今日の朝日新聞朝刊の「読書」欄

 
 福岡伸一氏が「ニュースの本棚」で「生命の「なぜ」」と題して、「なぜ蝶はかくもみごとに変身するのか」という問いから、実は生物学は「なぜ」に答えることができない。答えうるのは「いかに」という問いのみ、と書いて、いや、「なぜ」に答える方法論が唯一ある、進化論、と論を進める。生物のなぜに対する答えはひとつ。それが生存に有利だったから。あらゆることが適応の物語で説明できる、と。そして、今回はあえて進化論の「正史」に対して抵抗を試みた語り部に触れてみよう、として、例によってS・グールドをとりあげる。もちろん、その敵役としての「正統派」のドーキンスもとりあげる。生物学の分野ではドーキンス派の圧勝に見えるが、それは適応論が論文を量産する上で有効な仮説だったからとする本を紹介して、判官びいきの私はうれしく読んだ、と書く。
 しかし、問題は判官びいきといったところにはないはずである。「なぜ蝶はかくもみごとに変身するのか」という「なぜ」にもう一つの答えが少なくとも西欧ではある。「神様がそのように作ったから」というものである。この答えは生物学からのものではない。しかし、「なぜ蝶はかくもみごとに変身するのか」という「なぜ」に答えるのがどうして生物学でなければいけないのかという問いをあらかじめ回避したところでなければ福岡氏の論は成立しない。そしてそのことは福岡氏にとって、あるいは日本のほとんどの生物学者にとって論じるまでもない自明のものなのである。
 しかし、西欧では(特にアメリカでは)そうではない。だからドーキンスが「神は妄想である」などという本を書き、グールドが「神と科学は共存できるか」(原題は「Rocks of Ages : Sciense and Religion in the fullness of Life 」)を書く。なんで生物学者がこういう本を書かねばならないのか? アメリカという国が問題なのである。デネットは「解明される宗教 ― 進化論的アプローチ」(原題は Breaking the Spell:Religion as a Natural Phenomenon)の「はじめに」で、その本が「何よりもアメリカ人の読者に向けられている」ことを述べ、そして「アメリカ人ではない私の読者は、むしろ、この本からアメリカが置かれている状況について、何かを学んでほしいと思う」という。「アメリカは、宗教に対する態度という点で、世界の主要な国々とは著しく異なっている」のだから。
 そういう点にまったく言及しないで、ドーキンス対グールドの対立をとりあげるのは意味がないと思う。日本でなら「なぜ蝶はかくもみごとに変身するのか?」、進化論だけでそれを説明できるっていうけど本当かなあ?でおしまいである。いきなり神様がでてきたりはしない。
 だから日本の生物学者社会生物学論争を我がことと感じたひとはほとんどいなかったのではないかと思う。「アメリカというのは難儀な国ですなあ」であり「日本に生まれてよかった」でお終いであろう。
 もう一人、生物学の分野の孤高のひととして、福岡氏はユクスキュルの名をあげる。ある一本の美事なブナの木を見て、「これは一本のブナではない。僕のブナだ。僕がこの僕の感覚と知覚によって、この美事なブナのそのあらゆる細部を今構成したのだ」とユクスキュルは感じる。これはバークリーの観念論に通じる、あるいはカントの「物自体」にも通じる論のように思えるのだが、要するに「知覚されていないときにモノは存在するか?」 もしも宇宙に生命が生まれ、それが外界を認識するようになることがなかったあらば、それでも宇宙は存在するのか? 事物は見られることによってはじめて存在するようになるのではないか? という方向の議論である。これがおそらく「人間原理」といった奇妙な論にもつながってくる。わたくしはユクスキュルは「生物から見た世界」しか読んでいないが読んでいないが、そこで示されているダニの世界、コウモリの世界がわれわれの考える世界とはまったく異なったものであることは確かである。人間は強く視覚依存的であるが、紫外線も赤外線も認識できず、超音波を感じる(聴く?)こともできない。
 本日の「読書」欄には、「善と悪の経済学」という本も紹介されている。そこで評者の諸富徹氏は「経済学は自然科学と人文科学のどちらに近いのか」という問いをたて、この「善と悪・・」という本が「経済学がどんなに自然科学に近づこうとしても、それは完全に自然科学にはなれないし、またそうなるべきではない」ということを主張しているという。著者は「科学的方法論」に則れば「真理」に到達できるという前提そのものが誤りであり、その前提を経済学は捨てねばならないといっているのだという。そして例によって(という気がするのだが)アダム・スミスが「国富論」の著者であったのと同時に「道徳情操論」であったことが指摘され、スミスにおいては経済学と倫理学が統合されているとされる。そして諸富氏はいう。経済学に求められているのは、「価値中立的な客観科学」を装うことではなく、「善き社会」「よい暮らし」とは何かの価値判断を提供できる学問であることであるとする(あるいは「善と悪・・」の著者の主張であるとする)。
 わたくしは経済学が科学たりえないのは、世界において一回限りしか起きなかったことは科学の対象たりえないからだと思っている。だから経済学は過去でおきたことの説明はできるが、未来がどうなるかを予測することができない。とすれば、経済学がわれわれが将来めざすべき「善き社会」や「よい暮らし」の像を提示できないことは原理的に明かであると思う。世界において一回限りしか起きなかったことは科学の対象たりえないのは進化論の場合も同様で、だから進化論もまたわれわれの未来を予測できない。
 ここでの諸富氏の議論はほとんど福岡氏の論と平行していると思う。「科学」がどれだけわれわれの生き方の指針となりうるのか、あるいは端的にいって、われわれにとって本当に大事なこと肝要なことについては科学は指一本触れることはできない(あるいは触れてほしくない)という見方が、そこには伏在しているように思う。
 西洋においては、科学は信仰の基盤を掘り崩すことのみをしてきたのではないかという見方が常に存在していて、それが科学の外にいる人間ばかりでなく、科学の中にいる人間からも発せされるというのが特異なのだと思う。だからこそグールドが実に奇妙な宗教擁護論のようなものを書く。経済学の分野にいるひとも「どうやって金持ちになるのか」よりも「どうやったら倫理的道徳的人間になれるか」の方が高尚な学問であるという引け目のようなものを持っているのではないだろうか?
 「読書」欄には、荒川洋治氏の「文学の空気のあるところ」もとりあげられている。荒川氏が「文学は実学である」と繰り返し主張していることはよく知られるが、これは科学こそ実学であって、われわれがしている文学などは虚学にすぎませんと謙遜?する文学者たちの自信のなさ(と、それと裏腹なごく少数には理解されるはずであるという傲慢と選民意識)を批判しているわけである。
 科学は今世界を覆っている。科学技術の進歩と経済が豊かになったこと、これによってわれわれの生活は一変してしまった。しかしわれわれにとって本当に大切であるはずの「こころ」の領域にはそれは係わらない(係われない)のではないかという気持ちもまた強い。それによる科学批判もつねに繰り返される。
 たまたま今日の朝日新聞の「読書」欄にはそれとかかわる話が多かったように感じたので少し書いてみた。
 われわれはもはや道徳的であることよりも、監視カメラが不法な行為を見張ってくれているという安心感に重きをおくようになってきているのではないだろうか? 「1984」が書かれた頃には考えられなかったことである。
 なお、「読書」欄にはウォーの「スクープ」の翻訳が出たことが紹介されている。どうもわたくしはウォーは吉田健一訳でないと駄目なのだが(富山太佳夫氏訳の「大転落」は面白かった)、これから吉田さんが訳してくれることはないのだから、読んでみようかなと思う。紹介されているあらすじでは「黒いいたずら」の系列の小説のようである。ウォーなどは微塵も科学に劣等感を持ったりはしなかった人であろう。

神は妄想である―宗教との決別

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神と科学は共存できるか?

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解明される宗教 進化論的アプローチ

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