東浩紀「批評の精神分析 東浩紀コレクションD」 その3 データベース的動物の時代 宮台真司+東浩紀

 
 宮台真司氏との対談。2001年のものである。
 いくつかの問題提起について考えてみたい。
 東氏の論その1:戦後日本を振り返ってみると、ある時期に全員が平等だと本気で思ってしまい、結果として学歴社会、競争社会、会社社会が生まれ、今度はその鬱憤を晴らすべく消費社会化し、みんなスノッブになればいいんじゃないかということで1980年代が来た。しかし、それではだめだったし、オウムみたいな狂気まで生み出してしまった。その結果、いまの私たちは、動物化して、低め安定でまったりと生きていく方向を選んでいる。これは最低なのかもしれないけど、歴史的に他の選択肢がつぶされてしまっているので、なかなかそうとも言えない。
 
 「まったり」というのはたしか宮台氏がいいだしたことで、オウムのような非日常の祭りに走るにではなく、何もおきない退屈な日常を生きるしかないということを自覚してだらだらぐだぐだと生きろというようなことだったように思う。今のフリーターたちは宮台氏などの口車にのって「まったり」とだらだらと生きているうちに、財界に都合のいい使い捨て労働者にされてしまったのだろうか? 宮台氏は財界や自民党とぐるになってある言論空間をつくりあげてきたのだろうか?
 バブルの絶頂期には知識人たちは日本が世界の経済を制したと思い込んだのである。世界一の豊かさを実現したが、さて、それでも毎日は空しいなどという世迷い言をいっていたのである。コジェーヴが「ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む講義」の脚注にさらにあとから付した補注に、日本見物の副産物として大した考えもなく書きつけたのかもしれない「動物化」と「スノッブ化」という論に日本のことがでてきたので、うれしくて舞い上がってしまったのである。
 この当時、現在の日本を予見できたひとなど一人もいなかったのだと思う。宮台氏などが財界の都合のいいように言論を導くことができたなどというのは能力の買いかぶりだろうと思う。知識人の言論は、政界の常識「一寸先は闇」の前にあえなく敗北するのである。だから、
 
 東氏の論その2:人文科学的な言説が今後必要かどうかっていう問題ですね。人文科学は、これから凋落の一途をたどるんじゃないか。すべての根幹には「工学的な知」があると思うんです。この2世紀の間世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。浅田彰さんの華麗な文章を読んで「よしきた」と反応している人々は、結局ポストモダニズムのデータベースに反応しているにすぎない。これは「猫耳」に反応しているのと構造的に変わらない。哲学や思想は、いまではそのレベルに落ちている。
 
 東氏は、今後も世界に違和感を覚える人はある割合で世の中にでてくるだろうという。そういうひとが今後も思想や哲学といったものをつくっていくのであろうが、それは世界に違和感をおぼえるひとに提供される消費財に過ぎないという。
 しかし、消費財というなら、まだ需要があるから供給されるという構図の中にある。現在のクラシック音楽や純文学は需要がないところに供給しているようにも思える。ほとんど落語の「寝床」の義太夫状態かもしれない。
 現代思想は俳句同人誌程度には読者がいるのかもしれない。そういう言い方をすれば、クラッシック音楽も純文学も同じなのかもしれないのだが。「わたしの生きがい論」で梅棹忠夫氏が「新聞にも俳壇、歌壇というのがありますけれど、あれを読むのはおそらく本人と選者とぐらいでしょう。あと、だれがよむものですか」などといやなことをいっていた。「新潮」や「群像」など、著者と「文芸時評」担当者しか読んでいないなどということはないのだろうか? だから俵万智の出現は事件だったのである。「金曜の六時に君と会うために始まっている月曜の朝」「知られてはならぬ恋愛なれどまた少し知られてみたい恋愛」。なんでこんなものが短歌なのだと歌人たちは嘆いたであろう。これがベストセラーになるなんて世も末であるあると恨んだであろう。第一、「歴史的仮名使ひ」で書かれていないし。「妻、心筋梗塞にて急逝  『木の実のごとき臍もちき死なしめき』」  ともあれ、《人文科学は、これから凋落の一途をたどるんじゃないか》ということについてはまったく同感である。
 この2世紀の間世界を変えたのは、文学部でもなく理学部でもないかもしれないが、マルクスという在野の学者は世界を変えたと思う。経済学はどちらかといえば工学に近いのかもしれないが、ケインズも世界を変えたのだと思う。ではあるが、マルクスの予言ははずれ、ケインズの「20世紀の終わりには、われわれは技術の進歩の恩恵により、週に5時間らい働けばよくなっているはずだ」という予言もはずれた。経済学はおきていることを説明する後づけの知恵なのであり、遠い未来を予言する力はない。大きな先ではわれわれはみな死んでいるのだから、とりあえず出来ることを議論するのが経済学である。工学が力をもってくるのは、一寸先が闇であるからでもある。
 
 東氏の論その3:人間の行動を説明するには三つのレベルがありますね。神経生理学的、認知科学的、そして精神分析的なレベルです。これは単純にいうと、理系的な人間理解、工学的な人間理解、文系的な人間理解に対応している。
 
 これは誤植ではないか思うくらいで、神経生理学的に対応するのが工学で、認知科学的に対応するのが生物学系だと思う。精神分析的に対応するのが文学であるのはいいとして、文学の側のひとは100年前のフロイトの著作をいまだに聖典としてあがめていて、フロイト本人がどのように主張したのであっても、それはもともと科学ではなく、学問的にはほとんど成立しえないものであったことが、現在では白日のもとにさらされる状況になっていることをほとんど理解していないように思う。脳科学の進歩が示している知見からみれば、フロイト説などなりたちえないということが理解できていない。つまり学際的な知識にあまりに乏しく、丸山真男的にいえば「たこつぼ」の中で学問をしているわけである。それなら「人文科学は、これから凋落の一途をたどるんじゃないか」というのはまことに当然な予想ということになる。
 そういう危機感をもっている点で東氏はまともな人なのであると思う。そういう狭い論壇のとは違う場所から、それとは違う方向に発信していきたいというのは、まっとうな考えだと思う。しかし東氏が新たな読者層を開拓することができたのか、それはわからない。
 これから人間とは何かの理解に徹底的に貢献していいくのは進化学と脳科学なのだと思う。文学が別にすることがなくなるわけではなくて、人間についての一例報告を続けていくのだと思う。脳科学は、種としての「個」しか説明できないと思うが、進化学が種としての「個」だけではなく、種の形成する集団としての「公」を説明する原理にもなりうるのかが問題である。「社会生物学」はそう主張している。それの当否は現在まだ決着がついていないと思うが、それが正しかろうと間違っていようと、どちらであったとしてもそれはどうでもいいことで、その結論とは関係なく生物学的な基盤に依存しないで生物集団を管理管轄できる原理として工学的なものがでてきているということなのだと思う。人文科学は、これから凋落の一途をたどのではないかというのも、人間の社会が万人が万人の敵であるのだろうと、相互に友愛にみちたものであろうと、どちらであっても関係なく、このようにすれば集団は統括可能であるという原理が工学の側からでてきてしまっていることと関係していると思う。
 人文科学者たちは、お互いにお前は間違っている、自分が正しいといいあっている。そこに、そんなことはどうでもいいんじゃないかという人間がでてきて、そのひとのほうが現実に機能する何かを提出してきてしまっている、そういう時代になってきているのである。