今日入手した本

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 ピンカーが「長い歳月のあいだに人類の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしている」ということを論じている本。
 まだ50頁くらいまでしか見ていないが、すでにそこに人類前史あるいはホメロスギリシャヘブライ語聖書、ローマ帝国といった時代に、人類が(今のわれわれからみれば)いかに残虐で暴力的であったかということが延々と述べられている。われわれの多くは、今のイスラム国のしていることを非道と感じるけれども、ホメロスの時代、あるいはローマの時代には敵をそのように扱うことは何の疑問も生じない当たり前のことであったわけである。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」にこういうところがあった。「もしホメロスの詩で歌われているのがミュケナイ時代のギリシャであるならば二人の勇士が戦って勝ったほうが負けた方の死骸を戦車の後に付けて引きずり廻すという種類のことが行われたミュケナイ時代のギリシャは文明ではない。それ故に文明は人智が或る段階以上に達して始めて現れるものと考えられて、この文明の状態は我々が人を人と思うということに尽きる・・」
 ピンカーの本はどれも長いというかくどいが、本書は特に長い。分厚い本で上下2巻、併せて1200頁ほど。上に書いたように時宜にかなった本であると思うのだが、とても高価なものになってしまっている。どれだけの読者にはたして届くのかというのが問題かもしれない。
  ドーキンスのレクチャーの記録+吉成真由美氏のインタービューという構成。
 わたしはドーキンスととても静的な人であると思っている。あるいは典型的な理科系の人。だからたとえばイーグルトンのような動的な文化系のひとにかかると手もなくひねられてしまう。
 まだほとんど読んでいないが、おそらく本体のレクチャーは非常に楽しいものになっているのではないかと思う。しかし吉成氏のインタビューに答えて「今日、特にアメリカで顕著になっているのですが、無神論が以前よりずっと受け入れられやすくなってきています」とか「無神論を受け入れるうえで、最も大きな障害となっているのが、生きているものがとてもよくデザインされているいるように見えてしまうという、デザインの錯覚と、宗教なしには私たちは善ではありえないという、まったく誤った感覚」などといわれるとはてなと思ってしまう。上で吉田健一がいっている「人を人と思う」ということが進化とはまったくかかわらないように思えるということがその一番の根にあるものなのではないだろうか? 進化生物学では狩猟採集時代までの人間しか説明できない。一見文明の状態にあるように見える人間の深部にも狩猟採集時代の人間が潜んでいることを忘れるな、という方向の議論であれば理解できるのだが。