長谷川眞理子 「進化的人間考」(2)

 第6章 ヒトの食物と人間性の進化
 ある生物が何を食べるかは、その生物の進化にとってきわめて重要。例)ガラパゴス島のダーウインフィンチ。
 ヒトは昼行性の霊長類だが、昼行性の霊長類の主食は通常は果実や歯葉などの植物である。昆虫も食べるが他の霊長類の肉を食べる霊長類はほとんどいない。わずかな例外としては、チンパンジーは肉も食べるがその摂取量はごくわずかである。ヒトは一日260~1360gの肉を食べる。チンプの100倍くらいになる。しかもチンプの食べるもののほとんどは簡単に手でもぎ取れるものである。ヒトのように地中からわざわざ掘り出すようなことはない。
 ヒトが肉という栄養価の高いものを食べるようになったことにより、ヒトの腸は短くなった。しかし、それを得るために人は社会集団を作らざるをえなくなった。
 もう一つ重要なのは火を使って調理をするようになったことで、エネルギー獲得効率がさらにあがった。火の使用はサバンナに追い出されたためかもしれない。獲得困難な食物を食べることを強いられたためかもしれない。
 わたくしは、アフリカを紹介するテレビ番組などで動物が動物を追いかける場面などを見るので、霊長類もまたそうであるように思い込んでいたのだが、チンプさんよりわれわれホモ・サピエンスのほうがずっと獰猛であるらしい。だから、そういう点で「知恵ある動物」などと胸をはることはできないのかもしれない。知恵があるから調理もできるということなのかもしれないが。

第7章 ヒトにはどんな性差があるのか
 これまではヒトと一括りにして考察し、男と女を区別して考察してこなかったが、男女という生物学的《セックス》と文化が既定する《ジェンダー》の問題は現在でも議論が尽きない論点であると長谷川氏はいう。
 そこでまず長谷川氏の立場。「自然科学」は「仮説の修正機能」を内包しているのである程度客観的な判断に到達できるはずである。
 「文化というものが独立して存在する」という見方は間違いであって、それは脳の生物学的性質の一部である。したがって、性差があることを認識し承認したうえで、それを差別と結びつけない方策を見出す方法を研究し探らねばならない、と長谷川氏はいい、さらに性差が存在することは社会と人生を豊かにするという。とはいっても、日本に連綿として存在するジェンダーステレオタイプには辟易しているが・・。
 配偶相手の獲得をめぐって、雄同士は激しく争うが雌同士にはそれほどの争いはない。それが性差が生まれる原因であるとして、次章では性差の考察に入る。

第8章 ヒトのからだの性差と配偶システム
 多くの哺乳類同様、ヒトも男性のほうが女性より大きい。
 一般に配偶者を獲得するための雄同士の争いが熾烈なほど雄のからだは大きくなる。現在までの研究により、おおよそヒトでもこれが当てはまることが示されている。また女性のほうが長生き。それは、雌のほうが子育てへの投資が多いからである。
 性差が存在するのは、繁殖に関する戦略が雌雄で異なるからである。過去のヒトにおいては男性同士の殺人が極めて多かったことが知られている。
 世界の様々な文化を見てみると、一夫一婦制が16%、一夫多妻が83%であり、一妻多夫はほとんどみられない。しかし一夫多妻が制度として許容されているところにおいてもほとんどの男性は一夫一妻であり、一夫多妻は牧畜や農耕によって富の蓄積が可能になり男性間に富の差ができた社会においてしかみられない。

 第9章 ヒトの脳と行動の性差Ⅰ 食物獲得との関連  第10章 ヒトの脳と行動の性差2 文化との関連 はまとめてみていく。
 どこの狩猟採集民族でも、狩猟は男性、採集は女性という性的分業がみられる。これは子育てが主として女性の役割になっていることに起因するのであろう、と長谷川氏はいう。
 男女間で認知能力にも差があり、もっともよく立証されているのは三次元空間把握能力の差である。男>女 これは文化によるものではなく生物学的なものであることも明らかになっている。(因みにわたくしはこの能力のテストにおいて女性的である。)逆に、物体配置の記憶は女性がまさる。
 社会的葛藤状況での殺人は男性が女性の数倍多い。それも男性同士の葛藤状況で相手を殺す場合が多い。(しかし最近では、殺人率は確実に低下してきている。)
 男児は疑似競争ゲームを好む。(因みにアメリカ北部と南部の男性の研究では南部の男性の方が北部の男性よりずっと強く葛藤を感じる傾向があるのだそうである。)
 言語能力にも性差があり、女性のほうが優れる。
 性差は情動や動機づけを司る大脳辺縁系という「古い」脳の違いとして表れる。しかしヒトでは新しく進化した新皮質があり、文化や学習はここが司る。大脳辺縁系は新皮質とかかわる。言語能力は女性がまさる。
 女性の権利が拡張され、女性の社会進出が進んだのは、従来の文化が男性に都合のよいように男性が作り上げた文化だったからである。では女性が殴り合うような社会になれば、われわれはそれを心地よいと感じるだろうか?

 人間を進化の観点から見る場合に常に問題になるのがここである。それに反対するひとがしばしば主張するのが、「そういう見方がナチスを生んだ」ということである。民族自体に優劣があるのだから、それは固定したものだから、それを改善させることはできず絶滅させるしかない、そうナチスは考えたのだ、と。
 あるいはアメリカでの人種差別の歴史。それを学問的に論じていたのがS・J・グールドの「人間の測り間違い」(河出書房1989)だったと思う。
 むかし読んだ進化の観点から人間を論じた本に、ポルノを読むのは男だけと書いてあった。では女性が読むのは? 「ハーレクイン・ロマンス」の類とされていた。これを読んだことはないが、「キャリアウーマンの恋と成功を描いた娯楽小説」なのだそうである。もっとも最近では「マミー・ポルノ」と呼ばれる分野もでてきているのだそうで、最近映画になった「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」などもその系統らしい。何事も男女平等・男女同権である。
 もしも、現在ある男女差が文化の産物であるとすればそれを変えることは可能である。しかしそれが生物学的なものであるとすれば変えることは難しい。女の子にはお人形さんを与え、男の子には汽車ポッポのオモチャを与えるからいけないのだというひとがいるが、では女の子に汽車ポッポを与え男の子にお人形さんを与えれば何かが変わっていくのか? あるいは男女がまったく同じような服装をするようになれば男女差は減少するだろうか? あるものを「可愛い!」と感じる感性というのは男女平等に備わっているものなのだろうか? 
 さて三島由紀夫に「第一の性」というふざけた本がある(集英社1973)、そこで「男心と来た日には、正に、「複雑微妙、感じ易く、傷つき易く、ガラス細工のような高尚な芸術品」であるにもかかわらず、「女はこれを大切に扱え」とはどこにも書いていないのは不公平である」といっている。さらに「女は「きれいね」と言われること以外はみんな悪口と解する特権を持っている」とか、また「女はデリカシイを欠く」とか、「女は愛する存在で、男は愛される存在」とか「男というものは、シャンとして黙って立っていれば、必ず誰か女がやって来て愛してくれる」とか言いたい放題である。
 三島が進化論などに関心を持っていたとは思えないが、彼は男と女は違うということについての確信犯であったに違いない。あるいは、ほとんど女は眼中になかった?
 わたくしの若い頃確かNHKテレビで成人の日に「大人になるとはどういうことか?」といった討論番組をやっていたのをみたことがある。番組も終わりに近づいたころ、ある女性参加者が「何だか男が大人になることばかり議論しているようですが、この世には女もいるのですが?」と言った。参加者の多くが、息をのんで、「あっ、そういえば世には女もいたのだ」と顔をみあわせていたのを記憶している。
 ここでもすでに何回かとりあげたことのあるバロン=コーエンというひとの「共感する女脳、システム化する男脳」という本がある。(NHK出版 2005年 原題は「The Essential Difference」 で2003刊) そこに「1990年代にはこの本はとても発表できなかっただろう」「数十年前なら、男性と女性の間に心理学的な違いがあると言っただけで非難の的になっていただろう」と書いてある。「性差といわれているものは文化的な力によって生み出されたものであり根本的な性差などは存在しない」とされていたからである、と。氏はもちろん性差を論じること自体が性差別の問題に踏み込まなくならざるをえないことは承知しているが、友人の女性フェミニストもこういう本を書くことを応援してくれる時代になった、と書いていた。
 現在の日本のフェミニストが男女の差を生物学的に論じることにどういう態度でいるのかはよく知らない。自然科学の分野においては、提示される論は仮説であるという認識は現在すべての研究者の間で共有されているのではないかと思う。長谷川氏も自分の考え・見方ではと再三強調している。しかし人文科学の分野においては例えばフロイトの論をフロイトが発見した真理であると思っている人もかなりいるのではないかと思う。あるいは人文学の主張は政治的な目的がさきにあり、その達成道具として「理論」があるのであるから、自分の主張の正否などよりも政治的目的達成が大事と考えている人も少なくないのではないかと思う。
 わたくしの偏見であろうが、人文科学ではわれわれの世界はどのようであるべきかがまず先にあり、それの達成のためにはわれわれはどのようでなければいけないかということから論がつくられていくことが多いような気がする。
 人文科学の人たちからは、自然科学的あるいは生物学的観点からヒトを見ると弱肉強食の殺伐とした世界になってしまうように思われ、「右の頬を打たれたら左を・・」なんて言っている人間は淘汰排除されてしまう。現状の権力機構が肯定され、改革への意欲が殺がれてしまう。あるいは今われわれの多くが是としている西欧世界のものの見方は本来の人間性には反するといって否定されるものとなるということになってしまうように見えるのかもしれない。
 E・O・ウィルソンが「社会生物学5」(思索社 1985)で「道徳を、哲学者の手から一時取り去って、生物学に委ねるべき時期が到来したのかもしれないということを、科学者や人文学者はともにもっと考慮してよいはずだ」などと書き「道徳的判断の神経機構の完全な解明が待ち望まれており」などと書いていたのがいけなかったのかもしれない。
 たかが生物学者風情が偉そうな口をききやがって、お前は現在の男性優位社会がそのまま続くことを望んでいるのだろう、と思われたのかもしれない。
 なにしろ現在の体制はそうなっているのだから、というか科学の説明は現在こうなっていることの説明しかできないわけで、それを肯定できないひとがでてくるのもまた当然であるのかも知れない。プラトンの哲学とかヘーゲルの哲学とかはわたくしはさっぱり理解できないが、かれらが自分は人間についての真理を見つけたとか、歴史の動きの法則を解明したと思っただろうことは何となくわかる。そこには仮説という概念がない。おそらく自然科学が人間にもたらした最大の貢献は仮説という概念を学問の場に持ち込んだことではないだろうか?(もっとも長らくニュートンは真理を見つけたと思われていたかもしれないが・・)
 しかしいまだに自然科学は真理を発見するが、人文学は個々人の言説に過ぎないと思っているひともまた多いのではないかという気もする。
 哲学というものの位置づけ一番大きな問題なのかもしれない。