い。それは政府の社会給付(児童手当や生活保護など)や税による再配分が少ないためである。これは日本の国民負担率が先進国最低であることの当然の帰結であり、再配分をあげるためには税金を増やすしかないが、日本の国民が低負担・低福祉という選択をしている結果なのであるから、いかんともしがたい。
そうでありながら国民が「低負担・高福祉」ということが実現可能であるように錯覚できてきたのは、企業とくに大企業が福祉の肩代わりをしてきたからである。社宅や退職金などもそうであるし、年をとって仕事がなくなっても窓際で飼い殺しにするというのも日本的な福祉システムといえばいえなくもないものであった。
このような恩恵は正社員にのみにあたえられる。最近の格差拡大は正社員率が減り、会社による福祉補完の恩恵にあずかれないひとが増えてきたことが大きく関係している。最近になって非正社員の比率が増えてきていることは間違いない事実である。しかしそれは小泉改革によるものではなく、1990年前半のバブル崩壊の直後からはじまっている。それは長期不況の結果なのである。
このような労働市場の二極化は世界に類をみない異常なものであることがOECDからも指摘されている。そこで著者がいうのが、問題は所得格差なのではなく、企業に守られている正社員と労働市場からはじき出された非正社員の身分格差が《固定》されていることなのだということである。現在の日本では議論は、だから正社員化しろという方向である。それに対して、著者がいうのは身分格差を《固定》しなければいいということである。正社員もいつでも解雇可能であるようにすれば、現代日本の問題は解消してしまうという。
日本のセイフティ・ネットとしては、1)会社による雇用保障、2)年金・雇用保険などの社会保障、3)生活保護という公的扶助の3つがある。しかし、失業保険の受給資格を持つのは失業のおそれの少ない大企業の正社員が中心であるし、非正規労働者は生活困窮に立ち至っても、事実上生活保護を受けることもできないので、職を失うと一気にホームレスにまで転落してしまうという。
著者によればこれは都市化の副産物で、不景気になれば田舎に帰り農作業をするとか、町工場同士であまった従業員をひきとりあうといった以前にはあったコミュニティが崩壊していることから生じる。核家族化によって、家族というネットワークに頼れなくなったため、企業というコミュニティがなくなると支えるものが何もなくなる。従来の日本で相互扶助の役割をになっていた農村共同体を継いだのが企業という共同体だった。しかし企業をあたかも大家族のようにみなすやりかたも、90年代以降、日本の産業構造の変換ととみに崩壊しつつある。著者によれば農村共同体も会社共同体ももはや再建は困難である。そこへの回帰といったノスタルジアにひたっていてはいけない、という。
欧州では解雇規則が厳しく労働組合の力も強い。そのため中高年の労働力が遊休化している一方、若者の失業率が高い。日本経済もまたそれと同じ構造になっている。そういう日本でさらに雇用規制を強化することは、さらに若年者の失業率を高め固定することになるというのが著者の主張である。
日本で派遣社員が増えたのは正社員の解雇が不可能に近いからである。OECDは日本の正社員の過剰保護を批判する。OECDは正規労働者の雇用弾力化を提言しているが、これは原文では正社員の雇用保護を削減せよとなっているのだそうである。そうすれば、労働移動が進み、老朽化した日本的経営から情報革命に対応した産業構造に転換できるだろうとする。つまり本書での著者の提言は基本的にはこのOECDの提言に準じたものとなっている。
日本では企業が倒産するか事業から撤退するという場合しか従業員を解雇できない。法律的にも正社員は強く保護されており、それを解雇しようとすると、まず非正規社員を解雇することが司法からも要請される。その点で経団連と連合の利害が一致している。現在の雇用規制は既得権を保護するためのものとなっている。日本の法体系は正社員だけが正しい雇用のありかたとしているから、行政からみた労働者保護はそのまま正社員保護となってしまう。
雇用を増やすには第一義的には景気の回復である。しかし労働市場の歪みの是正もまた重要である。正社員の解雇規制を弱めることは、すでに雇用されている労働者には不利となるが、いま雇用されていない失業者には有利になる、どちらを優先させなければいけないかは一概にはいえないが、規制のきびしい欧州では失業率が2007年で7.9%であるのに対し、解雇自由のアメリカでは4.6%である。失業期間の平均もアメリカでは4ヶ月以下であるのに対して、欧州では約15ヶ月である。今のアメリカの失業率は9%になっているが欧州では10%以上である。つまり、解雇しやすいほうが雇用が増える。
フランスでは2006年に、若年労働者を試用期間の2年以内ならば解雇できる法案を提出したが、大規模ストなどで1968年以来といわれる内乱状態になり撤回する事態となった。フランスの若年労働者の失業率は23.9%で日本の3倍である。このまま雇用規制を続けていると、いずれ日本もフランスのようになると著者は警告する。
経済学者にとっては、解雇しやすいほうが雇用が増えるというのは常識である。しかしそのような政策は「大資本の利益に奉仕する血も涙もない政策だ」という感情論には勝てない。ワイドショウのお涙頂戴の“正義”が結果的には弱者をさらに弱い立場に追い込む。
経済学の第一原理は、資源は有限であるから選択が必要となるということである。それは相対性を原理とする。そこに「命は何よりも尊い」というような絶対の原理がはいってくると、経済学の原理が機能しなくなる。妥協点をさぐるという政治も機能しなくなる。
幼児の正義が司法界では横行している。耐震偽装という姉歯建築士の個人的な犯罪にもとづく建築基準法の改定で住宅着工が半減した。手術の失敗に刑事罰を科すことで医療が崩壊しつつある。日本で議論されるのは、実質的な安全性ではなく、手続きの違法性である。だからみな形式的な法令遵守に走り、違法でないが重要な問題は放置される。
今回の世界不況で輸出依存度が高くない日本が一番大きな打撃を受けているのは、日本で輸出産業以外には収益のあがっている企業があまりないからである。労働人口の1割が関与しているにすぎない輸出産業にいつまでも頼ることはできない。国内産業を育成しなくてはならない。そのためには雇用慣習を見直すことである。第一大戦までは「渡り」と呼ばれる自由労働者が主体だった。しかし手作業から大量生産方式に移行すると、経営者に直接管理される単純労働者が主体となってくる。各企業は熟練工の囲い込みのために企業福祉の充実を図るようになった。現在でも終身雇用といえるような連続雇用は大企業の男性社員にかぎられており、その割合は9%弱である。公務員と大企業のホワイトカラーだけの例外的で特権的な雇用形態であるにすぎない。
高度成長期には配置転換が雇用の調整手段となった。日本では解雇はしないが転勤の辞令は絶対である。しかし90年代になると社内のひとの移動だけでは過剰な労働力に対応できなくなってきた。需要の変動に対して雇用調整をおこなうやりかたとして、解雇(50年代)、配置転換(60年代)、出向(70年代)、非正社員(90年代)というように変化してきている。出向までは日本の雇用慣行のなかである。90年代以降そういった日本の雇用慣行では雇用調整が円滑にできなくなっている。それが日本経済の長期停滞の一つの原因である。したがって、景気回復のためには、もっと雇用調整がうまくおこなわれる必要があるという著者の主張となる。その雇用調整がうまくいっていない理由は、時代遅れの雇用規制と司法判断である、ということになる。
90年代以降の非正社員の増加は、グローバル化の進行、中国からの輸入増加による価格低下圧力によるものであり、それを法律の規制でおさえることはできない。それは事実なのであるから、会社に依存しないセーフティ・ネットの構築が重要になる。必要なことは転職の機会を広げることである(年金のポータブル化、退職金や社宅などへの課税など)。福祉システムを会社から取り上げなくてはいけない。
かっての職人は大組織に吸収されて自律性を失った。しかし今また、個人主義的な商人や職人のエートスが生きる時代がきたのではないか、という。そこで池田氏があげるのがウエブ上のビジネスといったものである。日本経済をだめにしているボトルネックが雇用慣行なのだから、これが変われば経済システム全体が変わるかもしれない、という。
日本ではもっともリスクの少ない正社員が最大のリターンをえていて、リスクが最大の契約社員のリターンが最低である。もしも市場原理がそこに働けば、正社員の賃金が下がるはずである。そうならないのは労働市場の硬直化のためである。解雇規制を撤廃したら格差が拡大するというのは嘘で、新卒者にももっとチャンスがあたえられる時代になり、機会の平等へとむかうはずである。必要なのは結果の平等ではなく、機会の平等である。解雇規制を緩和して衰退産業から成長産業への労働力の移転がおこるようにすることが重要である。そのモデルとなるのが北欧のシステムで、そこでは解雇は容易であるが、職業訓練などを政府が強力におこなっている。著者も北欧と日本では環境が非常にことなり、そのまま適応できるとはいえないことはみとめる。第一、北欧の一人あたりのGDPはアメリカの75%以下である。福祉国家の経済効率は一般に悪い。
これからの日本は長い下り坂を下りていくことになろう。日本の産業構造が老朽化しておりそれを再編しないと大変なことになると、づっといわれながらそれに手をつけなかったからである。90年代からの公共投資へのバラマキは建設業という非能率な衰退産業を延命させ、成長産業への人の移動を阻害した。他方、アメリカでは巨大産業が没落して、新しいIT企業が登場した。ハイエクは保守派という一般のイメージとは異なり、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名とし、部族社会の道徳と批判したという(これは「ハイエク」での記述(p98やp166)とはかなり異なった見解であるように思う)。
日本からは親密な共同体が消え、「強い個人」を建て前とする社会に移行していくだろうという。日本を駄目にしているのは、日本企業の家父長的な構造と、それにチャレンジしないサラリーマンであるという。
われわれはもうすべてのひとをハッピーにすることはできないことを悟るべきである。われわれは解雇制限を撤廃し、すべての労働者を契約ベースにし、年功序列も廃止し、同一労働・同一賃金とし、年金もポータブルにし、退職金は廃止するくらいのことをして、全労働者を機会均等にすることがのぞましい、そう著者は主張する。日本の労働生産性をふたたび上げるためにはそのくらいのドラスティックな変革が必要である。その変革を妨げている最大のものは「労働者は資本家に搾取される弱者であり、政府が救済しなければならない」というイデオロギーである。賃金を引き上げるためには、労働生産性を上げるしかない。それには労働市場の流動化が必要である。
1990年以降の日本の停滞の原因をさぐって、短期的な景気循環によるとするリフレ派と長期的な生産性の低下が原因であるとする構造改革派の論争が取り上げられるが、このあたりの正否はわたくには判断できない。
氏は田中角栄の列島改造論がいけなかったという。それが生産性の低い地方の衰退を一時的に遅らせ、生産性の高い都市への労働力の移動を妨げたという。地方はもっと衰退してもおかしくはない、という。農村はもうリゾートなどで生きていくしかない、という。
さらにアメリカの大恐慌の原因についての議論があるが、これもまたわたくしには正邪が判断できない。
日本の財政赤字を半減させるためだけでも、消費税を40%にしなければいけないのだそうである。
日本は第三次産業革命(情報革命)に乗り遅れた。日本的な「匠」の優位は、モジュールの組み合わせでモノがつくられるようになると失われる。
池田氏は資本主義のコアは「神の前での孤独な個人」であるという。そして、日本に今一番不足しているのはリスクをテイクしようとするアニマル・スピリットであるとする。
本書を読んでの印象は、現在の日本を救うのは、労働力の流動化しかないという結論が先にあり、それに整合するいろいろなデータや説をあとから集めたのではないかというものである。それで「解雇制限を撤廃し、すべての労働者を契約ベースにし、年功序列も廃止し、同一労働・同一賃金とし、年金もポータブルにし、退職金は廃止する」というかなり極端な提言がでてくるわけだが、フランスでその一部を行おうとしたら社会が不穏になったということは本書に書かれているし、今の日航の企業年金の問題一つにしてもなかなか解決が困難なわけであるし、そもそも雇用の問題については規制緩和どころか規制強化がメディアのメインな論調であるし、まったく実現不可能なことははじめからわかっている提言である。それともこういう本を書くことによって日本の論調が変わり、その方向に日本が転換していくことを期待しているのであろうか?
「われわれはいかようにも理想的な共和国を書斎の中で作る上げることができる」のであるが、それを実現しようとすると不幸が生じるというのがヒューム−ハイエクの根本にある理念であり、タリブもまた未来を予測できコントロールできるとする思考に真っ向から批判をくわえている。そのハイエクやタリブを賞賛していたひとがこういう本を書くということが不思議だった。
日本の真の回復は生産力の回復にしかないというのは本当なのだと思う。回復が経済によるとすれば。しかし、もう回復しなくてもいいのではないかという議論もありうるわけで内田樹氏の「日本辺境論」もそのなかにふくまれるのだろうと思う(橋本治氏の論もまたそうであろう)。しかしグローバル化の事態の中で鎖国はできないだろうと意見もあろう。
一方では、有能な個人は狭い日本にこだわることはなく世界に雄飛すればいいのはという方向もある。梅田望夫氏の論などはその方向なのだと思う。日本は出る杭を叩く国だから、有能で個性的な個人は生きにくい。そこまでいかなくても日本がどうなろうと自分というものをしっかりとしていけばいいという方向もあるだろう。村上龍氏とか竹内靖雄氏とかはその立場であろう。そういうひとたちからみると、個人を抑圧していた共同体の抑圧が軽くなったことは歓迎すべきことなのかもしれない。
日本という枠組みでものを考えることが現代においてもまだ有効なのだろうか? そういう発想は、もう時代おくれの存在、極端なことをいえば無用の長物になってしまったと本書に書かれている通産官僚的発想、もう少し広くいって日本を指導していると自負する官僚たちの発想なのではないだろうか?
しかしマスコミの論調もまた「お上」への期待である。民主党の政策には成長のために何をするかという視点が乏しい、とか。政治が何かをすれば景気がよくなり、しなければあるいは間違ったことをすれば、景気が悪くなる、すべて政治の責任であるといった論調である。これは広い意味での社会主義的発想、計画経済的発想である。ハイエクが批判したのはこういう視点だったと思う。
池田氏の論は、自分に日本の舵取りをまかせてくれたら、日本を立派に再生してみせるのにという感じである。こういう「設計主義的主知主義」こそがハイエクが批判したものだったはずである。
強い個人はいかようにも生きていくであろう。問題は強くもなく能力もないごく普通のひと、あるいは弱くて普通でさえないひとがどのように生きていくかであろう。バブルのころの日本はそういうひとたちでさえ何とか生きていけるという理想が達成しかかった希有な時代だったのかもしれない。そのころの暖かいぬるま湯が忘れられなくて、なんとかその時代に戻れないのだろうか、というのがマスコミの論調の基底なのであろう。
それはもう出来ないということがみなわかっているのだが、それを言いだす勇気、そこに戻れるという希望を捨てる勇気が持てないのであろう。おそらく池田氏がいっているのは、終身雇用とか年功序列とかいった希望を捨てる勇気を持て、ということなのだろうが。
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