与那覇潤「中国化する日本」(8)

 
 第8章「続きすぎた江戸時代−栄光と挫折の戦後日本」
 1945年の敗戦時の日本にあったものは「再江戸化」したムラ社会的な生活システム(配給生活)と「中国化」した普遍的な政治の理念とエートス(八紘一宇大東亜共栄圏・・)であった。だから、その当時、日本には「江戸化」と「中国化」の二つの方向が開かれていたと与那覇氏はいう。共産化して「日本人民共和国」になった可能性もあるし、江戸時代のように国境を閉ざして軍事独裁政権を作る可能性もあったのだ、と。
 これがわからない。当時の日本は Occupied Japan である。そもそも自主的に選択できる状況にない。林達夫が「新しき幕明き」(「共産主義的人間」所収)で、当時の言論をどれもこれも Occupied Japan であることを忘れた空理空論であると慨嘆していたが、与那覇氏の論もまた机上の空論であるとしか思えない。
 現在の歴史学では、終戦を「戦時下で日本社会に生じていた巨大な変化が、戦争が終わった後も一貫して持続した」と考えるのだそうである。戦前の軍国主義(「軍部がやる社会主義」)から、議会政治家のやる「戦後社会主義」へ。なぜなら、総力戦体制は本来、社会主義と相性がいいから。それゆえに社会党委員長の片山哲を首班とする連立内閣ができることにもなった。当時は右に吉田茂日本自由党、中央には《文化は保守、経済は再分配》の芦田均民主党、左に日本社会党がいるという3大政党体制で、後者二つが連立して政権を担っていた。与那覇氏にいわせると、この体制こそがグローバル・スタンダードで、前二者が組んで自由民主党ができたことが、日本グローバルからはずれる原因となったという。むしろ片山連立内閣から後者二党が合併して社会民主党のようなものができていればグローバルだったのである、と。
 片山連立内閣はしかし、昭和電工疑獄事件(GHQの陰謀であるともいわれている)で潰れてしまう。さらに1950年の朝鮮戦争勃発がすべてを変えてしまう。それまでは「自由主義社会主義か」は経済問題だったのだが、それが政治問題化してしまう。「改憲再軍備派」と「護憲非武装中立あるいは社会主義陣営との連携派」に二分され、それで改憲再軍備賛成派の自民党ができてしまう。日本国憲法の平和主義は普遍主義的な思想である(つまり、政治理念の「中国化」の流れの中にある)。しかし憲法改憲条項は、改憲に三分の二以上の賛成を必要とするため、護憲派改憲阻止のためには三分の一以上の議席を有すればいいことになった。それにより政権の実益は自民党が、護憲の理想は社会党その他の政党が担う、すみわけ体制が生じてしまった(55年体制)。ここで地位の一貫性の低い政界の構図ができあがってしまう。現実は自民党が、理想を社会党が荷うことになり、実際の政治は利益配分だけになってしまう。だが、ここで与那覇氏は急に弱気になって、戦後、これ以外の選択がありえたのだろうかといいだす。(ということは氏は、結局、「江戸時代」を肯定するのであろうか?)
 この辺りもまたよくわからない。まだアメリカ占領下、Occupied Japan なのである。ギブ゛ミー・チョコレートで、「拝啓マッカーサー元帥様」なのである。お上意識健在である。長いものには巻かれろ、である。
 第一、アメリカ占領下の日本の社会主義政党は経済問題を論じていたのだろうか? 日本共産党は暴力革命論であり、社会党だって議会で多数を握ったら、即、議会をなくして一党独裁にするつもりだったはずである(向坂逸郎氏など)。向坂氏などはマルクス命の人で暴力革命賛美で、民主社会主義路線の改良主義などは真の社会主義への最大の敵と考えていたはずである。最初から経済問題は権力奪取のための手段で、目的は一党独裁、つまり「政治」であったはずである。与那覇氏がグローバルであるという西欧の社会民主主義体制ができるにあたっては、それなりの歴史的背景が必要だったわけで、ソヴィエトの一党独裁全体主義の匂いを嗅ぎ取ってそれに断固反対する筋金の入った自由主義者が多くいたからこそ成立しえたものであったはずである。
 江戸的ムラ社会は明らかに全体主義に親和するのであって、その視点からみれば岸信介向坂逸郎は同じ側の人間である。我欲を捨てて全体のために尽くす人間が好きなのであって、国なんかどうでもよくて俺のことが一番大事というような人間は大嫌いである。もちろん我欲が大嫌いな石原慎太郎さんなどもこの路線である。戦後レジームの転換などといっている安倍晋三さんもまた同様。
 自由民主党は中国的理念をすてて実利の側を担当してきたのかもしれないが、それは多数をとって憲法改正するための手段だったのであって、それ自体を目的としてきたのではないだろうと思う。ささやかな個人の楽しみをまもっていくことがなによりも大事というような自由主義者は右にも左にもあまりいないように思う。とすれば、日本の政治はいまだに「江戸時代」なのである。
 わたくしは日本国憲法というのは鎖国宣言なのだと思っている。これは日本は世界標準とは別の路線でいきますということで、与那覇氏のいうグローバルな政治理念の表明では決してないと思う。世界もそうしなさいではなく、自分のところはそうします、だから抛っておいてください、なのだと思う。自分はもう喧嘩はしません。だから喧嘩のための道具も持ちません。でも、世界にはまだまだ喧嘩の火種はあり、争いも尽きないでしょう。でも、その解決は勝手にやってください。話し合いでいければそれが一番いいでしょうが、そうもいかないこともあるでしょう。そうなった時におきる喧嘩を否定するわけではありません。でもわたしはそのどちらにも味方はしません。助っ人にもなりません。わたしたちはもう決してそとに喧嘩を売りにいくことはしないですから、その心持をくんで、助っ人にもならないことを許してください、というようなものだと思う。だから片山連立内閣が続いて、社会民主党のようなものだできていたとしても、それは西欧のグローバルとはまったく異なった非グローバルで江戸的なものになっていただろうと思う。
 1950年代は三井三池闘争(これを指導したのが向坂逸郎氏だったのではないだろうか?)、反安保など、まだまだ革新勢力にも目があるように思われていた。岸信介首相が60年安保闘争で退陣したあとをついだ池田隼人首相がうちだした高度成長政策は地方のムラの人々を都会のムラへと引越しさせることに成功し、都市化と経済成長によって「新しい江戸時代」への満足度を高めた。
 わたくしは1960年に中学1年なので、このあたりからはリアルタイムの記憶がある。60年安保のときに確かラジオだったかと思うが、アナウンサーが「今、わたしは殴られています。警官に殴られています」などと現場中継で絶叫していたのも覚えているし、池田首相が低姿勢などといい(要するに前岸信介首相は高姿勢だった反省しますというお詫び)、所得倍増計画(10年で所得を倍にします!)といい、「わたしは嘘は申しません」などと言っていたのも覚えている。中卒・高卒で東京に出てくる集団就職というのがあり、それらは「金の卵」などといわれていた。事実、それから10年は高度成長期ということになり所得は倍増した。
 岸首相までは「政治」であったが、池田首相からは「経済」になった。政治が「理念」から「カネ」の問題へと移っていった。これは与那覇氏によれば理念の「中国」から無思想の「江戸」へということになるのだろうが、通常のいい方では「脱イデオロギー」ということになるのではないかと思う。とすれば与那覇氏の「中国」とはイデオロギーということになってしまう。
 与那覇氏によれば、もともと「江戸」の基盤は地方のムラだったのだから、自民党の政策はタコが自分の脚を食ってなんとか生き延びたようなものである。これはまずいとの反省のもとに出てきたのが田中角栄の「日本改造計画」で、都会に出稼ぎに行かなくても、それぞれが住んでいる場で食べていけるようにしようとするものであった(過疎地の原発漬けもその延長)。保守政治家が補助金で地元を支配する構造である。田中政治は「封建制」の復活で、「長い江戸時代」の象徴である。
 田中角栄がでてきたときのこともよく覚えているが、「今太閤」などといわれて各マスコミのヨイショの嵐であった。わたくしは例によって臍まがりで、成りあがりが嫌いで唐様で書く三代目が好きなので、いやな世の中だなあ、と思っていた。なにしろ品がないひとなのである。背広に下駄ばきで扇子をぱたぱたとやって早口にしゃべっていた。でもそういうのも気取らない人柄とかいってまた賞賛されたのである。田中御殿といわれる大きな家に住んで、池にはたくさんの鯉が泳いでいた。
 中央政治はそうであっても、地方政治は「革新自治体」の時代で、1967年、美濃部亮吉都知事になった。社会党共産党の共同推薦であった。この美濃部さんは唐様を覚えかけの二代目なのだけれども、その声と顔がいやでわたくしは大嫌いであった。どうもあちこち嫌いで困ったものである。このころ共産党はこのやりかたでいずれ中央政権もねらえると信じていたのではないかと思う。数の上では社会党の方が多数であっても、烏合の衆でみなばらばらで内部抗争ばかりしている。それに対して自分の方は一枚板。権力さえ握れば、内部で多数派になるのはいとも簡単、理論闘争しても負けはしない、そう思っていたと思う。
 さてその美濃部都政の目玉は「老人医療無料化」。これまた与那覇氏にいわせれば「江戸」の政策。美濃部さんというひと経済学者というふれこみだったと思うが、経済学については何もわからなかったひとだったのではないかと思う。経済学の一番の基礎は「フリー・ランチはない」というものなのだそうだけれども、「フリー・ランチがある」と思っていたのではないかと思う。国とかは打出の小槌を持っていて、いくらでもお金はでてくるから、それをばらまけばいいのだ、と。経済学者といっても、マルクス経済学者で、経済学のほうはマルクスに従属していて、そのマルクス主義というのは「よき意思をもったよき人が政権を握って、虐げられたひとに施すこと」というようなものではなかったのだろうか?
 それに中央の政治も追随して、1973年の「福祉元年」に70歳以上の医療費がタダとなった。これまた「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」という「検見取りお断り」以来の百姓一揆の伝統を引いている。わたくしがきいた話では、この福祉元年、すぐに破綻が来て直ちに修正するはずだったのが、時は高度成長からバブルにむかう時代で、もたないはずの制度がしばらくもってしまった。それでひっこみがつかなくなったのだそうである。
 与那覇氏によれば、それもそうなのだが、この制度がどうにかしばらく続いたのは、終身雇用で正社員のクビは切らず、奥さんは生活費から年金まで旦那さんからわけてもらうという仕組みにっより、ムラ(会社)とイエが国の負担を肩代わりしたからでもあるという。「家職制と封建制ふたたび」で、男はまともな職についていれば、女はまともな家庭に入っていれば、国のご厄介にならずとも死ぬまで食べていけるだろう、ということで、それを裏返せば、そうではない奴は自己責任で、国の知ったことではないということになる。江戸時代が「イエ」の跡取りでない次男・三男に冷たかったように、新しい江戸も正社員になれなかった男や離婚した女には冷たかった。
 その福祉元年の1973年、世界では大きな出来事が二つあった。一つがオイル・ショック、もう一つが南米チリでおきた軍事クーデター。前者はイスラム世界がヨーロッパから政治の主導権を奪い返した事件であるし、後者はクーデターで政権をとったピノチェト政権が「国民に政治的自由は一切与えないが、経済活動は自由にまかせる」という、宋朝以来の中国のような画期的?な政策を採用した。
 1979年のサッチャー政権の誕生、2年後のレーガン政権が一つの画期となったことはよくいわれるが、考えてみれば1978年の訒小平の改革・開放政策はそれに先駆していたのである。新自由主義英米中の3国ではじまった。ここで中国が日本を追い越した。1979年は中国やイスラムが、先駆していた歴史上の地位をあらためて回復しはじめた年なのである。(しかし、イスラムはその思想・理念で復活したのではなく、石油によって復活したのではないかと、わたくしは思う。)
 この部分、チリの軍事革命などにはまったく関心がなかったわたくしには非常に驚かされる指摘であったのだが、その先与那覇氏は変なことを言い出す。IT技術のモジュール化という話である。これがイスラム的だというのである。なぜなら、イスラム世界ではコーランはどこのくにでもアラビア語という共通フォーマットで読まれたから、と。そしてこれは中国でも同じで北京語と広東語というまったく発音の異なる地域を漢字という共通フォーマットで統一していたのだ、と。これに対して「やまとことば」の情感を共有していないと日本人だという気がしてこないわれわれは、なんと江戸時代根性を引きずっているのだろうか!と与那覇氏は慨嘆する。
 しかし、それなら西欧だってラテン語という共通語があったではないかという気がするのだが、それの代わりに各国語訳の聖書を作っていった点が西欧の駄目なところとされている。
 わたくしなど日本語が通じないところでは絶対に生きていけないだろうと思うし、西欧の知識人が出生にの地を離れて異国に亡命して平気で生きていける強さに驚嘆するのだが、それでもエスペラント語が普及しないことには深い理由があるだろうと思う。
 さて、ここからは岡田英弘氏の「皇帝たちの中国」からの受け売りである。氏によれば、始皇帝が中国を統一する以前から漢字は中国にあったが、地方ごとに話し言葉はばらばらで、中国語というようなものはなかった。同じ漢字に何通りも読み方があり、地方ごとに字体も用法もばらばらだった。そこで始皇帝は、漢字の読み方を統一し、字体と字音を統一した。漢字一つに対して読み方は一つ(一音節)。どんな意味で用いているときも読み方は同じ。名詞の場合でも動詞の場合でも形容詞の場合でも変わらない。そうすると品詞の区別がなくなる。能動態も受動態もない。つまり文法がない。そのため漢字は意味の微妙なニュアンスを表すことができない。これは共通の話し言葉のない人同士のコミュニケーションには有用である。始皇帝焚書というのは文字の用法を統一するためにテキストを限定することが目的であった。始皇帝のあと、漢字の用法を決めるものは古典となった。漢字の使い方の基準はそこに依るしかなかったのである。細かいニュアンスを表現できないのだから、「やまとことば」の情感など求めるべくもない。「宮崎市定は、内藤湖南がいう「宋朝から中国は近世」のさらに300年ほど前、イスラーム勃興期の西アジアで世界が最初に近世に入ったとする、独創的な歴史綸で知られます。えっ、ヨーロッパはって? もちろん、そんなもん一番ビリです。」 これは氏の原文からの引用であるが、中国語に訳したらどうなるだろう? 最後の「えっ、ヨーロッパはって? もちろん、そんなもん一番ビリです。」は訳せるだろうか? 「えっ」とか「そんなもん」とか、どうなるのだろうか? この与那覇氏の本も「やまとことば」の微妙なニュアンスに依存して書かれているのである。江戸頭の人間を前提に書いているのである。
 それはさておき、与那覇氏によれば、第一次世界大戦が世界を「江戸時代化」(ブロック化)させたのに対して、第4次中東戦争以降の世界は「中国化」(グローバル化)しはじめた(「ケインズの世紀」から「ハイエクの世紀」に)。その変化に日本は気がつかずにうかうかと過ごしてしまった。これが日本沈没の原因である。オイル・ショックに対して、世界はケインズ政策の見直しで対応したのに、日本は「会社」でうまく(非常にうまく)乗り切ってしまった。
 なぜ、それが可能であったか? 与那覇氏によれば、終身雇用では不況になっても首を切れないので、必要最小限にしかひとを雇っていなかったからである。景気が悪くなってもあまり失業者がでなかったから社会保障も破綻せず、福祉社会を持続していけた。
 「会社」でうまく乗り切ったというはその通りであると思うのだが(要するに石油のコスト、エネルギーが非常に高くつくようになったので、エネルギー効率の向上を徹底的に追求してそれに成功した。それを可能にしたのは、自分のいる会社が潰れては困るという、会社への帰属意識、忠誠心による労働奉仕であったのは間違いないだろう)、しかしある時期、日本の企業はひとを採用しまくっていたので、就職内定者の囲い込み(どこかに連れ出して缶詰にして、他の会社と接触できないようにする)などに奔走していた。自分の会社が無限に成長するような思いこみをもっていて、ひとはいくらでも必要だから、とれるだけ採れ!という方向だったのだと思う。
 高度成長からバブルの時期に、日本の経営者は慢心していて、世界の経営者は日本に勉強に来い。終身雇用による帰属意識がいかに会社の成長に貢献するか教えてやろうなどといっていた。その当時、地価の高騰が大問題となっていたが、日本が、東京が世界の経済センターになるのだから、世界の企業がみんな東京に集まってくる。有限な土地の価格が上昇するのは当然であるなどと、経済評論家もしたり顔でいっていた。
 サラリーマンが一生働いても自分の家も持てないような状況になっていたわけで、バブルがはじけた時に多くのひとはほっとしたのではないかと思う。ちょっと一休みといった感じで、数年、事態が沈静すれば、また再度、経済成長などとみな思っていたのだと思う。「失われた10年」とか「失われた20年」とかにこれからなるだろうとは誰も思っていなかった。経済さえ復活すれば福祉もどうにかなるわけで、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というのは、何もハーバードの大先生ではなくても日本のほぼ全員がそう思っていたのだと思う。人文科学の分野でも、浅田彰氏の「逃走論」などというのも、日本はもう会社に従属しなくても食える時代になった。そんな束縛から早く逃げ出して思うままに生きろ、というアジだったと思う。
 いまわれわれはその結果を知っている。知っているから、何とあの時代は愚かなことを考えていたのだろうと思えるけれど、それは後知恵であって、渦中にいるときは明日のことは見えない。与那覇氏の議論を見ていると、結果を知った上での講釈のように思えてしまう部分がある。
 サッチャーがでてきたときのイギリスは労働者がまったく働かなくなっていてどうしようもない状態だったわけだから、ああいう方向がでてくるのも当然と思えたし、日本がアメリカに自動車輸出の大攻勢をかけて、米国の自動車メーカーが窮地に陥った時も、アメリカでは月曜にできた車は買うななどといわれている(スパナがボンネットのなかにそのまま残っている、とか)、日本の車は品質がいいから売れて当然なのに、なぜ、それをアメリカ人は自分が働かないことを棚にあげて、日本を非難するのだ!と多くの日本人が思っていた。日本はヒトを喜んで働かせるシステムをつくりあげたのだが、欧米は労働を嫌い、いやいや働いている、その差で日本は世界を凌駕したのだと思いこんでいた。
 その当時のわれわれからは、英国も米国も怠け者ばかりのどうしようもない国にみえていて、それらの国が傾くのも当然だし、それに危機感を覚えて国の指導者が荒治療に走るのも不思議はないと思っていた。しかし、自国はうまくいっていると思っていたので、それを変えなければならないなどとは思わなかったのである。たしかに「勤勉革命」で、がむしゃらに働いて乗り切ったのであろうが、とにかく大した文句もいわずに働かせるノウハウを一時にせよ日本は作り上げることに成功していたわけである。
 バブル期に「働かずに稼ぐ」財テクに走ったことは「中国化」ともいえる。しかし、自社株の発行ではなく銀行からの借り入れに頼っていたので、投機しようにも株がない。それで土地に走った。それが敗因と与那覇氏はいう。確かに当時「地上げ」というようなことが横行していた。わたくしの弟は銀行員であったが、地価が下がるわけがないといっていた(妹もつれ合いも銀行員だが、バブルの最高値で家を買ってしまった。これ以上あがったらもう買えなくなると思ったらしい)。銀行は土地を担保に貸出をしている。もしも地価が下がったら銀行はみな潰れてしまう(事実、妹のつれ合いが勤めていた銀行は無くなってしまった)。銀行は大蔵省に守られている。大蔵省が銀行を潰すようなことをするわけはない(当時、護送船団方式などといわれていた)。よって、地価は下がらない。そういう議論であった。農民は領主に守られ、銀行は大蔵省に守られる。大蔵省は不滅である。まさに江戸時代である。
 当時さまざまな会社がやっていた財テクやマネー・ゲームでは土地だけでなく、株も対象になったはずである。当時、確か毎日新聞だったかと思うが、投資の専門家に一定の資金を半年間でどれだけ株で増やせるかと競わせるゲーム?をやっていた。最初はみんな凄い成果で、専門家というのは凄いものだなと思ったものだが、そのうち、儲けるひと損をするひと半々になり、やがて誰がやっても赤字になるようになった。専門家の能力ではなく時代だったのである。
 要するに、ある時期、日本は本当に世界のトップに立ち、その地位はほぼ永久に続くと思ったひとがたくさんいたのである。リーマン・ショックの前のアメリカもそうだったのではないだろうか? アメリカは永遠の成長局面に入ったなどといっているひとがいた。後から考えればありえない話だが、家を買うと、それが値上がりし、中古で売ってもおつりがきてさらに大きな家に住めるということを、それがある程度続くと当然と思って、ほとんどのひとが疑問に思わなくなっていたらしい。はるか昔のオランダではチューリップの球根がとんでもない値段になったことがあるらしい。バブルというのははじけた後ではじめてバブルとわかるので、渦中にいるひとは、そうは思わないらしい。
 与那覇氏は「部分部分を見ればそれぞれに手堅く暮らしているはずだけど、全体としては非効率でおかしな結果になっちゃう封建制根性」というのだけれど、これは「封建制」と関係があるのだろうか? 人間は一向に学習しない愚かな存在というだけのことなのではないだろうか? バブルは忘れたころにまた繰り返すのだそうである。
 この本は、大きな全体の見通し、骨太の歴史解釈という観点では非常に面白く、教えられるところが多いのだが、個々の事例について検討する部分になると議論が恣意的で我田引水的になる部分が目立つように思う。このかた1979年生まれで、ここで描かれた昭和というものを肌で実感することがなかった世代のひとなのだなあということを感じる。
 本はもうあと十分の一ほど残っている。そこで平成日本と日本の未来が議論される。
 

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