与那覇潤「中国化する日本」(5)

 
 第5章「開国はしたけれど―「中国化」する明治日本」
 この本は去年の1月の刊行であるが、いまや全国「維新」だらけ、その安っぽさが明治維新の本領であるが、と与那覇氏はいう。
 さて、明治維新はなぜ起きたか? 黒船が来たから? でも、お隣の中国・清では、アヘン戦争、アロー戦争で欧米の侵略をうけたが国は滅びていない。たった四杯の上貴撰くらいで大騒ぎって安っぽくはないだろうか? 「攘夷」をかかげてあっさりと「開国」に転じた倒幕派民主党マニフェスト未達成などとは比べものにならないくらいの「史上最大の公約違反」。なんのための政権交代だったのか? 明治維新の過程で政治的理由で命を失ったひとは約3万人。フランス革命では65万人〜100万人。小さい小さい。
 明治維新とは何だったか? これはまだ歴史学でも未解決の難題であるが、与那覇氏の答えは「耐用年数の切れた「日本独自の近世」という堤防が内側から決壊した」のが明治維新で、「宋朝の時代に「中国的な近世」が成立して以降、あの手この手でどうにか堰き止めてきていた「中国化」の濁流に一気に押し流された」ということなのである、と。
 ペリー来航のころには、日本は「誰もが不満な社会」な社会になっていた(というのが与那覇氏の見解なのだが、この誰もがというのもせいぜい「武士の身分のものは」であって、町人は関係ないのではないだろうか?(橋本治「江戸にフランス革命を」) 野口武彦氏の「幕末気分」などをよめば武士だって幕臣の下っ端などは完全に町人化している。)
 まあそれは措いておくとして、ペリーが来航して、老中阿部正弘はここは有力大名も引き込まねばと考えて、それまで幕政に実権を持っていなかった水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬に意見を打診した。大大名でありながら、長年、幕政に参加でできずにいた人たちの欲求不満に火がついた。しかし、水戸も薩摩の幕府を廃するなどとは考えてもいなかった。ところがそれらの藩の下級武士の鬱憤はさらに大きかった。彼らが薩摩や長州で藩政を乗っ取ってしまった。これで動きが過激になった。ペリーの来航などはこれら下級武士の行動の口実に過ぎない。
 自己責任での条約締結を嫌った幕閣は皇室に開講の勅許を求める。ところが異人嫌いの変な天皇であった孝明天皇はこれを拒否する。これまた不満下級武士に行動の口実をあたえた。
 下級武士にとって「尊皇攘夷」は溜まりに溜まっていた欲求不満の解消のための方便に過ぎなかったのだから、実権を掌握したら、あっさり捨てることができた。(わたくしなどはこういう説明をきくと、すぐに全共闘運動を想起してしまう。その当時全共闘運動が掲げていたさまざまな「大学解体」などのスローガンは、行動のための口実であって、実態は自分でも理解できないわけのわからない不満を発散できる場所を探していたのだと思う。「立て看読んでも何が言いたいのかはさっぱりわからないが、性欲が過剰であることだけはよくわかる。(三島由起夫)」 しかし、それにもかかわらず、耐用年数にきていた明治以来の大学のドイツ由来の講座制は決壊してしまった。)
 明治維新は「新体制の建設」ではなく「旧体制の自壊」である。旧体制である日本近代の本質は「反・中国化体制」である。それが自壊すれば「中国化」一辺倒の時代となる。最近20年くらいの歴史学では、これまで西洋化とされてきたものは、むしろ中国化なのであるとする見方が主流となっている。その根拠は?
 1)儒教道徳に依拠する専制王権の出現:将軍や幕府を廃した王権への権力の一元化が実現した。教育勅語儒教である。「一世一元の制」も中国では明から行われている。
 2)科挙の導入と競争社会の導入:高等文官任用試験が1894年からはじまる。福沢諭吉の「学問のすすめ」は学問しないと負け組だぞという話である。福沢がいったのは機会の平等であって、結果の平等ではない。
 3)世襲貴族の大リストラと官僚制の郡県化:武士は世襲だった。秩禄処分廃藩置県で日本は封建制から郡県制になった。
 4)規制緩和と市場の自由化:地租改正で年貢は金納になる。職業選択は自由になる。
 大事なのは儒教を「江戸幕藩体制を支えた思想」としてではなく、西洋化を媒介して近代日本を準備した思想」とみる視点である。その視点が大事なのは、「なぜ中国や朝鮮は近代化に失敗したのに、わが日本のみが明治維新で近代化に成功したか?」というきわめて有害な愚問を無効にするからである。中国や朝鮮はすにで中国化していたのである(中国に中国化せよなどと馬鹿なことをいう人間がいるだろうか?)。日本は江戸体制が自壊して「中国化」せざるをえなくなったときに、そのどさくさに紛れて、ついでも西洋化もあわせて済ませてしまったのである。たしかに中国には議会制民主主義の体制はなかった。しかし、身分の自由、商売の自由はすでにあったのである。優秀な人材を厳正に選抜する科挙の制度だって一種の選挙ではないだろうか? だからこそ中国や朝鮮は西洋化のタイミングを逸してしまった。
 日本人はそれまで導入を拒んできた「中国化」を必然の「西洋化」として受け入れさせられてしまった。だからなんとなく納得できず、内心では必ずしも喜んでいない。だから人気があるのが坂本龍馬であり西郷隆盛であって、伊藤博文山県有朋ではないことになる。
 さて映画「用心棒」は幕末の宿場町が職分ごとの棲み分けが崩れ、規制緩和と自由競争によってはじまった共食い社会として設定されている。これは実力競争社会が孕む無機質さあや残酷さを描く映画なのである(その象徴が仲代達矢のもつピストル)。一方、江戸盛期を舞台にする「椿三十郎」はなんだかのおほほんとユーモアのある世界である。日本人は明治を嫌い、江戸をもとめる。自由民権運動も実は「江戸に帰ろう」という運動なのである。江戸時代にすでに生じていた読み書きなどのリテラシーの差が明治以降の身分差を生んだ。市場経済に適応できるか否かを決めるものが、江戸時代に教育を受けることができたかであったのである。しかし、江戸時代は文字が読めなくても生きていけた。身分制度の保護があった。それがなくなるととんでもない格差社会になる。明治期日本は徹底した実力社会であった。そして悲惨とされいる明治期の女工も、その労働を「イエに縛りつけられた近世のムラでの際限のない農業労働よりは増しと感じていたのである。(男は「軍隊はいわれるほど酷い場所でもなかった」といった。) 現在の中国は経済発展の熱気とともに都市底辺層の悲惨な実態についても多くが言われている。しかしそれでもなお農村に残るよりも流民工のほうを選ぶのである。明治の日本は現在の中国だと思えばいい。
 明治になって、前より自由になったが、貧富の差も大きくなった。それに対する方向は?
 1)もっと自由化を徹底させ、より競争的で流動的な社会をつくる。(中国化)
 2)自由化を規制し、弱者もそれなりに尊敬される社会をつくる。(再江戸時代化)
 現在の中国の人は、2)を選ぶことはないだろう。それは宋朝以来の中国歴史による。しかし日本では、明では失敗におわったしくみを徳川250年の平和として機能させた歴史を持つ国なのである。だから江戸が恋しくなる。
 伊藤博文が導入した体制はプロイセンではなくオーストリアに学んだもので、君主制を制限するとともに、議会にも権力を持たせないようにする方向であった。それらを制限して伊藤は自分に権力を集中させようとした。しかし、それは伊藤が征夷大将軍になって独裁する体制になるといって反対される(これは後の大政翼賛会近衛文麿東条英機にたししてもいわれる)。しかし、天皇を中国皇帝のような絶対権力者とする方向もでてこない。だから制度は玉虫色となる。明治の体制は「再江戸時代化」のほうにむかう。日清戦争のあたりから「大きな政府」路線となる。議会政治も地元の名望家が代議士になって自分の地盤に補助金をぶんどってくる「封建制」のようになっていく。
 そこに「動機オーライ主義」の「気分としての陽明学」がでてくる。「結果オーライ」の逆で、「はじめよければあとはどうなってもよし」。だから在野の野党のほうが外交問題ではつねに鷹派となる。
 
 極めて説得的な説明なのであるが、まだ納得できない部分も残る。
 まず、最大のものが、明治維新がおきたことは事実であるが、それが起きたことは必然ではなく偶然だった可能性も大いにあるわけで(孝明天皇な変な天皇だったとか、徳川慶喜がなんだか情けない人間だったとか・・)、そうであるならなぜ明治維新がおきたかという問い自体が成立しない可能性もある。
 江戸末期の人間はみんなそんなに不平不満のかたまりであったのだろうか? 毀誉褒貶ある本であるが渡辺京二氏の「逝し世の面影」などを読むと全然そんな印象はない。
 そもそも宋朝中国がグローバルスタンダードなのだろうか? それは世界史にたまたまおきた例外事態なのであるが、たまたま中国はその当時の世界の先進国であっただけということはないのだろうか? 王様とか皇帝がいて、その下に身分社会があるというほうが自然な社会形態で、中国におきた宋朝体制も、西欧に生じた議会制民主主義もともに例外な体制なのではないだろうか?
 宋朝の体制とか、西欧の体制とは、できたのは偶然であっても、できてみればどこか人間の本性に叶うものがあって、それ以外の社会にも適応できることがわかって、それでグローバル・スタンダードとされるようになったのだろうか?
 中国というのはきわめて非宗教的で世俗的な国であり、その宗教は儒教ではなくて、道教なのであり、宋学をふくむ儒教などに入れあげたのは一部インテリだけなのではないだろうか? 中国化をもたらしたのは道教なのではないだろうか?
 磯田道史氏によれば、「名にこだわる―のは日本人の性」である。だから内匠頭とか従五位下といった肩書きがとても大事になる。名は実態を表さない。日本で身分制を維持したものは、名へのこだわりなのではないだろうか? 実権はなくても名誉があればいい。そういう身分制だからこそ長く保ったのではないだろうか?
 「気分としての陽明学」の動機オーライ主義というのは、小室直樹氏が「盲目的予定調和説」と呼ぶものと関係があるような気がする。「自分がある特定のことに全身全霊うちこんで、それがうまくいけば、その他の事情は自動的にうまくいくはず」という考え方である。真珠湾攻撃然り。連合赤軍然り。
 わたくしがここで与那覇氏の説にいろいろと口をとがらせて楯突いているのも、江戸人間であるからなのだと思う。「用心棒」より「椿三十郎」のほうが好きである(このブログの題名も「椿三十郎」の原作「日日平安」からきている。「日々」ではなく「日日」だったことには後から気がついたのだが)。それにもかかわらず、ムラ社会が大嫌いで、西欧渡りの個人主義が大好きなのだから、矛盾している。
 こんなブログを長々続けているもも結局、その矛盾についていろいろ考えてみたいからなのだろうなと思う。それで次は第6章「わが江戸は緑なりき」。
 

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