橘玲「不愉快なことには理由がある」

 集英社 2012年
 
 同じ著者の「バカが多いのには理由がある」の2年ほど前に書かれた本で、「バカが多い・・」の背景がこれを読むと理解しやすい。
 まず「INTRODUCTION たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見を」から。
 この本では、政治や経済、社会的事件などについての著者の考えを示されるわけであるが、そこに「正しい主張」が書かれているわけではない、という。それは、1)著者がそれぞれの問題については素人であること、2)多くの社会問題では、なにが正しいかはわからないこと(私たちの世界は不確実で、未来を誰も予想できないから)、3)問題には必ず解があるわけではないか、あるいは解があっても実行不可能な場合があること(尖閣竹島が問題になっているが、主権国家の集合体である近代世界は領土問題を解決する方法を持たないし、先進国と途上国の経済格差の解消のためにはゆたかな国が国境を開放し、無制限に移民を受け入れればいいことははっきりしているが、それができないこともはっきりしている)、による。
 専門家でも意見が一致しないような問題は、民主政社会では素人が選択するしかない。現在では素人の集合知が専門家の判断よりも正しいことがわかっている(J・スロウィッキー「「みんなの意見」は案外正しい」)。集合知を有効に活かすためには、多様な意見があることが重要。真に必要なのは、たった一つの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見である(すでにJ・S・ミルがそういっている)。
 専門分化が進んだ現在では、専門家は専門外への口出し(領海侵犯)を控える傾向がある。専門家が発言しないのだとすれば、素人が生半可な知識で発言していくしかない。本書では議論の視点として進化論を採用する。
 近代文明は驚くほどの進歩を遂げたので、解決できる問題のあらかたは解決されてしまっている。いま残っている問題は、それを解決すると別の新たな問題が生まれるようなやっかいなものばかりである。その世界をわずかでもでも生きやすくするために、みんなとは違う視点を提供して意見の多様性の形成にいささかでも貢献することを本書は目的とする。
  
次に「PROLOGUE 世界の秘密はすべて解けてしまった」
 「こころとはなにか」が科学によって解明できるようになってきた。
 われわれの世界の見方を変えた発明や発見はいろいろあるが、その最大のものがダーウィンの進化論である。これは「子孫を残すことに成功した遺伝子が次世代に引き継がれる」ということを主張している。簡単にいえば「生き残ったものが生き残る」。
 進化論は個体だけでなく、社会や文明にも安易に適応されたため、人種差別を正当化したり、ホロコーストにつながったといった批判を受たが、それに応えることで進化論は科学的に鍛えられてきた。
 1970年代の社会生物学から、1990年代の進化心理学へとそれは発展してきているが、大衆にそれを啓蒙したのがドーキンスの「利己的な遺伝子」である(そのレトリックが遺伝子が人間を支配しているような誤解を生んだが・・)。
 進化心理学では、人間のこころや感情も、われわれがより多くの子孫を残すような方向に進化してきたと考える。読者がそれを納得するかどうかは別だが、進化心理学はきわめて強力な説明原理であり、”こころの問題”を一刀両断に解明してしまっている。
 われわれの人生の大半はシミュレーションに費やされる。新しい事態に遭遇するとこころというシミュレーション装置が無意識に作動しはじめる。われわれが思い悩むのは、そのためである。シミュレーションによって、相手の行動を的確に予想できれば生き残れる可能性が高くなる(それをもって知能と呼ぶひともいるかもしれない)。
 孔雀のオスの尾羽根が極度に(過剰に?)派手できらびやかなのは、それが子孫を残すということには有効に機能したからである(メスがそれを好んだから、そうなった)。しかしそれは、進化のランナウェイ(暴走)の効果のよい例でもある。ヒトにとっての脳は孔雀の尾羽根である。進化のランナウェイ効果の産物である。
 わたしたちの生きづらさは、石器時代の脳が現代文明に適応できないためであると進化心理学は説明する。石器時代のヒトは狩猟と採集で生きていたので、家族を中心とする数十人のグループで暮らしていた。そのグループから排除されることは死を意味した。このような状態が400万年も続いたのだから、家族や仲間といることで幸福を感じ、共同体から排除されることを恐れるようにわれわれが進化しているのは当然である。
 貨幣の起源は、進化の観点から見れば“互酬”にある。ヒトやチンパンジーばかりでなく吸血コウモリでさえ、親切にされた相手を覚えていてお返しをする。貨幣とは親切とお返しのやりとりの“見える化”である。
 カーネマンらの行動経済学は、ヒトの認知能力にはさまざまなバイアスがかかっていることを示した。たとえば、得をすることより、損をすることにわれわれはずっと感情的に強く反応する。石器時代にはいったん手に入れた食料を奪われることは死に直結した。これが損への過剰な反応の原因であり、なわばり意識・私的所有権の原型ともなった。
 ゲーム理論は経済学以上に多くの人から毛嫌いされているが、それは人間の行動を数値化するという手続きにわわわれが生理的な嫌悪感を感じるためかもしれない。
 進化論のなかでも一番評判が悪い社会生物学は、利他性について、ゲームの理論を用いて「血縁淘汰説」で説明してしまった。「血縁淘汰説」では、生存戦略として社会(コロニー)の形成を選んだ生物は、遺伝子が利己的であるがゆえに、個体としては利他的に振る舞うことが子孫を残す上で有利であるはずであるということを数学モデルとして示した。これは多くの実証研究によって事実であることが証明されてきている。
 ミクロ経済学はゲームの理論と一体化し行動経済学も取り入れて進化心理学をも融合して、神経経済学へ展開しようとしている。ミクロ経済学が着々と進展しているのに対して、マクロ経済学は、将来の経済変動を予想できないばかりか、現状分析すら満足にできないという惨状にある。それはわれわれの生きている世界が複雑系であることに起因する。多数の要素が相互にフィードバックしていく複雑系では、要素間の関係が複雑すぎて計算ができないし、計算しようにも数式化さえもできていないからである。
 それでは、われわれはなぜスーパーコンピュータでさえ計算ができないような複雑な世界を生き延びてこられたのだろうか? それはわれわれの知性が決して合理では動いていないからである。複雑系の世界は、数学的な論理によっては解決できないのだから、そこで生きるものが、合理性を極限まで高めることは不合理である。合理によらず、より有効に生きる方策として、ヒューリスティック(近似的問題解決)なやりかたをわれわれは採用してきた。
 当初は、こういう非合理的な行動はヒトの脳が論理的思考が苦手なためと考えられた。しかし現在では、それこそが複雑系に適応するように進化した知性のありかたであると考えられるようになってきている。
 最大の利益を知性で計算して追求するのではなく、損失を回避しながら小さな利益を積み上げていくという不合理な戦略のほうが有効なのである。
 複雑系のネットワークでは初期値のわずかな違いがその後の結果に大きく影響する。一卵性双生児と二卵性双生児の比較研究から、性格や能力への遺伝の影響が明らかになってきて、性格は遺伝が半分、環境が半分であることが示されてきている。環境というと、多くのひとが家庭環境を思い浮かべるが、家庭の影響はほとんどないことが明らかとなってきている。ハリスの「子育ての大誤解」によれば、子供は(親の愛情や子育てとは関係なく)子供集団のなかで人格を形成する。子供は、1)自分に似た子供に引き寄せられ、2)自分が所属する集団に自己を同一化し、3)他の子供集団と対立し、4)集団のなかで、仲間とは異なる人格(キャラ)を演じることで、集団内で目立とうとする。5)子供集団は文化的に独立しており、大人の介入を徹底して排除する。
 石器時代にはヒトは次々に子供を生んでおり(乳児死亡率が高いので、そうしないと子孫を残せない)、母親も子供を充分にケアする時間がない。子供を育てるのは上の子供や共同体のなかの子供集団であったことを考えれば、それは理解しやすいことのはずである。
 進化論は不愉快な学問である。それには、われわれが大切に思っているさまざまな価値観を根こそぎ蹂躙するような暴力性がある。しかし、その主張が正しいことは、繰り返し証明されてきている。平等を指向するリベラル派の批判を受けながらもその正しさはゆらぐことはない。
 この後に続く日本の現状への具体的な社会評論の部分は全部飛ばして、最後の「EPILOGUE 進化論的リバタリアニズムのために」をみる。
 現代の進化論は不愉快であると同時に役に立たないとも批判される。現状の説明だけはするとしても、それを変えていく処方箋は出さないから。
 進化論は「ひとは幸福になるために生まれてきたのだが、幸福になるように設計はされていない」とする。進化心理学によれば、われわれの脳は、幸福よりも不安や絶望をより多く感じるようにプログラムされている。災厄を恐れてあたりを見回してばかりいる不安神経神経症的なひとのほうが、ライオンの前で昼寝する楽観主義者よりも自然淘汰を生き延びることができた。狩猟採集時代には、計算能力や論理的正確さよりも、運動能力や空間把握能力のほうが有用だった。
 近代はヒトの多様な能力のなかで、言語能力と論理数学的知能のみが特権的に高く評価されるようになった特異な時代である。前期近代の工業社会では(日本では1970年代まで)、中卒や高卒でも工場の仕事がいくらでもあった。経済がグローバル化し、先進国が後期近代の知識社会に入ると、製造業は賃金の安い新興国に移り、サービス業を移民が担うようになって、貧困や失業が大きな社会問題になってきている。
 問題の本質は、知識社会化した先進国のなかに、充分な言語能力、論理数学的知能を持たないひとがいることである。彼らを「教育」によってその知的能力を引き上げることはできるか? 欧米諸国はその試みをしてきた。失業者への就労支援にもとりくんできた。その結果わかったことは、就労支援は母子家庭の失業者以外には有効でないということであった。低学歴の若者と高齢者への教育投資はまったく効果がないということがわかった。失業して貧困に陥った女性の母集団はふつうの女性であり、子供を産んだすべての女性がそうなるリスクをもっている。一方、行動遺伝学によれば、知能の7〜8割は遺伝で決まる。低学歴の若者は「ふつうの」若者の母集団とは異なる反社会性(教師に反抗し、勉強する若者を馬鹿にするような性向)をその背景にもっている。これは放置できない問題ではあるが、安易な解決法がない問題であると知ることも重要である。
 失業や貧困へのきわめて魅力的な処方箋としてカール・マルクスのものがあった。そのもっとも純化した試みがカンボジアポルポトのものであった。若くしてパリに留学し、当代一流の知識人と交流した第一級の知識人であったポルポトが4年間で人口の2割を死なせるというグロテスクな国家をつくった。「理想」はしばしば地獄への道をひらく。
 かって冷戦時代に東西から大きな援助を受けていたインドはそれでも貧困のままであったが、冷戦が終わり、援助が期待できなくなて、規制緩和と市場の開放に踏み切ることにより成長がはじまった。
 私たちの幸福にもっとも大きなちからを発揮するのが市場であることは明らかである(もちろん、それがきわめて多くの問題を抱えていることも事実であるが)。政府や官僚に市場を管理・指導する能力などあるはずがない。近代以降、人類にとっての最大の災厄が国家であった。
 同じバックグラウンドのひとが集まるよりも、価値観が異なるひとが共通の目標にむかってともに働いたほうが、ずっとイノベーションがおきやすいことが明らかになっている。日本の企業の衰退はそれを欠くことによる。
 アメリカでの格差拡大が問題となっている。しかし、もしも市場が複雑系のネットワークであるのならば、市場が拡大すると格差が拡大するのは避けられない。平等で小さい経済よりも不平等で大きい経済のほうがみなが幸福になれるのである(”良心的”なひとは決して同意しないだろうが)。資本主義を否定してこころの豊かさを説いても、いいことは何もおきない。
 今まで対立してきた二つの立場、A)すべて市場にまかせる自由主義リバタリアニズム)と、B)国家が市場を管理すべきだという官僚主義パターナリズム)の二つの方向に対し、第三の、C)リバタリアンパターナリズム(おせっかいな自由主義)あるいは「進化論的リバタリアニズム」という立場がでてきている。
 われわれは現代の進化論の不愉快な知見をすべて受け入れたうえで、人生を設計し、社会をつくっていくしかないのである。
 
 以上が著者の総論部分のまとめであるが、進化論のことを考える以前にわれわれが動物であるということを考えてみる。われわれは有性生殖をおこなう動物であるから、オスとメスの区別がある。平均するとオスのほうがメスよりも大きい。オスのほうが身長が高い。だからスポーツの多くは男女を別にして競技をする。しかし、個々のケースでみれば、男より背の高い女性はいくらでもいるし、男より早く走る女性も多い。オスがメスよりも平均して大きい理由はおそらく進化の過程からの説明が可能なのであろうが、進化は一般論は説明するが個々のケースについての説明力はない。
 身体的な男女差については”事実”として多くのひとが容認するであろうが、文化的あるいは社会的な男女差については議論が紛糾する。「男らしさ」「女らしさ」といったものが、生得的な(つまり遺伝で規定された)ものであるか、文化的に規定されたもの(つまり生まれたときには男女差はまったくないのだが、男の子ならこうするべき女の子ならこうするべきという文化による方向づけが後天的に男女の差をつくっている)であるかについては議論が紛糾する。わたくしの理解では、胎生期に脳が男性ホルモンにどの程度さらされるかが、いわゆる男らしさや女らしさを決めるらしい。強制しなくても男の子は自動車のおもちゃで遊び、女の子はお人形さんで遊ぶらしい。長じては女性はどこからか王子様が自分のところにやってくる話を好むようになるらしい(ハーレクイン・ロマンを読む男はまずいない)。
 こういう方向の話はフェミニズムの陣営からは嫌われる。かりに上に述べたことが事実であったとしても、男に生まれるか女に生まれるかは本人が選ぶことができないことであるので、自分に責任がないことで差別されるのは許せない、男女は平等にあつかわれるべきであるという主張がでてくる。さらには男は戦争を好む性、女は平和を愛する性、男は野蛮な性、女は文明的な性という見方もあって、こうなると世界を男が支配しているのがいけないのであり、女が支配すれば世界は平和になるという方向もまたでてくる。
 進化論を容認することは現状をやむなしと認める方向に傾きやすい。現状を容認すべきではないもの、変えていかなければならないものと見るものにとっては、進化論を錦の御旗にするひとは許し難い存在と感じられる。世界の歴史の表舞台にあらわれてきたのは圧倒的に男性である。しかし、それは男性が優秀であるからではなく、男性が暴力的でかつ狡猾でもあることの故であったのかもしれない。
 進化論的な見方は現在のところ人文学のなかではきわめてマイナーな存在である。だから、その導入は人文学に多様な見方をもたらすのかもしれない。しかしもしも進化論が人文学を席巻するようなことになったとすれば、人文学からも多様性が失われるかもしれない。「世界の秘密はすべて解けてしまった」のだとすると、多様な見方の余地はどんどんと少なくなるのかもしれない。
 ドーキンスとS・J・グールドの対立も、そこに生まれる。ドーキンスはこれが事実だといい、グールドはそれは保守のイデオロギーに力を貸すものだとする。
 進化心理学は“こころの問題”を一刀両断に解明したのだろうか? 進化心理学が引用されるのは、男が浮気性なのはしょうがないよね、それは進化の過程でそうなったのだからといった文脈のことが多い。自分に都合のいいところだけを引用し、都合の悪いことは無視するというも、また進化の過程で獲得した心性なのかもしれないが・・。
 ヒトにとっての脳は孔雀の尾羽根で、進化のランナウェイ効果の産物なのだろうか? 昔、養老孟司さんの本を読んでいて、脳は人間に生じた剰余なのであるという話を読んで、ふーんと思ったことがある。剰余というのは必然的なものではないということでもある。なければいけないものではないがなぜかできてしまったのだ、と。しかし、それは進化の産物としては説明できないということでもある。そういうお荷物は進化の過程で淘汰されてしまうはずなので、われわれが余剰をもてているとしたら、ヒトは動物界で淘汰圧を逃れた生き物となってしまったので、余計な荷物を負っていてもなおかつ生き残れるのだということになるのであろう。
 人間における言語の獲得といったことが進化の産物として説明できるかが最大の問題である。言語は脳にはっきりとした対応構造を持つ。普通そういうものは他の動物が別のことに用いていた構造が転用されるようになるということが多いが、言語の場合そういう指摘もなされていないように思う。チョムスキーは脳の言語を可能にする構造は進化の産物ではないという立場であったと思う。
 「わたしたちの生きづらさは、石器時代の脳が現代文明に適応できないため」という進化心理学の説明は説得的である。しかし「家族や仲間といることで幸福を感じ、共同体から排除されることを恐れる」のであれば、「鍵のかかる部屋」を必要とする個人というのは進化のくびきを逃れたヒトということになる。そもそもリバタリアニズム個人主義に親和的であって、個人主義的心性は進化論からは説明が難しい。
 個人主義というのは進化の産物ではなく文化の産物(ミーム)なのだろうか? わたくしは個人主義というのは西欧近代の発明であると思っているのだが違うだろうか? 宗教の起源というのはきわめて難しい問題だが、それも石器時代の生き方に由来するのだろうか?
 「貨幣の起源は進化論的には互酬にある」としても、貨幣などというそれ自体では何の役にも立たない紙切れや金属が互酬に使えるというのが不思議である。誰かが人間はシンボルを操るものであるといっていた。お金はまさにシンボルである。
 カーネマンらの行動経済学が示したことは、われわれは通常の生活では知性などというのはあまり用いておらず、好き嫌いとかをふくめた情緒的、感情的な反応で多くのことを乗り切っているということなのかと思う。それは合理的思考をする経済人を前提に構築される経済学というものへのわれわれの違和感にうまく応えるものであった。
 「ダーウィン・ウオーズ」という本で、「血縁淘汰説」を完成させたプライスという研究者が、自分の説が導くものに絶望し、トルストイキリスト教に帰依して貧窮のなかで自殺していく姿が描かれている。われわれがおこなう、一見、無私の利他的行為と見えるものも「利己的遺伝子」の“冷徹な計算”の産物にすぎない、という結論に耐えられなかったのである。ところで、これからもトルストイの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」は読まれ続けるであろうが、「人生論」のようなものはもう読まれることはないであろう。だが、わたくしの中学高校時代には読んでいるひとはたくさんいたし、そもそもこういったものが「白樺派」をつくったのであり「新しき村」をつくったのである。トルストイ晩年の錯乱も、そしてプライスの錯乱も、われわれがいまだに持っている「石器時代」の脳のもたらす変奏の一つにすぎないのだろうか?
 われわれの生きている世界が複雑系である、ということはラプラスが想定したような魔は存在できないということであり、物理的決定論は否定されるということなるのであろう。別に生気論をもちだしてくる必要はまったくないが、それでも未来は決定されないということである。ポパーが「未来は開かれている」というのは、われわれのしていることは「試行錯誤」なのであり、したことの正否は試行する者ではなく、試行された場がそれを決めるということであろう。
 複雑系の中で、数学的な論理によってではなく、ヒューリスティックな方法でわれわれは生きている。橘氏はこれをも知性であるというのだが、遅い思考ばかりでなく、速い思考もまた知性であるということなのであろう。
 複雑系のネットワークでは、初期値のわずかな違いがその後の結果に大きく影響するということで、どこかで蝶々がはばたくと、はるか遠いところに嵐が生じるという話をきく。なんだかインチキくさい感じが以前からしているのだが、どこかで読んだヒットラーの母親の体内で、ヒットラーの代わりに女の子が受胎していたら世界は変わっていたという話は妙に説得的であった(ヒットラーではなくスターリンであったかもしれないが。あるいはマルクスの代わりに女の子が生まれていたらとか)。
 「ダーウイン・ウォーズ」はドーキンス派とグールド派の争いをとりあげたものである。橘氏ドーキンス派なのだと思う。日本では、人文側がグールドの方にいって、理科系側がドーキンスにいく傾向があるのではないだろうか? 橘氏は人文系のひとなのではないかと思うので、そういう氏がドーキンス側にたって書いているというのが本書の面白さなのだと思う。
 「進化心理学はきわめて強力な説明原理であり、“こころの問題”を一刀両断に解明してしまっている」などということはグールド派は決していわないはずである。何しろグールドは「神と科学は共存できるか?」などという本を書くひとである(もちろん、「共存できる」といいたいわけである。原題は「Rocks of Ages」なのであるが、これを単数の「Rock of Ages」とすると、「年を経た岩」で堅固な拠り所としてのキリスト教信仰という意味になるらしい。複数になっているのは宗教も科学もともに堅固なよりどころであるという主旨を反映しているのだろう。「神と科学は共存できるか?」に付された「グールドはどこに着地しようとしたのか?」という50ページほどの論で、新妻昭男氏はグールドの「人文主義ナチュラリスト」という自己規定を紹介している。
 「人文主義的」というのが面白いと思う。ウイルソンなどへの対応をみても、グールドは随分と政治的なひとだと思うし、実際「左派」とされていたようである。生物学に「右派」とか「左派」とかがあるということ事態が現在の日本では信じられないことだろうと思う(しかし、マルクス主義の威光が強かった時代にはルイセンコ論争とかで日本にも生物学に左派はいたと思うけれど)。日本の科学者は「科学」のひととしてのドーキンスには共鳴しても「悪魔に仕える牧師」とか「神は妄想である」とかを書くドーキンスについては一体何とばかなことをしているのだろうと見ているだろうと思う。そうすると、日本の科学者が一番親近感を感じるのはウイルソンなのではないかと思う。ウイルソンというひとはどうも政治音痴にみえるとことがあって、ラディカルということがよくわからない人なのではないかと思う。自分の「社会生物学」がどうして地雷を踏むことになったのかがよくわからなかったひとなのではないかと思う。
 橘氏は進化論のもつ政治的含意もふくめて十分理解したうえで、その論を展開しているはずである。だから日本にグールド派がいれば、そこから大きな反論がでてくるはずなのだが、社会生物学論争などというのがまったく生じることのない日本においては、明確な敵は見えず、ただ暖簾を一方的に押して独り相撲をとっているだけのようにもみえる。
 ハリスの「子育ての大誤解」は、ピンカーの「人間の本性を考える 心は「空白」の石版か」で大きくとりあげられていたので読んだことがあるが、ハリスさんの説は現在、学会でどの程度の認知を受けているのであろうか? わたくしの父は小児科医で「子育て」を専門としていたし、わたくしも若い頃、伊丹十三さんや岸田秀さんに相当いかれたことがある。何しろハリスさんは親がどう育てようろ子供には何の影響もないという説で、もしそれが本当であるならば、フロイトの説はいったいどうなるのだということになるわけである。フロイトの説はどう考えても「科学」たりえないとは思うけれど、それによって救われるひとがいるのも事実で、伊丹十三さんも岸田秀さんもその父や母と相当な葛藤があったひとのようである。伊丹さんなんか子育てこそが男子一生の仕事みたいなことをいっていた。不勉強でこの方面についての最近の動向を知らないのだが、日本でもいまだに精神分析というのは精神医学の分野のなかで一定の力を持っているのは確かだから、ハリス説が世界を席巻しているというわけではないのだろうと思う。
 ポパーは「われわれ知識人は何千年来となく身の毛もよだつような害悪をなしてきた」として、知識人の作った理念や理論がわれわれが相互に殺し合うことをさせてきたとする。われわれ知識人がどのようなことつていも、決して十分には知りえないのだということを認めることが、知識人が世界にできる最大の貢献であるとしている。「カール・マルクス、あるいはそのもっとも純化した試みであるカンボジアポルポト」は何が正しいかをわれわれ(知識人)が知りえるとしたことによっておきた悲劇である、そうポパーはいう。ポパーも進化論を自分の思考の基礎におくとするが、それは「未来は開かれている」つまり未来はどのようなものであるかはわれわれにはわからないということを肯定的にとらえようとするものである。
 本書の橘氏は自分が以下書くことは正しいとは限らない一つの見方の提示であるといっているものかかわらず、最終的にはわれわれは進化の産物であることによって決定され限定されているという地点に落ちついていく。進化に規定されている以上、選択肢は限られているといった感じである。つまり自分の説は多様性確保のために投じた一石であるとしながら、最後の論調ではわれわれの選択肢はほとんどないという方向へいっているように思える。
 進化論に依拠するといっても随分と異なった立ち場が存在するわけである。わたくしはポパー派のようで、橘氏のいう進化論に依拠して考えるという立場自体は受けいれるのだが、本書で氏が提示してる結論的なもおについては、納得できないものが残った。
 

不愉快なことには理由がある

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