長谷川眞理子「進化的人間考」(5)第14章「ヒトの適応進化環境と現代人の健康」 第15章「ヒトの適応進化環境と社会のあり方」 第16章「言語と文化」 第17章「人間の統合的理解の行方」

 直立二足歩行する人類は600~700万年前に出現した。さらに20万年の間にホモ・サピエンスに進化した。
 「適応進化環境」という概念がある。
 先進国の食生活の問題は砂糖・塩・脂肪の摂りすぎである。これらはみなヒトの生存に不可欠なものであるが、問題は摂取に歯止めがかからないことである。なぜ歯止めがかからないのか? それはヒトの進化史の大部分の時間でヒトはそれらを不十分にしか摂取できない環境の中で生きてきたからである。
 長い人類の歴史を見れば、富の蓄積があるのが不自然であり、大部分の歴史において自由とか平等などという概念の生ずる余地などない環境でヒトは暮らしてきた。
 ヒトは全体像を把握できるので、不公平を認識できる。またヒトは文化を持っている。本書では文化を「遺伝的な伝達以外の方法で、ある形質が世代を超えて伝達されること」と定義している。それを可能にさせているものが「三項表象」であると長谷川氏はいう。この「三項表象」を可能にしているのがミラー・ニューロンではないか? 「三項表象」を可能にさせているのがこれではないか?とも長谷川氏はいう。文化の伝達に言語が大きな役割を果たしていることは間違いないが、その言語を可能にしているものも「三項表象」ではないか?ともいう。
 言語は文法構造を持つ。それは音声によるコミュニケーションから自然に創出されたのだと長谷川氏は主張している(つまり言語の創出には特別な遺伝子の存在を仮定する必要はないのだ、と)。
 最後にヒトという生物に固有な形質として「自己の認識」があるとしている。N・ハンフリーは直立二足歩行がそれを生んだとしているらしい。
 人間の理解については従来は自然科学と人文科学が別個におこなってきたし、相互の交流もほとんどなかった。最近になって、ようやく自然科学から人文科学への侵入が少し行われるようになってきているが、今のところはまだその逆はおきていない、と。
 経済学はその学の根底に「経済人」という仮定をおくが、それが現実の人間の姿であるとは主張しない。(行動経済学などは少し違うかもしれないが。)
 ということで最後に「文理融合」が論じられる。自然科学は還元主義的であるが、人文科学は個別性・歴史性にこだわるし、最後には「価値」の問題までがからんでくる。
 人文科学の分野の人は理系の学問を否認はしないが、理系の学問のやりかたでは生と死の問題までは解決できないと長谷川氏はしている。
 わたくしは「生と死の問題」の問題についても一般論であれば理系の学問にも参画の余地はあると思う。しかし○○さんの生、☓☓さんの死については扱えない。だから文学の領域のような個別性にかかわる領域については自然科学だけでなく、人文学もそこには手をだせないのではないかと思っている。
 牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷
 After the first death there is no other
 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。・・
 Let us go then,you and I ,when the sky is spreaded against the sky・・
 こういう言葉はそれが発せられた時点で、われわれは新しい現実を知るのであるから、そもそもそれは学問の対象にはなりえない。
 長谷川氏は哲学や倫理学で生と死の問題が解決がつくとは思っていないが、進化生物学でそれが解決するともまったく思っていないという。ただ哲学や倫理学の分野に進化生物学の研究をとりこむ余地はあるはずだという。
 わたくしには、哲学や倫理学の分野に進化生物学の研究をとりこむ余地があるとは思えないのだが、それらの学問を相対化する力はあるのではないかと考えている。
 本書の最後の第18章では「文理融合による人間本性の探求の試みとしての進化生物学・人間行動生態学の発展」をみていくと長谷川氏はしている。そこで、進化心理学という分野を最初に日本に持ち込んだのは氏の夫君である寿一氏と自分ではないかと長谷川氏はしている。まだまだ孤軍奮闘なのである。
 最終章は20ページ近くあり、一章が10ページ前後である本書のなかでは例外的に長いし最終章なので別にみていくことにする。