D・デネット「ダーウィンの危険な思想」 その3「第2部」「生物学におけるダーウイン流の思考」
この第2部は主として生物学の中でのダーウィンの問題を論じている。
「潜在的に危険な事実の発見によって真理への愛と人々の安寧への配慮とが相容れないものになった時の科学者のジレンマ」ということをデネットはいう。しかしデネットがほかのところでいっているように、歴史上、いなくては困るのはシェークスピアであって、ニュートンやアインシュタインではない。なぜなら、万有引力も相対性理論もニュートンやアインシュタインがいなくてもいずれほかの誰かによって発見されただろうからである。しかし、シェークスピアがいなくてもいづれ誰かが「ハムレット」を書いたというようなことはない。
科学においては、潜在的に危険な事実は、かりに自分が今、公表しなくてもいづれ誰かが発見するはずなのである。人々の安寧への配慮をしても、遅かれ早かれdis-cover されてしまう。進化についての説明もダーウィンが「種の起源」を発表しなくてもいづれほかの誰かが、「種の起源」とは大幅に異なったテキストによってであれ、同じような説明を見出したはずなのである。
日本の生物学者にとっては、DNAによる遺伝の説明と両立しうる生物の系統樹の説明としてはダーウィン的な方向しかないわけである。だから日本ではダーウィンの進化論は思想の問題とはならず、その説明は現在においては進化という事実についての最良の説明法であるということですむ。ダーウィンのいったことに一箇所でも瑕疵があれば、それはすなわち神の創造を承認することになるというような摩訶不思議な議論には、日本では誰も近よらない。
今のところ生命がどのようにして生じたかについては、十分に人を説得させるに足りるような科学による説明は存在しない。だからといって、それがダーウィンの説明を否定することにもならない。ダーウインのいっていることは、もし生命というものがどこかでスタートをしたとするならば、それはこのような規則のもとで現在に至ったとすると、うまく説明できるということだけのことである。
生物がある時点で生じたという事実を説明するに足るうまい科学的説明はまだ存在しないばかりか、どのように考えてもそれは確率的にはきわめてありそうもないことであり、地球の誕生から現在までの時間がそれを説明するにはあまりに短かすぎることは、多くの人が認めている。しかし、ただ、それだけのことである。ヒュームの時代には、鉄片の投げ上げてそれが時計になることが説明できなかった。いまはできる。それなら生命の誕生についてもいづれ説明できるようになるかもしれない、としておくだけではいけないのだろうか? そこから神による創造とか、信仰とかに議論が飛躍するのが、わたくしにはどうしても理解できない。
デネットは、自分がしたいことは、多くの人がもっている《ダーウィン的な理論あるいは説明は絶対にうまくいくはずがない》という信念を解体することなのだという。日本の科学者は、ダーウィン的な理論は十分にうまくいくと思っているであろう。では科学者でないひとは? どうも人間はお猿さんの子孫らしいなあ、と思っているが、それはその人のものの考え方にまったく影響しないのである。
とすると、《ダーウィン的な理論あるいは説明は絶対にうまくいくはずがない》と思っているひとは、日本にはほとんどいないのではないかと思う。日本ではクリスチャンでさえ、イエスの説いたことがキリスト教であり、旧約聖書はイエスの時代に流布していた神話をおさめたものくらいに思っているのではないだろうか? 「唯一の神を信じる」と唱えても、「南無阿弥陀仏」と唱えるのとほとんどかわらず、ただ祈っているというだけのことではないだろうか? 祈るというのは、ただ人間をこえる何かにすがることではあるが、その何かが宇宙を作ったり、生命を作ったり、人間に魂を付与したり、物理法則をつくりあげたとは、ほとんどのひとが信じていないのではないだろうか?
しかしデネットは猛烈にこだわる。生命の発生の問題にこだわり、「人間原理」にこだわる。そもそも「なぜ、何もないのではなく、何かが存在するのか」という(まるでハイデガーの問いのような)ことにも徹底してこだわる。それは生物学の答えられる問いではないと思うのだが(デネットは哲学者ではあるが)。
デネットは、ニーチェへのダーウィンの影響についてもいろいろと考察している。ニーチェは、永劫回帰という議論を人生がばかげたものであること、人生が意味のないものであることの証明だと考えていたのだとデネットはいい、多くの人がダーウィン思想を知ったときに感じる恐れもそれに起因するのだという。
今ではもうあまり読むひともいない本かもしれないが、モノーの「偶然と必然」(みすず書房 1972年)でも「人間はついに、自分がかつてそのなかから偶然によって出現してきた<宇宙>という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれていない」というようなことがいわれている。ニーチェは、哲学として、あるいはものの見方として永劫回帰ということをいったわけであるが、モノーは科学が見出したものを受け入れるならば、そのままでてくることとして、人間の運命も義務もどこにも書かれていない、とする。また、モノーは「科学は価値判断をおこなわず。価値を無視しなくてはならない」ともいっていて、本論冒頭のデネットの逡巡を否定する。
モノーによれば科学が打ち滅ぼしつつあるのは物活説の伝統(つまりアニミズム、生命と生命のない物質は別々の原理に支配されているという見方)である。創造説などというものを相手にする必要があるなどとは、モノーは考えてもいない。モノーがいっていることは現代社会は科学の富と力を利用しているにもかかわらず、科学のよってたつ原理にはまったく無関心であるということであり、科学がすでにその根元を掘り崩したはずの古い価値体系にのっとって平気で生活をつづけているということである。「西欧諸国の《自由主義》社会は、その道徳の基礎として、ユダヤ=キリスト教的宗教性と、科学主義的進歩主義と、人間の《生まれつきの》権利への信念と、功利主義的実用主義とを、混ぜあわせた胸の悪くなるような代物をいまだに口先で教えている」ということである。
これは日本には当てはまるように思うが(だから日本の進化論学者は、キリスト教とか創造説などにはまったく関心がない)、アメリカではどうなのだろう。なかなかそうはいかないからデネットがこういう本を書くわけである。
そして、デネットにしてもドーキンスにしても、科学主義的進歩主義と、人間の《生まれつきの》権利への信念と、功利主義的実用主義は信奉しているではないだろうか? ユダヤ=キリスト教的宗教性をドーキンスは否定するが、それについてもデネットはドーキンスよりは歯切れが悪いように思う。科学のよってたつ原理を受けいれるならば、モノーのいうように、人間の《生まれつきの》権利などというのが自明でないことは明らかなのだが、デネットはそのようなものはフィクションだといいきることはしない。
「偶然と必然」は1970年に発表され、フランスでは?ベストセラーとなり、思想界・哲学界に大きな波紋を呼んだのだそうである。モノーは客観的知識を堅く信じているので、ポストモダン派からみれば愚かな科学者の典型ということになるのかもしれないのだが・・・。
明らかにモノーの線よりデネットの線は後退している、それはポスト・モダン思想の洗礼によるのだろうか? 「科学の客観性の公準」など無邪気に信じなくなった西欧の成熟によるのだろうか? わたくしには、モノーの著作からあとも、(西欧においては?)科学は宗教との争いにおいてほとんど勝利をおさめていないというか後退さえしている事実をあらわしているように思える。
デネットもいうように実存主義というのは、意味をつくるのは自分であるという思想である。神が存在しないのならば、生きる意味は存在しないというのはどう考えても短絡であるとしか思えないが(ないものは造ればいいのだから)、デネットがひたすら闘っているのが、そういう思考の短絡なのである。
デネットはダーウィン以降の生物学はエンジニアリングと結婚しているという。しかしエンジニアリングは知的世界では常に二流の地位にあるという。だからさまざまな哲学はあるが、工学哲学という分野はないのだという。
確かに工学は実用学とされていて、それを学問として大学の中におくことの可否が西欧では長く問題とされてきた。工学は単なる技法であって、神学の伝統に由来する西欧の学問観にはなじまないということらしい。しかし、現代ではエンジニアリングの視点が自然科学と人文科学という区別をつき崩しつつあるのだ、とデネットはいう。
ダーウィンの思想の含意するものは、いかなる境界線もひけないということである。あるものが存在しない状態から、それが存在している状態へという変化は巨視的にみれば存在する(何千万年という離散的な時間単位でみれば存在する)が、微視的にみればそれは連続している(昨日まで猿で、今日から人間ということはない)ということである。ソクラテス・プラトン以来の語を定義するという作業は、実在的本質というものを仮定している。そのためわれわれはつねに境界線を引きたがる。しかし、境界線は存在しないのである。(とすると、ダーウィンは、世界は連続していて、言葉がそれを切り分けるというソシュール的な見方に先駆したのであろうか?)
わたくしなどは、境界線がないということから、自動的に人間に神が付与した魂というような見方は否定されてしまうと思うのだが、どうもそれは自明とはされないようである。わたくしがダーウィンの進化への見方をもう一度考えてみたいと思ったのは、そこを考えてみたいと思ったからなのだが。
よくいわれるコンピュータはプログラマーが命じたことしかできないという神話は、デザインができるのは心だけであるというロックの思想の現代版なのであり、無から有は生じないという考えの変形でもある、とデネットはいう。アルゴリズムは発見的な手続きでありうることを理解しないとこの神話は崩せない、と。
そして、S・J・グールドの登場である。「サンマルコ寺院のスパンドレルとパングロス主義パラダイム―適応主義者の目論見への批判」である。200ページ強の第2部の100ページ弱がグールドへの批判にあてられている。第2部が生物学をあつかうといっても最大の論敵はグールドなのである。
グールドらは、何がよいかとは問うな、何の役に立つかとは問うな、という。そういう目的論は排除して、ただ何が起きたのかを問え、という。しかしとデネットはいう。生物学は目的論を仮定しないかぎり、何がおきたのかを決して説明できないのだ、と。その目的論を生物学に導入できること示し、それをしてもかまわないとしたのがダーウィン説なのだ、と。デネットも、あるうまい目的への説明が提出されてしまうとそれがいきなり真実とされてしまうような現在の進化理論の最前線の知的怠慢を懸念している。デネットがいっているように、グールドにしても本当は目的論は認めているのである。ただ目的論的説明、適応主義的推理がどこで行きすぎになるのかという点について、デネットやドーキンスと意見が食い違ってくるのである。なんでもかんでも適応で説明できるというのはあんまりだとドーキンスはいう。適応を否定したら現代生物学は根底から崩壊するとデネットはこたえる。程度を問う議論であったはずなのに、いつの間にか、不倶戴天の論敵になってしまっている。
これは適者生存というのが同義語反復なのではないかという昔からある議論の変奏であるような気もする。ある生物がなぜいま繁栄しているのか、それはその生物が今の環境に一番適応しているからである、というのが説明になるだろうかということである。それがいるのはいなくならなかったからだ、というのは論理的には正しいにしても、何もいっていないではないかという嫌疑は濃厚である。
ゲーム理論は孤独なロビンソン・クルーソーの場合には問題とならない。競争相手がいる世界ではじめてゲーム理論の出番がくる。そして生物進化の世界とは無数の競争相手が存在する世界なのである。木はどんどんと高く伸びる、日光を求めて。お互いに協力して、みんなが一定の高さでいれば、無駄なエネルギーはいらないわけであるが、現実世界では決してそんなことはおきない。
さまざまな理由で、ダーウィンの思想を面白くなく思っている哲学者、心理学者、言語学者、心理学者、人類学者がいる。そういうひとたちはグールドが「ダーウィンの進化論ではすべてが説明できるわけではないのだ」というのをきくと、安心してしまう、そうデネットはいう。グールドがダーウィニズムの熱心な擁護者であり、創造論への強力な反対者であることはデネットもみとめる。ただ、グールドはほんの少しのスカイフックもみとめないダーウィン主義者をハイパー・ダーウィニストとして否定するのである。それを、あらゆるダーウィン敵対者が利用している、とデネットはいう。デネットは少しでもスカイフックをみとめたら、あとは後退をつづけるだけだと思っていて、ダーゥイン理論をクレーンで押し通した理論であるという点において、最大級の思想的意義をみとめる。
グールドにとって、スパンドレルとは要するに適応でないものである。適応でないものが残れば、スカイフックの余地が残る。グールドは、適応でないものの動因として創造神を考えているわけではないようである。何か未知の内的メカニズムによるとする余地を残しておきたいらしい。でもそれでは、ラマルク主義への逆もどりではないのという気が、わたくしにはするのだけれども。
グールドが終わればあとは、あとは問題にしなければいけない論はもうあまり残っていない。ホイルの地球外生命起源説とかティヤール・ド・シャルダンの目的ある進化とかラマルク説などの、デネットのいう“無害な”異説である。
第2部をみてきてわかるのは、デネットが敵にしているのは、1)デーウィン説をみとめたら生きる意味がなくなるぞという議論と、2)ダーウィン説だけではすべてが説明できないという議論である、ということである。両者は通底していて、結局は、われわれの生には意味があると信じたい。ダーゥイン説などでは、善とか真とか美とか、われわれが一番大切だと思っているものを説明できるはずがない、というところにいきつく。
つまり、人間は特別だ、ということである。そしてデネットもドーキンスも人間は特別だということは信じているのである。西欧において人間は特別だという思想を提供してきたのがキリスト教であり、ダーウィン説はそれを否定する最大の論のひとつであったということがあるために、蛇が尻尾を飲み込むようなぐるぐるまわりの議論が延々と続いていくことになる。
デネットはスカイフックをみとめなくても人間が特別であるということは、ダーウィンの論から導出できるとする。一方、グールドは、すべてがクレーンだとしたならば、人間も特別な存在ではなくなってしまうぞ、ということをいう。わたくしなどは、ダーウィン理論の素直な帰結は、人間は特別な存在ではない、ということだと思うのだが、どうもその方向の議論は両者ともに立ち入り禁止地帯にしてしまっているように思う。
感受性が鈍いというのは恐ろしいことで、以前にはドーキンスの本も、グールドの本も両方とも面白い面白いと読んでいた。お互いの本の中で、時に相手を批判しているところがあっても、大筋で一致している人たちの間の細部における見解の相違だと思っていた。両者の根源的な違いということにはじめて気がついたのは、黒木玄氏のウエブサイトを覗いたときで、そこではドーキンスは正統派、グールドはトンデモ派と明確に色分けされているのをみて仰天した。
しかし、わたくしはグールドのほうが人文系のセンスがあるように思えて好きで、ドーキンスのほうはどうみても自然科学派の人間であるように思え、底が浅く見えた。
それならば、人文系のセンスというのは何なのだろう? 人文系というのは当たり前であるが、人間にかんすることをあつかう学問である。つまり人間は特別だということを前提とする学問である。ウイルソンの「社会生物学」が衝撃であったのは、人間をあつかう学問と蟻をあつかう学問は同じ学問体系で可能なのだということを主張しているように見えたことによる。事実、ウイルソンはそういいたかったのだと思う。
要するに人文学は人間は複雑であり、物質をあつかうだけの自然科学から理解できるような単純なものではない、といいいたいわけである。たしかに生物学も人間をあつかうのかもしれないが、それが何をいったとしても人間の本当に人間たるゆえん、人間の一番大事な部分については、解明できるはずもないという堅い信念をもっているわけである。
シェークスピアがいないければ「ハムレット」は永遠に書かれることがなかったのは間違いがないとして、プラトンがいなければイデアというようなideaは全然人間に思いつかれることはなかったのだろうか? 言葉というものを人間が得たとき、“名”というのは単なる符牒ではなく、もっとありありとした実在を反映しているように思われたに違いない。人間の歴史は実在論から唯名論へという方向で流れてきているかもしれないので、プラトンがいなくてもなんらかの実在論的ideaはかならずどこかで提示されていたはずである。そうであるならば、人文科学というのは人間に思いつかれうる思考についての議論であるのかもしれない。
進化というのはごく大雑把にいって単純なものから複雑なものへと流れてきている(バクテリアというのがすでに十分複雑なものであるとしても)。しかし、人間の“世界”への見方は、わけのわからない混沌としたものから、理解しうる秩序あるものへと変化してきている。乱暴にいっていしまえば、複雑から単純へ、である。
地球の上に、なぜかあるとき生命が生じ、進化ということがおこって、人間という種もうまれ、それがどういうわけか言葉をもち、思考をするようになり、自分のまわりに生じるさまざまな事象の説明をはじめた。その説明が科学であり、現在では人文科学に所属している哲学もその起源においては自然科学だった。もちろん、人間自身も対象になり、人間の身体についてはすでに自然科学の領分となっている。残るものとしての人間の心の所産、社会の制度といったものに、人文科学の対象は絞られてきた。
フロイトにしても心の科学をつくりたかったわけである。ただフロイト時代の脳科学の知見があまりに乏しかったため、その説は脳の科学としては現在では維持不可能になっている。したがって、フロイト説は現在では人文科学の側であり、自然科学としてあつかうひとはいない。それを考えるならば、ダーウィンが遺伝の原理をまったく知らずに自分の説をつくったにもかかわらず、その後のDNAの発見によっても大筋のところでは、その説を維持できているというのは、実に驚嘆すべきことである。
そのためフロイト説はいまも自然科学の側にいて、人文科学とは通常みなされていない。しかし、そのことは逆に不幸を呼んでいるかもしれない。人文科学の側は自分たちの領域の外にいるダーウィン説を無視できることになった。もしもダーウィンが遺伝のおきかたについて現在の知見とはまったく両立しえないような仮説を提示し、その部分がまったく現代の科学から否定されるようなことになっていれば、ダーウィンの説は人文科学の中に保存されることになったかもしれない。そのほうが人文科学が自然科学を無視しえないことになって、人文科学によい刺激をあたえるものとなり、「二つの文化」の乖離は今ほどではなかったかもしれない。
自然科学がいくら発達しても、シェークスピアが「ハムレット」をどのようにして書いたかは説明できまい、というのはいたって正当な主張であり、誰も反論しないだろう。自然科学である程度説明できるかもしれないことは、人間がなぜ文学というようなものをもっているかということまでであり、個々の文学作品をも説明できるようになることはありえない。
そして、その解明は人文科学の側に期待できることでもない。先行するテキストが後続するテキストを作るのだから、「ハムレット」に先行するテキスト、「ハムレット」から派生する「テキスト」についての研究は無限に可能であろう。しかし「ハムレット」というテキストが今残されているようでなければいけなかった理由というのはないのだから、それが科学の対象となることは永久にない。
それと同様に考えるならば、進化の過程で人間が今あるようでなければならなかった必然性はまったくなかったわけだから、人間の独自性などという主張は滑稽であることは自明である。しかし、事実として、人間には自分が独自にみえるわけである。自分の複雑性を説明できるものなどないだろうと思うわけである。
グールドは、自然科学の側が、人間について科学の手続きによって何でもわかる、あるいはわかる可能性があるという能天気な態度にでていることに腹をたてているのであろう。それについてはまだまだ人文科学の側に一日の長があるのだぞ、ということをいいたいのであろう。その点において、わたくしはグールドの方に分があると思うわけである。ドーキンスの本を読んでいると、詩というようなものを sense of wonder から生じるものとしているように思える。自然科学も「ユーレカ!」という喜びに発するのであろう。それなら両者は等価かもしれない。しかし、詩というのが単にそのようなものではないことは、少しでも詩を読んでみれば自ずからわかってくることである。ドーキンスの本にしても、ましてやE・O・ウイルソンの本など読めば、なんであんなに無理しなければいけないのだろうと思う。
だからグールドのほうにずっと親近感を感じるのであるが、デネットもいうように、グールドがどこかでスカイフックを希求していることもまた間違いないように思う。そしてわたくしには、スカイフックというものを捨てようとしてもなかなか捨てられない西欧人の気持ちというのがよくわからないのである。
この稿を書いていて、上にも書いたように二十数年ぶりにモノーの「偶然と必然」を思い出してざっと読み返してみた。実に面白かった。なんだ、デネットがここでとりあげているような問題はすべてすでに言われてしまっているではないかと思った。ただモノーの論のたてかたはずっと単純である。それは《客観性の公準》ということである。科学というのは超越的な何かを持ち込まないで現象を説明しようという営為であるということで、それは《自然》は客観性を持っているという仮説の上になりたっている。それはアリステレスの自然学と宇宙学の否定の上になりたつものであり、ガリレオの慣性の法則以来の認識を前提にしている。しかし、この前提自身の可否は、絶対に論証不可能なものである。
客観性の前提にたつのが科学であるにもかかわらず、生物学においては、生物のもつ合目的的性格を認めざるをえない、ここに生物学の根本問題があるという。超越的原理を持ち込まない科学のやりかたにおいては、生物のあらゆる構造が目的をもっているように見えるということを、それをデザインした何かがあるからという説明をするならば、それは正しいとか間違っているとかいのではなく、科学での説明ではないとする。デネットの論がこんがらかるのは、スカイフックによる説明を科学ではない、というのではなく間違っているとしたい意図があることによる。
モノーによれば、客観性の公準を採用するということは、倫理の領域と知識の領域をはっきりとわけるということである。何が真実であるかという問いをたてる場合、そこに超越的な何かをもちこむことは、それで説明ができてしまうことによって、真実の追求の道を塞いでしまう。真実は真実であってそれは倫理的判断とは峻別されるべきものである。そして科学は物活説による説明を次々に否定していくことにより、物活説に依拠する倫理の基盤を足元から崩していくのである。
モノーの潔い点は科学が倫理に対して破壊的であることをはっきりと認めている点にある。デネットの苦しいところは、デーウィン説が一見、倫理に対して破壊的であるようにみえるが、よく見ればそうではないというような議論をする点にある。
ダーウィン説は倫理に対して破壊的なのである。それにもかかわらず、客観性の公準からいえば、それは真実なのである。
モノーが《生気論》とか《物活説》とかと呼ぶものは《客観性の公準》とは背馳するものではあるが、それでも人間にとって必然的な産物であったことを、モノーはみとめる。デネットはそれをスカイフックと呼ぶのであるが、それが人間にとって必然的な産物であったという認識はあまりなく、間違ったものだという認識が前面に立つので、何か議論が空転する。
しかし、倫理とか善という問題は主として第3部で論じられるので、稿をあらためて考えてみたい。
- 作者: ジャック・モノー,渡辺格,村上光彦
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