与那覇潤「中国化する日本」(6)

 
 第6章「わが江戸は緑なりき―「再江戸時代化する」昭和日本
 
 ヨーロッパ人がもはや「父親」には頼らず「組合」を作って乗り切ろうとした近代の危機を、日本人はあくまでも「父親」を中心とした「イエ」の結合によって突破しようとした。それが大正から昭和にかけての社会の「再江戸時代化」である。
 ヨーロッパでの標準的な労働組合は所属企業や居住地域を越えた同業従事者どうしで結束する(職種別組合)。しかし日本では会社別の労働組合が普通である。これは労働組合を名乗る組織であるが「会社の一部」であるともいわれる。
 このような組合の形態であれば、経営者も労組のメンバーも同じ会社のメンバーであるという点で、藩主も領民も先祖代々の同じ土地でくらしてきたために適当なところで折り合いをつけることになった「封建制」の江戸時代の百姓一揆と同じ構造である。第一次世界大戦前後から会社の「村社会化」がおきる。それははじめはホワイトカラーを対象にしたものだったが次第にブルーカラーにも及んでくる。
 これの負の側面としては、女性の社会進出の抑制ということがある。また「イエ」の周囲に存在した「ムラ」というセーフティ・ネットが失われてしまった。それで大正末期から親子心中が激増する。
 戦前から戦後にかけての日本では「社会主義のうちの江戸時代に伝統に沿わない部分は徹底的に排除され、適合的な部分は全面的に採用された」と現在の学問世界では考えられている。
 西洋史学では第一次世界大戦から冷戦の終結までを「短い20世紀」と呼ぶ。つまりロシア革命からソヴィエト連邦の崩壊まで。その時期は日本では「江戸時代化の世紀」でもある。
 第一次世界大戦によって、国際交易は激減し、主権国家ごとの国内市場に分割され、その市場に国家が介入する状況が生まれた。(⇒全世界の江戸時代化) また第一次世界大戦が総力戦となった結果、どの国家でも社会福祉に配慮せざるをえなくなった。ケインズ政策はその延長線上にでてくる。そのケインズ政策を「隷従への道」であるとして批判したのがハイエク(⇒国家によって決められた通りに生きないと食べていけなくなる状況に国民を追い込む、独裁への道である)。江戸時代を安定と平和の時代とみるのがケインズの立場であり、それを自由のない暗黒の時代とみるのがハイエクの立場である。
 「中国化」による自由競争と自己責任の明治社会に疲れ果てた日本人が「江戸時代は悪くなかった。ちょっとくらい不自由でも安定していたあの時代に戻りたい」と思っていたところに、世界中が「江戸時代化」していった。それで江戸時代に引き戻されたのが「昭和」なのである。北一輝の思想もその観点から見ると理解しやすい。そして北の路線に大いに感化されたひとである岸信介が戦中から戦後の日本の中心にいたわけである(安倍晋三のおじいさんなのだから、まだいる?)。問題は江戸時代には議会がなかったことで、だから政党が崩壊して大政翼賛会になってしまう。そこに「気分は陽明学」が加わる。動機よければすべてよし。で、5・15事件で青年将校減刑嘆願が殺到する。
 「軍部がやる社会主義」を軍国主義という。「40年体制」は「垣根で分けられた社会主義」であった。これすなわち「封建制」のもとでの「勤勉革命」である。日本の社会主義は「会社」というムラごとに分割された封建社会主義(=会社主義)であった。
 日本人は江戸時代の枠組みに合致する限りにおいて社会主義が大好きなのである。国際共産主義は駄目だが天皇の下の一国社会主義ならいい、ということになる。だから旧社民党系のひとたちは、経済政策は赤旗、文教政策は産経新聞
 明治維新は日本を中国化しようとするものであった。それへの反動の「昭和維新」は「再江戸時代化」への挑戦だった。そして失敗したのは明治維新で、成功したのは昭和維新のほうだった。
 
 本書では中国(宋朝以後)と日本(江戸以後)が常に対比されるのだが、中国と日本は広さが違うよな、ということを常に感じる。そんなにも規模は違うものを比較できるのだろうか?
 岡田英弘氏の「皇帝たちの中国」によれば(この「中国化する日本」には随分と詳細な参考文献が挙げられているのだが、岡田氏の著書は一冊もないように思う。氏は正統的な学会ではあまり評価されていないのだろうか? わたくしにはとても面白いのだが・・。ちなみに、中国は儒教の国ではなく道教の国というのも氏から教わったもの)、中国文明の三大要素は1)皇帝、2)都市、3)漢字。中国の歴史は、皇帝の歴史そのもの。近代以前には「中国」という「国家」はなく、「中国人」という「国民」もいなかった。皇帝の支配がおよぶ範囲を「天下」といった。「天下」とは具体的には皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさし、各地にめぐらされた商業都市網の経営が、皇帝制度の本質。われわれの持つ国家観は18世紀末のアメリカ独立とフランス革命によってはじまった「国民国家」の観念で曇らされている。また「皇帝」という言葉をローマ皇帝の「皇帝」と混同することも混乱のもととなる。ローマの「皇帝」は本当は「アウグストゥス」であり、「元老院の筆頭議員」である。元老院がなければローマ「皇帝」は存在しえない。
 中国の皇帝とは何か? 秦の天下統一以前にも、たくさんの都市が中原(黄河中流域・下流域)にはすでに存在していた。それらはすべて城塞都市であった。交易の中心地に都市は発生する。したがって中国の都市は商業的な性格を持つ。皇帝とはその多くの商業都市ネットワークの支配者のことをいう。皇帝制度のもとではその皇帝直轄の都市を「県」という。いくつかの「県」を統括する軍管区を「郡」と呼ぶ。都市の市場への入場料が商税でこれは皇帝の収入となる。要地には関所があり、その関税もまた皇帝の収入となった。つまり皇帝は中国最大の資本家である。高利貸しでもあった。また工場の経営者でもあり、塩や鉄の専売もしていた。いわば皇帝は総合商社の社長であり、その営業のおよぶ範囲が「天下」すなわち中国だったのである。
 (漢字の話は措いて)中国とは元来、「中央の都市」の意味で、首都の城郭の内側だけを指した。都市の城内の人間だけが戸籍に登録された「民」で、城外の人間は「夷狄」と呼ばれた。つまり都市と都市の間のスペースは異界なのだった(のちには「民」とみなされるようになるが・・)。
 この岡田氏の説を信ずるならば、中国は宋朝以前のはるか昔から「商業」の国である。一方、日本はいくら網野善彦氏が「百姓」は農民ばかりではないぞといっても、それにくらべたら「農業」の国である。中国においては「一所懸命」などということは薬にもしないないであろう。一方、日本では商業をする組織であるはずの会社でさえ「一所懸命」に走るのである。
 少なくともここで「中国化」といわれていることのかなりは「商業文化」ということであり、「江戸時代化」といわれていることのかなりは「農業文化」ということで説明できるのではないかという気がする。
 中国の皇帝は、都市をだけをおさえてそこからのあがりがあればいいのであれば、都市の外の農民がどのような生活をしていようと知ったことではないわけである。現代の中国でも人口が十分に把握されておらず、奥のほうからいくらでも労働力が湧いてくるなどという話をきくとわれわれは大変奇異に思うわけだが、岡田氏の説をきけば得心できる。
 もしも中国がそのような国であるとすれば、共産主義が似合うわけはないわけで、今の体制のほうが中国の歴史にはるかによく合致しているわけである。現在の共産党のトップが昔の皇帝であると思えばいいわけである。高島俊男氏の「中国の大盗賊・完全版」(なお、これは与那覇氏の本でも紹介されている)によれば、中国の皇帝というのは盗賊が出世して成り上がったものも多いとのだという。そして毛沢東もまたその一人というのが高島氏の卓見?である。
 中国の歴史上の二大勢力は「紳士」と「流氓」なのだそうである。「流氓」とはならずもので、これが徒党をくんで盗賊となり、一方、「紳士」は官僚であり政治家であるが、大きな盗賊ともなるとお抱えの知識人がいて、それが大義名分をでっちあげる。時にはインテリが首領になることもあって、その一人が毛沢東。本当かねと思うが、毛沢東は西洋的教養についていはまったく駄目で、マルクスの文献などほとんど読んだことがなく、毛沢東の論文とされているものは、お抱え知識人が書いたものなのであろうと。しかしきっすいの伝統的中国文人ではあり、その「詞」はとてもいいのだそうである。
 中国では「よい鉄はクギにならぬ、よい人は兵にならぬ」と昔から言われているのだそうである。兵というのはろくなものではなく、なにも「流氓」すなわちならずもの盗賊ではなくても、政府側の兵だって収賄略奪暴行何でもありのとんでもないものだったらしい。これまた、とにかくも武士・侍が一つの一つのモラルの基準となりえた日本とは大違いである。
 なにもかも日本と中国では正反対である。それぞれにいいところ、悪いところがあるわけだから、当然、そのいいとこ取りという発想がでてくるわけだが、与那覇氏によれば、それはしばしば結果として悪いところ取りの最悪を生むのだそうである。
 しかし、ケインズが江戸時代日本というのはまだ何とか理解できるとして、ハイエク=(宋朝)中国という図式はいくら何でも成立しないような気がする。ハイエクにはあるであろうモラルのようなものが、そこには感じられないのである。
 

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

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皇帝たちの中国

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中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

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