日高敏隆「ぼくの生物学講義」(昭和堂 2010年10月) 「世界を、こんなふうに見てごらん」(集英社 2010年1月)

 
 ともに2009年11月になくなった日高敏隆氏の本である。内容に共通する部分も多いので、「生物学講義」を最初に通読し、そこに適宜「世界を、・・」の感想も追加するかたちで感想を書いていきいたい。
 「講義」は精華大学というところでの講義録ということで、全部で13の講義が収載されている。最初は「動物はみんなヘン、人間はいちばんヘン」という題。人間はヘンな動物だけれども、ほかの動物だってヘン。たとえば、ゾウは息を吸うための鼻があんなに長くなって、それで草を食べたり、水を吸い込んでシャワーを浴びたりする。鼻があんなに大きいとほかも大きくならざるをえなくなって、それであんなに図体が大きくねってしまった。ヘン。人間は哺乳類でケモノ。ケモノというのは「毛の生えたもの」のこと。哺乳類の定義:四つ足で、体に毛が生えていて、温血動物で、子どもを生んで、それを乳で育てるもの。でも人間は二本足である。ヘン。人間はほとんど毛が生えていない。しかしそれでもケモノ。ヘン。しかし髪の毛はあり、それをいくらでも伸ばすことができる。クマもサルも一定の長さ以上に毛を伸ばすことはできない。人間はヘンな動物。
 人間の特徴は二本足で歩くこと。直立猿人。ピテカントロプス・エレクトゥス。しかし四つ足だった動物が二本足で歩行するようになるというのは大変なこと。大腿骨がまっすぐにならなければならない。目の位置を変えなくてはならない。そうすると頭骨と背骨の位置を修正しなくてはならない。直立すると内蔵が下垂する。それを支えるために背骨がS字型になる必要がある。足の裏に土踏まずができなくてはいけない。
 そうまで苦労して直立する必要があるのか? 直立するとエコノミー症候群もおきる。ヘルニアもおきる。脳に血をおくるために血圧も高くなければならない。苦労ばかりである。直立する利点は何なのか? 遠くがみえること? 脳の発達に都合がいい? 人と人が向き合えるようになったこと? 本当はよくわからない。でもとにかく人間はこういう動物になってしまった。もうもとの四つ足には戻れない。
 次に「体毛の不思議」。実は人間にもたくさん毛が生えている。しかし毛が短く柔らかく、見た目ではまるで生えていないようにみえる。なぜそうなったのか? その変化は今から20〜30万年前の現世人類の出現のあたりで生じたらしいのだが。説明1)ノミやシラミへの対策。しかしゴリラなどにはシラミやノミはほとんどいないから、この説明はどうも嘘らしい。水中生活説というのもある。クジラやイルカのように昔は水中で暮らしていたのでは? しかしそんなことを示す化石はでていない。
 20〜30万年前にアフリカの森林が気候の変化で減りはじめたらしい。それでやむなくヒトは危険な草原にでて、狩りをはじめた。その活発な活動のためには暑い毛が邪魔になった、そのようにデズモンド・モリスは「裸のサル」で説明している。これには反論もあって、本当の理由はよくわかっていない。
 次が「器官としてのおっぱい?」。おっぱいが性的信号になっている動物は人間以外にはない。ここでもモリスのお尻にかわる信号としての乳房という説が紹介されている。ただ「世界を、・・」ではモリスは学者ではなく、動物学で食べている随筆家であるということが強調されている。だから学問という制約にしばられず思ったことを好きなように書けているのだ、と。
 第4講は「言語なくして人間はありえない?」。チョムスキーの話。チョムスキーは人間の言語は、一個しかない主体を主語と述語にわけてしまうことに特徴があると考えた。しかも主語と述語を生成する能力は人間という動物に生得的にそなわっていると考えた。
 第5講は「ウグイスは「カー」と鳴くか?」では、今度はソシュール言語学などが議論される。かつてのアメリカの言語学では言語の習得は完全に学習によるとされていた。それならばウグイスは「ホーホケキョ」となくのは遺伝なのか学習か? ほかの音がきこえない環境でウグイスの雛を育てると、大人になってもホーホケキョとは鳴けない。でもテープでホーホケキョときかせれば大丈夫。それではテープでカラスの声をきかせたら? だめ。雛はカラスの声のテープにまったく関心をしめさない。それでわかったこと。ウグイスの雛は学習すべきお手本を遺伝的に知っているということ。動物行動学の大きな成果は学習もまた遺伝なのだということを明らかにしたことにある。あとはソシュール言語学の簡単な紹介。
 次が「遺伝子はエゴイスト?」で、ドーキンス利己的な遺伝子の話。サルやライオンの子殺しの話から、生き物は自分の属する種を繁栄させようとしているのではなく、自分の遺伝子を残そうとしているだけでであるという例の論が紹介される。
 第7講は「社会とは何か?」。社会も遺伝子存続のための装置なのではないか? 今西進化論は通用しないのだという話。
 第8講「種族はなぜ保たれるのか?」 ローレンツの「ソロモンの指輪」などはとてもおもしろいが、種を守るために生き物が生きているとしている点が現在では間違いといわざるをえないという。メオナード=スミスの「ゲームの理論」を用いた説明が紹介される。
 次が「「結婚」とは何か?」。日高氏によれば結婚というのは財産をどうするかということから生じる。とすれば、人間以外の動物は財産をもたないのだから、結婚というようなことの必要性が生じない。
 第10講「人間は集団好き?」。人間という弱い動物が生き残ってこられたのは集団を形成できたからではないかという話。とすれば、現在の核家族化は問題があるのではないか? 集団として小さすぎるのではないか? 人間は本来もっと大きな集団で生きる動物なのではないか?
 第11講「なぜオスとメスがいるのか?」 ここでは有性生殖の利点は病気への抵抗として説明されている。ヴェーレンの「赤の女王」仮説から、ハミルトンの説へ。
 第12講「イマジネーションから論理が生まれる」。データの解釈から理屈が生まれるのはなく、最初に思いつきがあり、そこから論理がまず生まれ、そのあとに実験などのデータがくるのではないかという話。自分がすでに知っていることがたまたま二つくっつくと、新しい思いつきになるのではないか?
 第13講「イリュージョンで世界を見る」。ライルの「機械の中の幽霊」から、幽霊は想像力の産物ではなく、想像力の欠如の産物であるということがいわれる。イリュージョンというのは思いこみであるとされる。思いこみがないとものを見ることができないのではないかと。

 「世界を、こんなふうに見てごらん」の最初のほうに、東大の理学部に入ったときに、「なぜ」と問うてはいけないといわれたということが書いてある。How はいいが Why はいけない、と。「なぜ」と問うとカミサマがでてきてしまうからだといわれたという。
 物理学では物が落ちるのは万有引力のためであると説明するが、なぜ万有引力があるかという問いたてない。科学とは「なぜ」を問わないものだとされていた。しかし、日高氏は生物学の場合「なぜ」を問わないと学問にならないと思ったという。
 私見によれば、生物学でカミサマを持ち出さないで「なぜ」に答えることを可能にする魔法の道具が進化論なのだと思う。カミサマの代わりに長い長い時間をかけての試行錯誤がそれを説明してくれる。しかしカミサマがそう作ったというかわりに進化の結果そうなったというのは、どちらも反論をゆるさない強弁に陥る危険がある点ではかわりがないのかもしれない。
 日高氏も「世界を、・・」のなかで「世の中の見方は、あまりに進化論の方向に振れすぎたのではないだろうか」といっている。欧米の学者はうっかりとそんなことを言うとカミサマが復活してくるのではないかとおそれるのかもしれない。だが東洋人である日高氏はそういう懸念は持たないようである。
 日高氏がそういうのはわかるのだが、進化論以外に生物学の「なぜ」に答えてくれるものがあるのだろうか、それがよくわからない。むしろ進化による説明はまだまだ揺籃期であって、もっともっといろいろな方向に説明の触手を延ばすべきなのではないかと、個人的には思っている。人文科学の分野など進化理論が有効でありながら手つかずでいる分野はまだまだ多いのではないだろうか。
 「世界を、・・」で氏は、人間と人間以外の動物の違いは死と美を知っているか否かにあるのだ、といっている。しかし人間は真実を追求する存在なのだというドイツ哲学からの流れには否定的で、人間は真理ではなくイリュージョンを追求する存在なのだという。まぼろしまぼろしでないと思い込んでしまったものがイリュージョンなのだと。
 人間は論理を組み立てる能力が相当にあるがゆえに、筋が通ると、真理だと思えてしまう。だから、進化論についても、筋が通っているようにみえるから真理であるように思えてしまう。しかし日高氏は進化論による説明も、真理ではなく一つのイリュージョンであるとするべきと考えているようである。
 バージェス頁岩動物群などから推定されるカンブリア爆発など、自然淘汰とは関係ない進化のありかたも否定すべきではないと、氏はしているようである。またキリキリとつきつめていくのはどこかおかしい、ともいう。そういう視点は、ドーキンスよりもS・J・グールドに近いような気がする。
 二つの本のうち、講義という学問的体裁をとった「ぼくの生物学講義」では科学が勝っていて、「利己的な遺伝子」という見方が現在生物学の鍵概念であことが強調されている。一方、もう少し本音に近いところで書かかれているように思える(やや人文学的な?)「世界を、・・」ではグールド的なものへの共感が表にでてきている。「講義」では二足歩行という狭義の生物学から人間が論じられるが、「世界を、」では「死」とか「美」とかいうことが前面にでてくる。「死」ということはまだしも生物学の範疇にかろうじて入るかもしれないが、それでも人間以外の動物は死を知らないわけである。「美」ということになれば、それを人間以外の動物で議論するのは相当につらい。
 わたくしの印象では、日高氏がイリュージョンと呼ぶものはポパーの「仮説」に相当するように思える。そしてイマジネーションの話も、ポパーの、帰納などというものはなく、われわれは演繹的に世界をみるという考えと同じであるように感じられる。学問は真理を追求するものであっても、真理にいたることは決してなく、われわれが手にしているものは常に仮説にとどまるとするポパーの見方は、日高氏のいうところとかなり近いようにも思う。
 だが、日高氏は真実とか真理とかいう言葉は嫌いらしい。ポパーはたとえ仮説であっても仮説同士が競合し、よりよい仮説が生き残っていくという淘汰論的な見方をするが、日高氏はもっと各自がてんでんばらばらに勝手なことを考えていくような学問のイメージを持っているようである。しかし、それでもローレンツの種淘汰の考えは誤っているとし、今西進化論はほどんど否定されているとするのであるから、やはり「真理」という方向を否定しているわけではない。「この世はめちゃくちゃなカオスではなく、何か筋道があるらしい。その筋道をさぐるためには科学的にものを見るしかない、しかしそこで得られるのはささやかな道筋でしかない」ということで、何かを研究して成果があっても、それで真理が得られたなどという大袈裟なことを思うのではなく、暗闇の中にかすかに明かりがみえた程度に謙虚に受け取るのがいいとしているようである。
 ハラルト・シュテュンプケの「鼻行類」という氏の翻訳した奇書のことも言及されている。絶滅した島にかっていたとされる鼻で歩く奇妙な生き物のことを書いた本である。象が鼻で水浴びをするのだから、鼻で歩く生き物がどこかで進化していもいけないことはないわけで、著者はまじめな顔をしてそれらの鼻で歩く生き物を記述している。理屈が通ると信じてしまうひともいるわけで、この本を真に受けた学生や大学教授も多くいたらしい。
 この「鼻行類」は確か荒俣宏氏の何かの本で知って、面白がって読んだ記憶がある。わたくしは非常に高級な遊びの本と思って読んだのだが、日高氏は人間は筋道がつくと信じ込んでしまうこっけいな生きものだということを笑いたいと思って翻訳したのだという。人間は論理が通れば正しいと考えてしまうほどバカな存在であるということを自覚していることが大事であり、そのためには複数の視点をもつこと、一つのことを違った面からも見られる能力を持つことが大事なのであるという。
 科学もひとつのものの見方にすぎないということを教えてくれる本に若いときに出あえたのがよかったと、氏はいう。ここらへんがクーンの本などについていっているのかどうかはよくわからないが、氏の話はあるところはポパーに傾き、またある時にはクーンにむかうという印象がある。科学に近づくとポパーに近づき、人文学に近づくとクーンのほうにいくのかもしれない。
 ヨーロッパの知識層はすごい。生きる自信を宗教に頼らない層がちゃんとある、という。そういうひとは悩みながら生きていて、ものごとを相対化してみるツールの一つとして科学を使っている。科学を絶対と信じ、それを唯一のものの見方とする姿勢ではないのだ、という。このあたりドーキンスさんなどのことを揶揄しているのであろうか? しかし生きる自信を宗教に頼らないというのは、ヒュームなど以来のヨーロッパ啓蒙の人びとの自負なのではないだろうか? そしてそういう人々が増えていくことが文明化なのではないだろうか?
 ひとつのことにしがみついて精神の基盤とするのは人類の弱さなのである、という。氏は大事なのは科学ではなく知性なのだという。しばしば科学=知性とされ、知性的なひとは科学的にかんがえるというような世間が見ること氏は不満であるらしい。氏には人間はまだようやく自分の頭で考えはじめたという段階とみえるらしい。
 この二冊の本を読んで感じるのは、氏には現代生物学の啓蒙派という側面と、すべてを生物学(あるいは科学)で説明してしまおうとする陣営に対する反対派の側面の二つをもっているということである。前者の立場に立てば現代生物学の主流はドーキンスなのであって、ローレンツも今西京都学派も過去の人ということになる。後者の立場に立てば、ドーキンスのような進化論原理主義のような行き方はどうにも偏狭でこちこちのものに見え、困るということになるのであろう。この二つの立場をいったりきたりするということが複数の視点を持つということなのだろうと思うが、それは学問的に不徹底な鵺的な立場ということになるのかもしれない。わたくしもまた自分をそのようないたって鵺的な人間であると感じているので、ひとごとでない問題である。むかしから考えているのは一流の人間というのは絶対的にあることに打ち込めるひとなのではないかということである。つねに物事を相対的にしか見られない人間というのは二流にとどまる。日高氏が二流であるというようなことをいっているのではないが、こういう立場でいて強くあるということはとても困難なことなのではないかと思う。江藤淳氏がむかしフォニー論争などでいっていたのもそういうことなのではないかと思う。熱くなれない人間は駄目だというようなことである。日高氏は酔わないことに熱くなれる人間だったのかもしれないが・・。
 

ぼくの生物学講義―人間を知る手がかり

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世界を、こんなふうに見てごらん

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裸のサル―動物学的人間像 (角川文庫)

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

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ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

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鼻行類 (平凡社ライブラリー)

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科学革命の構造

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