長谷川眞理子 「進化的人間考」(4) 第13章「人はなぜ罪を犯すのか - 進化生物学から見た競争下での行動戦略」

 ちょっとこの章のタイトルは厳しいのではないかと思う。人間以外の動物が「罪」を犯すとは思えないからである。
 1970年代半ばにでたE・O・ウイルソンの「社会生物学」からこの種の問題提起がなされてきたわけであるが、これはダーウインの「種の起源」出版当初からすでに議論されていたのではないかと思う。要するに進化からものを見るというのは現状肯定につながるのではないかということである。
 長谷川氏はしかし現在の進化心理学や人間行動生態学はそれを乗り越えているとしているようである。現在の学問ではヒトの行動はヒトの脳の特性と社会状況との相互作用として生じると理解されているのだ、と。法律がなければ犯罪もない。法律をもたない狩猟採集民でも「悪い行い」という概念は持つ。
 長谷川氏は「倫理や規範の生成はヒトの脳の基本的な働きが組み合わさって創発される感情に基づく」としている。資源をめぐる競争に勝つための装置の一つが攻撃性である、と。あくまで一つであってすべてではない。どの戦略がよいかは一義的には決まらない。
 ここで「囚人のジレンマ」の話がでてくるが、わたくしは数学に弱いためか昔から「囚人のジレンマ」の話をうまく理解できたことがない。ということでここは飛ばさざるを得ない。
 長谷川氏は、「近代国家は、みながある程度のコストを負担して、集団的協力状態が維持されるようにすることを選択した社会」であるとする。別に他者を助けようとしているのではなく、そうすることが楽しいからそうしているのだ、と。
 「ヒトの行動はヒトの脳の特性と社会状況との相互作用として生じると理解されているのだ」という長谷川氏の主張が「神様がヒトをそのようにお作りになった」という説明とどのように違うのかがわたくしにはよく理解できなかった。
 わたくしは進化生物学からヒトを説明できるのは狩猟採集までのホモ・サピエンスであって、農耕を始めてからのヒトをそれで説明するのはかなり難しいのではないかと思っている。
 山川の「世界史」では「序章 文明の起源」は3ページほどで「農耕・牧畜の開始」から「歴史」が開始されるかのようである。先史時代という語は歴史以前ということであろう。
 たかだか一万年という時間では人間の生物学的特性は変わるはずはないので、これを進化生物学から説明しきるのは無理である。
 自然科学と人文科学という区分がある。人文科学に属する方々のほとんどは自然科学には一顧だにしないだろうと思う。一方自然科学の方面の方々も従来は人間の方は人文科学にまかせて、チンパンジーまでを自分の領域としてきたと思う。棲み分けが出来ていたわけである。そこに果敢に切り込んだのがウイルソンで、それ以来の時間はまだたかだか50年くらいのものであるから、数千年の歴史の厚みを持つ人文科学にくらべて、幼稚園(あるいは乳幼児)レベルであるのは致し方ないと思う。だから長谷川氏も自然科学からヒトをみるやりかたがまだよちよち歩きであることは十分に自覚しているはずである。
 長谷川氏に「進化生物学への道 ドリトル先生から利己的遺伝子へ」という著書があり(岩波書店 2006年)、そこにアメリカの有名なプレマック夫妻が1979年に来日した際に夫妻をアテンドした経験が書かれている。(夫妻の著書「心の発生と進化 チンパンジー、赤ちゃん、ヒト」(新曜社 2005年)にもその翻訳の監修者である眞理子氏の夫君である寿一氏の前文「プレマック先生のこと」があり、そこにも夫妻をアテンドしたエピソードが書かれている。
 さて「進化生物学への道 ドリトル先生から利己的遺伝子へ」では、来日中のプレマック氏に自分達が投稿準備していた論文をみてもらった経験がかかれている。そこで英語の間違いを指摘されただけではなく「観察事実は面白いが、理論的には完全に間違っている」という指摘を受けたことが書かれている。なぜならこの論文は群淘汰の考えで観察結果を解釈しているが、その考えは今では完全に間違いであることがはっきりし、遺伝子淘汰の理論で解釈しなおさなければいけない、と、当時の東大理学部人類学教室では欧米ではもう捨てられた「動物は種の保存のために行動するという古い考えが何の疑いもなくまかり通っていたのだ、と。プレマック氏はこれを読めといってドーキンスの「利己的な遺伝子」をアメリカから送ってくれたのだ、という。このころは欧米の研究者と連絡をとるには手紙か国際電話という時代であり、欧米の学術誌が日本に届くのは数か月遅れという時代だったのだ、と。
 「利己的な遺伝子」の原著は1976年に刊行されている。日本語訳は1980年に「生物=生存機械論」という奇妙な題で刊行されている。「利己的な遺伝子」という題では何のことやらと思われることを危惧したのであろう。のちに1991年「利己的な遺伝子 増補改題『生物=生存機械論』」という題に改められて再刊されている。「生物=生存機械論」が334ページ、「利己的な遺伝子」529ページだから随分と大きな改定がなされているのであろう。前者は全11章。後者は全13章である。わたくしは両方とも持っているのだが、後者の12、13章は読んでいない。今ちらっと斜め読みしたが、第12章は例の「囚人のジレンマ」の話、第13章は「延長された表現型」のエッセンスのようなものらしい。とすれば数学に弱いわたくしの頭では第12章は理解不能であろうし、「延長された表現型」はすでに読んでいるから、第13章は読まなくてもいいのかもしれない。
 さて長谷川氏が「進化的人間考」のような本を書くのは、日本でいまだに群淘汰の見方を多くの人がとっており、人文学の分野のひともまた例外ではない現状を少しでも改めたいという思いからなのではないだろうか?
 しかし人間は他の動物とは隔絶された特別な存在であるという見方は西欧のようなキリスト教圏だけでなく、日本のようなキリスト教の外にいる国でも広くいきわたっている。
 呉智英氏の「つぎはぎ仏教入門」(2011年筑摩書房 2016年ちくま文庫)によれば、すべての宗教には死の克服がその中核部分にあるという。すべての動物のなかで、自分の死というということを想起する動物は人間だけである。だからこそ人文学が生まれる。長谷川氏が本書をふくむ多くの著作で試みようとしているのは、人文学の分野に自然科学の側からささやかでも切り込んでいきたいということなのだと思う。おそらく自然科学の分野の知見から人間をみる方向が今まであまりにも軽視されてきたので、その方向は新鮮である。
 さて、経済学者竹内靖雄氏の「〈脱〉宗教のすすめ」(2000年PHP新書)の末尾に付された「宗教に関するテスト」によればわたくしは「脱宗教人間」と診断される、それも重度の「脱宗教人間」のようである。そうであるからこの長谷川氏の本も読める。
 しかし世には多くの「宗教人間」「親=宗教人間」がいるのだから、そういうひとには長谷川氏の本の主張が届くことを期待しても、それはなかなか厳しいのではないかと思う。