長谷川眞理子「進化的人間考」(3)

 前回(2)から大分空いてしまったが感想の続き。

第11章 三項表象と共同幻想
 ヒトは食べていくためにも共同作業が必要。とすると「個体は基本的に一人で食べていく」という仮定を前提とする行動生態学の知見をそのままヒトに当てはめることはできない。
 そういって長谷川氏は「三項表象」という概念を導入する。この「三項表象」こそが、言語や文化といったヒト固有の性質の根幹にあると自分は考える、と。
 三項表象とは「私」と「あなた」と「外界」の関係で、「私」と「あなた」が「外界」の何かに共通に関心をもっていることを「私」と「あなた」がともに知っているということ指す。
「私は、あなたがイヌを見ていることを知っている」「あなたは、私がイヌを見ていることを知っている」、そして、「お互いにそのことを知っている」ということで、これは非常に高度な認知能力がなければできないことなのだそうである。
 言語のような任意の記号とそれを運用する文法規則を持ったコミュニケーションシステムを持つ動物はヒト以外にはない。チンパンジーは記号を覚えるが文法規則は習得しない。そもそも言語をおしえられたチンパンジーはそれを使って話そうとはしない。かれらは教えられた言語をモノを要求するためだけに用いる。単に自分の欲求を表現するためだけに用いる。
一方ヒトでは、言葉を覚えたばかりの子供でも世界を描写する。他者(お母さんの場合が多い)も同じものを見ていることの確認のために描写する。チンパンジーは自分の世界の理解を他のチンプと共有しようとする性向を持たない。
この三項表象の理解、互いに思いを共有することの志向が言語を生んだと長谷川氏はしている。
 三項表象の理解があれば、目的の共有が可能になる。「りんご」についてひとそれぞれが思うことは異なるかもしれない。まして「自由」「勇気」「正義」などではさらにそうだろうが。
 例えば、「きみがぼくにその街を教えてくれた。」というのは村上春樹さんの近刊「街とその不確かな壁」の書き出しであるが、いきなり「きみ」と「ぼく」がでてきて、そして「その街」がでてくる。まさしく「三項表象」である。
小説というのは多くの場合、「きみ」と「ぼく」が同じ対象を見ても違うことを考えることが主題となっているのではないかと思う。あるいは主人公が他のひとがまだ見ていないものを発見する状況(梶井基次郎檸檬」?)。
 詩とか絵画とか音楽というのは、いずれもいままでわれわれが知らなかった言葉使い、光景、音の組み合わせを発見しようとする試みなのだろうと思う。
 進化を考える場合につねに問題となるのは、人間以外の動物と人間は不連続か連続しているか?である。ドーキンスとグールドの対立もそこに帰着するはずである。それ故グールドは「神と科学は共存できるか?」(日経BP社 2007)という(わたくしからみれば奇妙な)本を書くことになる。
 この本の日本語訳は不思議な構成になっている。巻末に付された「グールドはどこに着地しようとしたのか?」という訳者解説は新妻昭夫氏が「なんでグールドがこんなおかしなことを言いだしたのか」を説明したものになっている。グールドは「科学は経験的な領域を理解しようとする試みであるが、宗教は意味と道徳的価値をあつかうので科学とは別の試みである」としているのだ、そう新妻はいう。
 この解説を読むと合衆国においてキリスト教というものがいかに厄介なものになっているかがよく解る。多分日本にも進化研究者でキリスト教徒というひとはいるだろう。しかし、自分が宗教を信じているが進化について研究していることに特に矛盾を感じてはいないだろうと思う。自分の仕事はモノの研究であって、ココロの部分には関わらないから、と。いいか悪いか議論が解れるところであろうが、日本の研究者の多くは蛸壺のなかで研究している。長谷川氏のような人は例外なのである。
 さて、次の第12章「群淘汰の誤りとヒトにおける群淘汰」からは議論方向が変わって進化理論がどのように進展してきたかについての論考となっていくので稿を改める。