橘玲「「読まなくてもいい本」の読書案内」(1)

   筑摩書房 2015年11月
 
 面白かった。橘氏は実に説明するのがうまいひとだと思う。
 最後の「功利主義」の章だけ今一つだったのだが、最初の「複雑系」、次の「進化論」、その後の「ゲーム理論」、さらにその後の「脳科学」みな面白かった。
 最初の「複雑系」を読んでいる途中で、あ、これはどこかで読んだ話だなという思いが浮かんできて、そうだタレブだと思い当たった。タレブの「まぐれ」や「ブラック・スワン」。マンデルブロの話がでてきて、そこで正規分布とロング・テールという話がでてくる。ロング・テールというのを初めて知ったのは梅田望夫さんの本でであったと思う。そしてタレブの本は正規分布に悪態をついた本で、読み返してみるとマンデルブロの名前もちゃんと出てきていたのだが、正規分布に相対するものを論じていることに目をとられて、ベキ分布ということの具体的な内容には注意がいかなかった。フラクタルとか自己組織化という言葉もでてくるのだが、この言葉を初めて知ったのが、中沢新一氏の「雪切曲線論」とか工作舎の「遊」といった雑誌であったように思うので、それで何となくポストモダン系というかニュー・サイエンス系というか、面白いけれどもいかがわしい系の話と思っていた。本書で真っ当な科学の領域での話であることがよくわかった。
 「市場や社会はランダムネス(ベルカーブ)ではなく、フラクタルが生み出すラフネス(複雑)な世界だ」などというのは、そのままタレブの本にもでてきていいような文である。「マンデルブロが見つけた「世界の根本法則」とはなんだろう? それはラフネス(複雑さ)にも秩序があるということだ」とある。世界の見方には、それがカオスであるというのとコスモスであるという方向の二種類があると思う。上記の文はそのどちらなのだろう。
 「フィードバックによって自己組織化するネットワークは、一般に「複雑系」と呼ばれる」とあり、「単純な規則がフィードバックを繰り返すことで、複雑な組織を生み出していく。この世界は、自然界も人間社会もラフネス(複雑さ)の秩序でできていて、因果論で未来がわかったり、確率(ベルカーブ)で未来を予測できるのはその特殊なケースなのだ。」とある。このあたりではポパーの「未来は開かれている」という言葉を思い出すのだが、もとはといえば、ヒュームの「因果論の否定」にいくつくのかもしれない。
 本書はドウルーズとガタリの「リゾーム」から話がはじまる。リゾームというのは「複雑系のネットワーク」のことなのだという。今にして思えば。ドウルーズもガタリも「科学」を知らなかったから、それに気づきえなかったのだ、と。ただ、ドウルーズやガタリリゾームにはあった生々しさが複雑系の科学からはきれいに消去されてしまっている、と橘氏はいう。実は橘氏の本を読んで感じる不満というのが「生々しさ」が無いことではないかと思う。熱くないのである。
 たぶんドウルーズもガタリも熱いひとだったのではないかと思う。ソーカルらの「「知」の欺瞞」によって、ドウルーズもガタリも粉砕されてしまった。ガカリのことはよくわからないけれども、ドウルーズには何かがあると思う。何か大事なものにせまっていたのだと思う。本章のはじめに橘氏がドウルーズとガタリの本を読んで何もわからなかったと書いているけれども、わたくしもまた同様で、本棚のどこかに「アンチ・オイディプス」も「千のプラトー」もあると思うけれども、まったくわからずにすぐに投げ出してしまった記憶がある。ただ何か「アジッているんだな」ということだけはわかったような気がする。三島由紀夫学生運動全盛時代の立て看の檄文を評して、「何がいいたいのかはさっぱりわからないが、性欲が過剰であることだけはよくわかる」といっていたのに近いのかもしれない。とにかく何かが過剰なのである。
 実は本章で一番面白かったのが、マンデルブロの経歴である。1924年にポーランドワルシャワで生まれる。ユダヤ人。大恐慌で景気が悪化したのと、ヒトラーの影響がポーランドまで及んでくると、一家はフランスに移住。マンデルブロ11歳。パリがドイツ軍に占領されると、フランスの片田舎に疎開。そこでの授業に満足できず図書館で独学。しかし独学でもバカロレアで開校以来の最優等を獲得。だがドイツ占領下でのユダヤ人は大学進学は不可能で、工具職人の見習いに。戦争が終わるとパリに戻って大学入学に備える。独学で、最難関の高等師範学校(定員25人)に驚くべき好成績で入学。しかしそこの管理主義的な雰囲気になじめず2日で退学。理工科大学に転校。当時フランスの数学界を席巻していた「ブルバギ」派の純粋数学には興味がもてず、応用数学流体力学を学ぶために大学3年でカリフォルニア工科大学に留学。その後、フランスに戻り1年間軍役につく。その後、フリップスの研究所で働きながら学位を取得。ふたたびアメリカに戻ってマサチューセッツ工科大学へ。次にプリンストン高等研究所に移り、フォン・ノイマンポスドクとなる。さらにパリに戻り、その後またIBMの研究所へ。そこで偶然に、文章のなかにでてくる単語の頻度を数え上げる奇妙な論文にであい、そこで「ベキ分布」を発見する。そして、そのベキ分布があらゆる言語にあてはまることから、その普遍性の可能性にきづく。やがて綿花価格の騰落もナイル川の洪水の頻度もともにベキ分布にしたがうことを発見した。
 こういうコスモポリタンな知識人とその比較を絶した頭の良さというのはヨーロッパの知識人では時々見るのだが、日本ではまず見ないように思う。芸術においては、こういう根のない生き方は往々に不幸をもたらすようだが、科学という分野ではそうではないようである。
 
 次の「進化論」では、まず、日本では文系理系ということがいわれ、進化論は理系の話と思われているが、進化論はいまや経済学や社会学、心理学といった「文系」の分野にも拡張され、社会科学を根底から組み替えようとしているということがいわれる。「現代の進化論」こそが知の最先端なのだ、と。まったく同感で、日本の社会科学には、少しでも進化論をしっていたらこういうことは言わないよな、というような論があふれている。
 進化論は、生き物には優劣も貴賤もないという“リベラル”な学問なのである、と。
 ダーウイン自身が、女王蜂と働き蜂の役割がわかれる蜂の世界が自然選択では説明できないことに気づいていた。それを解決する一番シンプルな方法は個体ではなく種の適応度を最大にするように生き物が進化してきたとすることである。しかし今ではこれは誤りであることははっきりとしている。それを明快に示したのがドーキンスの「利己的な遺伝子」である。個体から遺伝子へ。天動説から地動説へ。
 長谷川真理子さんの「進化生物学への道」では、若い日に書きかけていた論文が、プレマックによって「この論文は、観察事実としてはたいへんにおもしろいが、理論的には完全に間違っている。全面的に書き直さなくてはいけない」と指摘されたことが書かれている。草稿論文は「種の保存」という群淘汰の考えに基づいているが、その考えはもう今では誤りであることがわかったので、遺伝子淘汰に基づいて完全に書き換えねばならない、というのである。そして、この本を読みなさいと「利己的な遺伝子」を紹介されたのだ、と。この「進化生物学への道」は「図鑑たち」、「ドリトル先生航海記」、「ソロモンの指輪」(ローレンツ)、「森の隣人」(J・グールド)、「利己的な遺伝子」と進んでいく。そこでいわれているように「ローレンツの著作はすべて群淘汰の考えで貫かれている。」 つまりこのノーベル賞受賞者の著作はすべて現在では間違いであるとされている考えに基づいているのである。ドーキンスの「利己的な遺伝子」は「包括適応度」という概念を巧みに解説したものともいえるが、この「包括適応度」の概念を生物学に持ち込んだメーナード=スミスは工学畑の人間で、「ゲーム理論」を生物学に持ち込んだ。この「ゲーム理論」は次の章で詳しく検討される。
 ここで橘氏は「ポリティカル・コレクトネス」(PC)「政治的に正しい」という1970年から80年代のアメリカを席巻した知的雰囲気をとりあげる。そして「社会生物学論争」が結局はこのPCにかかわるものだったとする。グールド対ドーキンスという対立もそれだったのだ、と。グールドらは「政治的に正しい生物学」を求めたのであり、その主張は進化生物学の研究成果により現在ではほとんど否定されてしまったエセ科学であり、だからグールドも論文を書かずにエッセイを主張の場とするしかなくなった、ずっと前に科学という場では決着がついていたにもかかわらず、グールドの名声によって空虚な罵りあいが延々と続くことになったのだ、と。
 わたくしが進化論の啓蒙書を読みあさりはじめたころ、グールドもドーキンスも、進化論は聖書に反するという「創造論者」のような蒙昧なひとが多数いるアメリカのような風土に進化論を啓蒙している同士なのだろうと思い込んでいた。そのうち、グールドとドーキンスの対立というようなことがどこからか聞こえてきてびっくりしたのだから、わたくしの愚かしさも相当なものである。
 ただ言えると思うのは、日本の生物学界では「社会生物学」という方向がほとんど話題にもならなかったのではないかということで、「たこつぼ」的とでもいうのであろうが、自分の守備範囲以外には口を出さない「謙虚?」な姿勢が評価されるわが国では、生物学者が社会を論じるなどというのは思いもよらないことであり、なにより日本はいい国で(これは本当)、創造論者のような頑迷なひとはほとんどいないのだから(クリスチャンだって、キリスト教は新約に示されたイエスの道徳と教訓のことと思っていて、旧約などは伝説集に過ぎないと思っている)、社会生物学論争などというのはおかしな人がいるあちらの国だからでてくる話ですよね、と思っていたのではないかと思う。それで日本に住み日本語しか読まないわたくしの耳にはとどいてこなかったということがあるのではないかと思う。「利己的な遺伝子」が当初「生物=生存機械論」という題で邦訳されたとき一向に話題にならず売れもしなかったのも、そういうことが関連しているのではないかと思う。どういうわけかわたくしはその売れなかった「生物=生存機械論」を持っているのだが、それはその当時、日高敏隆さんの書く本、紹介する本、翻訳する本を読みあさっていたからで、ローレンツの「攻撃」もケストラーの「機械の中の幽霊」も日高氏の訳で読んだのであるし、これは日高氏の訳ではないが、ケストラーの「サンバガエルの謎」とか「ホロン革命」などという本を持っているのも、「機械の中の幽霊」でその名をを知っていたからであろう。それらを読むことになったきっかけは、ひょっとすると筒井康隆の「みだれ撃ち涜書ノート」を読んだことだったかもしれないが、もうすべては霧のかなたである。ただ、おふざけと思いつきで小説を書いている人と思っていた筒井氏が、とんでもない「お勉強」をしているのを知って、びっくりするとともに襟を正したのは確かである。
 今から思うと日高氏の紹介していた本はドーキンスのような正統派から、ローレンツのような淘汰の単位を種と考えるようなやや古い世代の人、さらにはケストラーのようなニューサイエンス的な「とんでも」系まで実にいろいろであった。ケストラーの「サンバガエルの謎」は獲得形質の遺伝がありうると主張した本であった。そういう幅の広い包容力?のある日高氏であるから、そのお弟子さんには「浮気人類進化論」などという本を書く竹内久美子さんまでもがいることになるのであろう。
 橘氏のこの本の「進化論」の章の「ブックガイド」では竹内氏の本も言及されていて、竹内氏が日本に進化生物学や進化心理学を広めた功績者であることをみとめながらも、竹内氏が進化生物学を「悪用」「乱用」してきわめて恣意的でいい加減な論を広め、一般の人が進化心理学などに誤ったイメージを抱くことになってしまったことも論じている。なにしろ多くの人にとって、進化心理学とは「男は浮気するのが当たり前であって、何しろそれは進化論的に正しい戦略なのだから」ということをいっている学問なのではないかと思う。
 本書でもいわれているように、「異なる生殖戦略を持つ男女は“利害関係”が一致しないのであり、それは学問的にもくりかえし証明されている。ゲイの75%が100人以上のセックスパートナーを経験している(そのうちの4割近くは1000人以上のパートナーを持つ)が特定の相手と長期の関係を維持することはない。一方、レズビアンではパートナーとの関係が長期に継続し、両親がともに女性ということを除けば一般の家庭とかわらない家庭をつくる。つまり、生物学的には一夫一婦制というのは女にとっては適合的かもしれないが、男にとっては適合的でない不自然なものなのである。
 だから竹内氏が通俗解説本で書いていることは生物学的には(科学的には)正しいのかもしれないのである。しかし「政治的には」正しくない。本書で橘氏もいっているように、「現代の進化論が「右派」の主張と重なる部分を持つ」。とすれば竹内氏の論を乱用・悪用であると批判するひとたちは「一夫一婦制」が正しいというリベラルな主張を背景にもっているのではないかと橘氏は論じている。
 これはきわめて大きな問題で、たとえばフェミニズムは男女差といわれるものは「社会的に構成」されたもので生物学的な基礎を持つものではないとする。しかしこれは「政治的には正しい」主張であるとしても、「科学」としては端的にいって間違っている。だから男と女は違うというところまではよくても、男が女より優れている(フェミニズムの一部は女が男よりすぐれているとするが)などといいだすとただただ混乱がおきるばかりである。少なくとも有史以来の歴史の大きな期間において社会を支配したのは大部分が男であった。それは社会の体制がたまたまそうなったということであって必然性を持たないものなのか、生物学的にそのような体制のほうが安定的なのかということである。
 橘氏は「なぜダイエットに失敗するのか」ということも進化論で説明されているという。「食欲はヒトのもっとも根源的な欲望で、石器時代には食べなければ死んでしまうのだから、意思の力で生存への欲望を抑えつけることなどできるわけはないのだ」と。確かに栄養のとりかたや運動法などの指導で肥満をコントロールするという試みは失敗の歴史で、だから「特定検診(メタボ検診)」という制度が提唱されたとき、なんと馬鹿なことをするのだろう、うまくいくわけがないではないとわれわれ医療者はみな思ったのだが、「性欲はヒトのもっとも根源的な欲望で、進化とはいかにたくさんの子孫を残すかの競争なのだから、意思の力で、子孫をつくろうとすることへの欲望を抑えつけることなどできるわけはないのだ」というような議論を展開すると大問題である。(上で述べた竹内氏の「とんでも」論に通じる。) 「本当のこと」は、人間は他の動物とは違い崇高なものであると信じているひとには不愉快なのである。
 そして人文学というのは人間が人間以外の動物とはまったく違った「特別」な存在であることを(暗黙で当然の)前提としている。だから進化論をまったく知らない人が論じる人文学は、いまだに地動説をしらずに天動説を当然としてものごとを考えているに等しい時代遅れなものとなってしまっているものが、ほとんどなのだろうが、進化論はほとんどその学問の前提自体を破壊してしまうものかもしれないから、容易にはそれを認めることができないのかもしれない。
 橘氏は、日本では進化論が「生き物の不思議」「自然の驚異」という観点から楽しまれている。「進化論は聖書に書いていない」と否定するひとがとてもたくさんいるアメリカとくらべるならば、その“啓蒙度”の高さは素晴らしいという。まことに同感である。しかし、同時に日本の“啓蒙”された人たちも、進化生物学や進化心理学が突きつける「科学的真実」がきわめて不愉快なものであることに気がついているのかといえば、そうではないからこそ、無心に「生き物の不思議」「自然の驚異」というようなことがいえるわけである。
 一方、その「科学的真実」の不愉快さに気づいてしまうS・グールドのようなひとは「きわめて知的である」にもかかわらず、それを「道徳的に間違っている」として否定する方向に走ってしまう。他方、ウイルソンのような「昆虫少年がそのまま大人になってしまったような」「政治にはなんの関心もなくPCのこともまったく知らない」ひとが「生物学者として当たり前のこと」を書くと地雷を踏んでしまうことになる。
 わたくしはドーキンスウイルソンほどではないかもしれないが、「政治にはなんの関心もなくPCのこともまったく知らない」に近いひとで、ウイルソンが「昆虫少年」であったとしたら「科学少年」とでもいうようなひとのように思う。「科学の美しさ」に魅せられたひとなのだろうと思う。だからその論はスタテックで単純である。一方、グールドの論はダイナミックで複雑であり、陰影に富む。河上徹太郎の「自然と純粋」の言い方に従うならば、ウイルソンドーキンスも「自然人」である。一方、グールドは近代という「純粋」の時代の後に生きる「純粋人」である。「翳」を知るひとである。だからドーキンスに苛立つ。人間というのはもっと複雑なものではないのか「翳」を持つものではないのか? 人間は単なる動物か?
 医療というのは数多ある動物の一種であるヒトの病をあつかう学問ではない。自分の未来に死があることを知っている(おそらく唯一の)動物であるヒトの病をあつかう学問である。しかし、実際の医療の行為はどの動物にも通用する事項をたまたまヒトに適応しているに過ぎない。唯一の例外が精神医学であるのかもしれなくて、それだけは他の動物には適応できないヒトだけに独自であることをあつかっている部分が多い(しかし、精神安定剤がヒトに有効であるのなら、チンパンジーにもボノノにも有効である可能性が高いが)。それが医学のなかで精神医学を独自であると同時に辺境的なものにしているかもしれないし、それを自然科学であるよりもむしろ人文学に近いものにしているのかもしれない。
 そして医療が独自であるのは、理論が間違っていようと患者さんが治ればいいというという実用学の側面がある点で、そうであるならば精神分析学が正しいか間違っているかは問題ではなく、有効か無効かということがすべてになる。そして医療行為の有効性が高まるのは、患者さんが医者を優秀で全能で無謬であると信じている場合であるから、医者が無能でしばしば過つという科学的真実を告げることは医療の有効性を低めることになる。医学はドーキンス派かグールド派か? おそらくドーキンス派である。では医療は? ドーキンス派とグールド派の双方がいると思う。たぶん臨機応変に自分の立場を変える医療者も多いであろう。
 精神分析などの問題は後の脳科学のところであらためて考えることになる。もう一つの不愉快な学問であるゲーム理論が次に論じられる。それで稿をあらためる。
 なお、奇妙なタイトルはどういう本は読む必要がないかという案内ということらしい。
 

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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雪片曲線論 (中公文庫)

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アンチ・オイディプス

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千のプラトー―資本主義と分裂症

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

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ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

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進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

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攻撃―悪の自然誌

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機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

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ホロン革命

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みだれ撃ち涜書ノート (1979年)

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自然と純粋 (1966年) (垂水叢書〈21〉)

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