福井一「音楽の生存価」

  音楽の友社 2005年2月5日初版
  
 おいしい、愉快。最近こんな面白い本を読んだことがない。
 こんなに言いたいことをそのまま書いたら、さぞ気持ちがいいであろう。男子の本懐かもしれない。しかし、敵も多いだろうなあ、とも思う。
 それでその言いたいこととは。
 文明社会は文字がなければなりたたない。しかし、文字のない社会もあり、そこでも人は生きている。文字は生きるのには必須ではない。それでは音楽は? 文字のない社会でも音楽はある。音楽は経済的な余裕から生まれたもので、生存には必須ではないとするものがあるが(J・ダイヤモンド)、農業を行わず狩猟採集で生きる人たちもまた音楽はもっている。歌が生まれたのは25万年くらい前であるとされる。言語は10万年くらい前、農業は1万年前である。歌は農業により経済的余裕が生まれる前からあったのだ。
 音楽はチーズケーキだというものもある。ピンカーである(「心の仕組み」)。その敵、S・J・グールドもまた似たようなことを言っている。彼らは芸術至上主義の罠にはまっている。
 音楽は生存に必須ではないとする上記のような考えに対して、もちろん必須であるとする考えもまたあった。ダーウインは、音楽が求愛から生まれたと考えた。最近ではミラーが同様のことをいっている。音楽は母子の相互作用を強めるとの説もある。
 もっとも説得力があるのは、自分たちもそれに組する「社会化説」あるいは「社会統合説」である。音楽は感情に働きかけることで人間関係を円滑にし、社会の統合に役立つというものである。
 さらには俗説を滅多斬り。
 モツアルト効果:嘘である。はじめ「ネイチャー」にでたから騒がれたけれども、あとで「ネイチャー」で否定された。そのことを知らないでいまだに言っている奴がたくさんいる。(知りませんでした・・・宮崎)
 α波がでる音楽:馬鹿か! α波は「うとうとした」時にでる脳波である。リラックスとは何の関係もない。
 日本人の脳は特殊:角田忠信氏が「日本人の脳」で唱えた。この角田氏の説は、再現性がない。誰が追試しても角田氏がいった結果がでない。だからこれをいまでも支持する科学者はほとんどいない。しかし小泉文夫氏などの音楽学者はこの説を信奉していた。(やはりいんちきなのか? 角田氏の本を読んでいて、角田法で測定なんて書いてあって、なんとなくやばいとは思ったのだが。「音楽」で「ほんとかい、その話。なにか信じられないよ」といっていた小澤征爾氏は鋭い・・・宮崎)
 音楽は右脳、言語は左脳:音楽については言語中枢のような音楽中枢は見つかっていない。脳全体で音楽をあつかっているとしたほうが実態に近い。
 さらに、音楽教育界の問題(音楽がなぜ必要かを示せないため、情操といったわけのわからない言葉に逃げ込んでいる)、音楽心理学の問題(「タブラ・ラサ」論、つまり「空白の石版」説にとらわれた、音楽を知らない心理学者がやっている)、音楽療法の問題(学際的な分野なので、音楽を知らない、医学を知らない、生理学を知らない人たちがとんでもないことを言っている)とあたるところ敵なし、というかあたるところ敵ばかりである。
 チョムスキーが普遍文法をとなえたのに倣って、普遍音楽文法を考えたひとがいいる。レナード・バーンスタインである。
 非音楽家の場合、リズムは左脳、ピッチと旋律は右脳が通常優位。しかし、旋律に注意するか、リズムか音色かで簡単に逆転する。
 生後2ヶ月の幼児でも、協和音と不協和音を弁別する。したがってこれらは生得のものであると考えられる。
 知性や思考はコンピュータで扱いやすい。しかし、人間に根源的である情動はそうはいかない。だから情動はもっぱら人文科学の領域であると考えられてきた。進化心理学によりようやく情動が自然科学の対象となってきた。進化心理学によれば、人間は理性ではなく情動によって意思決定をする。
 情動の中枢は大脳辺縁系である。また眼窩前頭皮質も情動に深くかかわるとされる。これらは音楽とも深く関わるとされている。
 現在、情動の源は扁桃体であるとされている。
 音楽の抽象的な理解は新皮質で、より基本的な知覚は大脳辺縁系などでされると考えられている。音楽に反応する回路は、恐れや喜びなどに反応する回路と同じである。食事や性行動などの快行動に反応する部位である。
 音楽の才能はテストステロン量と関連がある。男性の場合、テストステロンが多いと音楽能力は低く、少ないと高い。一方、女性では、その逆である。音楽を聴くと、男性ではテストステロン値が下がり、女性では上がる。簡単に言えば、音楽を聴くと男女ともに中性化する。性行動が抑制される。音楽は性行動をコントロールし、社会的緊張を緩和する力を持つのである。つまり、音楽の機能は人間の社会化を促進することにある。音楽には生存価がある。
 熟練した音楽家は音楽処理に左脳を多く用いる。第二言語を処理する脳の部分は母語を処理する場所と違っていることが知られているが、音楽もそれと同様に後天的に新しい回路が形成されると考えられている。
 胎児期に脳がテストステロンにされされると左脳の発育が阻害され、右脳が肥大化する。右脳は音楽や数学などの空間認知に関わっている。
 人は先天的に言語取得能力を持っているように、先天的な音楽享受能力ももっている。
 失語症の場合、言語のみが失われる場合と音楽能力が失われる場合の両方がある。
 生まれつき音楽能力を欠くひとは人口の4〜5%いる。失音楽症(かっての音痴)である。これは聴覚や知能、言語能力、記憶にはまったく問題がなく、音楽能力のみを欠く。後天的には右脳の障害で失音楽症は生じやすい。とすると進化的にみて、言語能力と音楽能力は無関係なのかもしれない。
 有能な音楽家の1〜10%は自閉症であるといわれている。統合失調症患者の15%くらいは高い音楽能力を示す。
 一般的知能と音楽才能は正の相関がある。
 音楽療法の効果として公認されているのは、ストレス性疾患と痛みの緩和である。またパーキンソン病の運動能力の改善にある程度効果があるとされており、アルツハイマー病への効果も期待されている。
 
 わたくしはずっと以前から、人間の高次機能は剰余であると信じてきたように思う。人間がたとえば、火を使うといったことを覚えたこと、あるいは道具を使うことを覚えたことなどにより、他の動物より優位に立つことになり、言語といったものを獲得することなくても生き残ることはできたのであり、言語のような機能は進化から説明することはできないと考えてきた。
 なんでそう信じるようになったのかを考えると、どうも養老孟司氏の「剰余とアナロジー」が原因なのかなという気がする。これは「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)に所収されているが、初出は「講座・思考の関数−1 ゲームの臨界」(朝日出版社 1983年)であり、この本も読んだ記憶があるから、もう25年近くそう信じてきたことになる。
 ここで養老氏が問うのは、サルはゲームをするかという問題である。カッシラーの「ヒトは象徴、すなわちシンボル、を操るもの」という定義、岸田秀氏の「ヒトは本能が壊れた動物」説などを考察したあと、いきなり「生物の構造が示す剰余(リダンダンシー)の問題は、生物学では従来ほとんど全く無視されてきた。したがって脳に剰余が生じた理由は明らかにされていない」と述べる。さらに「ヒトに生じた特有の剰余は中枢神経系であり、それもいわゆる新皮質のみである」という。養老氏はここで、剰余が多様性の前提となるのであり、進化の前提でもあるとも言っているようにも読めるのであるが、「生物学ではほとんど無視されてきた」といっているのであるから、言語、宗教、芸術などといったものは生物学的な説明を阻むものと言いたいのであろう。
 わたくしもそれを読んでなるほどと思い、爾来20年以上それを信じてきたわけである。もちろん、ウイルソンの「社会生物学」が、人間の文化も生物学的に説明できるといっていることは知っていた。しかし、それはそういう問題にも生物学がまったく関与できないことはないといっているのであり、文化の根底を生物学から説明しているものとはまったく考えなかった。事実、「社会生物学」では1ページ弱が音楽に割かれているが、真の言語も真の音楽も進化の過程としては説明できないとしているようである。
 最近、いろいろと進化心理学関係の本を読んでいて面白いのは、今まで生物学説明とは無縁と思っていた領域が、生物学の言葉でいろいろと説明されてきているのを知ることができるからである。もっと早くこの方面に関心をもつべきであったと思う。
 音楽は昔から関心がある領域であるので、これを生物学的に説明しようという試みはきわめて刺激的である。もっともわたくしが関心があるのはほとんどクラシック音楽だけであり、そういう“高級な”音楽こそが音楽の精髄であるとするような“芸術至上主義”的な見方が音楽の生物学的意義を見失わせる原因となってきたというのは、福井氏のいう通りなのであろう。ピンカーも、S・J・グールドも、E・O・ウイルソンも音楽というとクラシック音楽を念頭においてしまうのである。だから音楽はチーズケーキになってしまう。
 対談「音楽」(新潮社 1981年)で、武満徹「音楽家という職業は、世の中にそんなに必要ない、いや、なくても生きていける仕事をして生きていく人なんだからね。だけどわれわれ音楽家にとっては音楽がなきゃ生きていかれない、仕事を選んだからね。本当にそうですよ。他人は、音楽がなくったって、みんな生きていかれるんだから。」小澤征爾「だから音楽を職業とする人間の厳粛な自覚がほしいな。」とある。音楽を職業をしている人がそれを自認しているわけである。
 人間、食べないと死んでしまうが、音楽を聴かなくても死にはしない、それは事実である。しかし、ヒトはパンのみに生きるにはあらず、というのは生物学的にも事実なのであるというのが、福井氏のいいたいことなのである。
 ベンゾンもまた「音楽する脳」でそう言っていた。両者ともに音楽はヒトの社会化にかかわるという。しかし、言っていることはほとんど正反対である。ベンゾンは音楽は複数の人間の脳を同調させることにより、集団を維持させるという。福井氏は音楽は集団内の対立を軽減緩和させることにより、集団を維持させるという。まだまだこの分野には、これから解明されるべきことがたくさん残されているということなのであろう。
 「日本人の脳」(大修館書店 1978年)での角田氏の主張が追試で再現不能なのであるとあったのにはびっくりした。これまた20年以上日本人の脳の特殊性という話を信じてきたわけである。漢字とかなという二種類の文字をあやつる日本人の失語症は、アルファベットだけの西欧人の失語症と異なるというようなことが先入観となって、そういうこともあるのかなと思ったのかもしれない。
 さて、クラシック音楽にも生存価があるのだろうか? ベンゾンは演奏とくに合奏という観点から音楽をみていた。福井氏も狩猟採集時代のヒトがみな自分で歌い踊り演奏していたということを重視している。音楽というのは本来、自分でやるものであって、聴くという行為は奇形なのかもしれない。それでも、電車の中でヘッドフォンでシャカシャカ音できいている若者は演奏に参加してしている気分なのであろうか? オーケストラのCDを聴きながら、指揮の格好をしている人のまた演奏に参加しているのであろうか? 優れた芸術は人を一人きりにするというような説をどこかで読んだような気もするが・・・。
 このところ、いろいろな本を読んでいて、学問の動向が理性から情動へ向かっていることを強く感じる。だが、もともと学問というのは理性の産物なのであると思うけれども。もっとも、学問を駆動する動機の根底は情動なのかもしれないが。
 (武満徹「波の盆」を聞きながら。)
 

音楽の生存価―survival value of the music

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