東浩紀「批評の精神分析 東浩紀コレクションD」 その2 工学化する都市・生・文化 仲俣暁生+東浩紀

 
 仲俣暁生氏との対談。いくつかのことが論じられているが、ここでは一つの論点だけ。
 東氏の問題提起:最近ネットで、ネット右翼とか嫌韓厨がでてきて右傾化が進んでいるといわれるが、それは違うのではないか? もともと日本はそういう国だったのではないか? 日本における多数派はいつでも、韓国と中国も嫌いで、社会的弱者を差別するひとたちなのではないか?
 そういう言説が今まであまり表にでてこなかったのは、多くのひとが自分の感情を表現できる場をもたなかったためではないか? 今までの言論空間は国民全体の状態を反映していたのではなくて、一部の出版人や大学人が言説を占有して、それを国民の意見と僭称してだけである。それは出版というインフラによって支えられていた。それがネットの出現で変わった。いままで知識人が存在を想定していなかった意見がどんどんと出てくるようになった。これは右傾化でもなんでもなく、ただ実際の状況がみえてきただけである。
 同じことが文学にもいえる。ケータイ小説ははたして文学か?というようなことがいわれているが、これはいままで活字にふれず、活字を書いていなかったひとが簡単に長い文章を書くことができるシステムが作られたという技術的な条件によって生まれたものである。
 文芸誌がなぜ文芸誌だけを文学だと思っているのか? なぜ自分たちの選択が重要だと思っているのか? 文芸誌はある限定された趣味を反映した雑誌でしかないのに。
 知識人の言説は、一方で民主主義的な価値観や個人の自由をいうくせに、他方では、文学の特権性や出版の特権性を前提にしているという矛盾をもつ。
 本当に言論の自由が確保され、発表媒体が民主主義的なものになるのであれば、われわれは嫌韓厨が六割七割いる世界で生きていくしかない。
 もし弱者を救いたいというのであれば、弱者のことなんて考えたくない連中が世界にあまりにも多いということを前提として、弱者を救うことを考えなくてはいけない。リベラルが、人々を救うべきだと主張しても、それは私たちの社会の原理が許さない。「いやいや、オレは弱者を救いたくないから」という人間が必ず出てくるし、リベラルはそのひとたちも許容せざるを得ないのだら。
 昔だったら、そういうひとの意見をマスコミに載せないことによってコントロールできていのだが、インターネットの出現によって、「あいつらは偽善者じゃないか」といったリベラルへの対抗言説のネットワークがすぐ作られる状況になってきている。それをみて、日本人は民度が低いと嘆いても仕方がない。
 
 わたくしはそれほど濃厚なファンというわけではないけれども、クラシック音楽ファンである。そうなってしまったのは中学高校で周囲に半端ではないクラッシック愛好家がいて(音楽の専門家になったものもいる)、それへの対抗上見栄をはって聴きはじめたことによる。なにしろ小学校まではわが家には祖父がきいていた広沢虎三の浪曲のレコードしかなかった(旅ゆけば駿河の国は茶の香り・・・)。お酒を、何とまずいものなんだと思いながら、大人ぶって無理して呑んでいるうちに好きになってしまったのと同じようなものである。
 現在の日本にクラシック音楽ファンというのが、人口のどのくらいいるのかわからないが、おそらく1%もいないであろう? わがやの子ども3人にも一応ピアノは習わせたが、誰一人クラシック好きになったものはいない。そうするともはやクラシック音楽というのはそのままでは維持できない、保護の対象とすべき文化財なのであろう。しかし歌舞伎や能と違い日本固有のものではなく、たかだか明治以降日本に入ってきたものにすぎない。であればそれを保護する理由もない。東京にもいくつかオーケストラがあるが、維持運営が大変らしい。団員の給料もとんでもない薄給らしい。しかし需要がないのだとしたら仕方がないという気もする。
 「新潮」とか「群像」とかいった文芸誌の発行部数はどのくらいなのだろう? おどろくほど少ないのではないだろうか? それ自体は絶対赤字のはずである。ただ自分の出版社で出す本の原稿を確保するためだけに発行されているのではないかと思う。
 「世界」とか「論座」といった言論誌もきわめて小部数なのではないだろうか?
 日本の小説も言説も明治以降の西欧からの輸入品である。
 これらは本来ならロングテールのほうに属する文化なのである。それが主流のような顔をしてきた。その矛盾がネット社会になって崩れようとしているということである。
 クラシック音楽の世界では作曲されたきり一度も演奏されたことのない曲というのが数多くあるはずである。そもそも印刷されず、読みにくい手書きの楽譜のままであった。現在では「フィナーレ」などといった楽譜浄書ソフトが発達し、きれいな楽譜にすることは、手間はかかるが誰にでも可能になった。すでに現在の作曲家はいきなり「フィナーレ」の上で曲をかきはじめるひともいるのかもしれない。さらにそれをMIDI楽器で演奏させることも可能である。その演奏をネット上で公開すれば他人にもきいてもらえる時代になった。クラシック音楽というのは今後その方向でロングテールとして細々と生き残っていくのかもしれない。
 あとはスノビズムであろう。音楽など関心はなくても、めかしこんで着飾っていける社交の場として音楽会が残っていくというようなこともあるかもしれない。
 そうではあるが、音楽の中で、聴いて「精神が動く」という感じがする唯一のものがクラシックなのである。あとの音楽は肉体にしか働きかけてこないような気がする。
 文学でもケータイ小説というのは読んでいないが、多分読んでも何も感じないだろうと思う。竹内靖雄氏が「世界名作の経済倫理学」で、「『若きウェルテルの悩み』などを読んだあとでこのイーヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』を読めば、二百年足らずに間に、文学の世界でも、馬車が走っていた時代と人工衛星が飛んでいる時代ほどの差があることがわかり、人間について書くのにこれだけの進歩があったことを感じないわけにはいかない」といっている。小野寺健氏も、「(『ブライズヘッド・・』を)読んでいるときは至福の時だと言った若い友人がいるが、私は、この気持ちが通じない人は共に語るに足らずとさえ思っている」という(「イギリス的人生」(ちくま文庫))。しかしこの小説の翻訳も長らく日本では絶版であった。もちろん本当の教養人は原語で読むのであろうが。そしてこの『ブダイズヘッド・・』は、小野寺氏もいうように、「この物語背景くらい、われわれ自身の生活環境とかけ離れたものもそうないのだ。これは何万坪といい敷地内に三つも湖があるような華麗な大邸宅に住むカトリックの貴族の息子をオックスフォード時代に友人にもった、語り手のチャールズ・ライダーという男が、戦争中にかつての夢のようなその交際の思い出を回顧して、対照的に大戦末期の貧寒たる人生に思いをめぐらすという、時代離れのした豪華な小説」なのであり、ここで描かれたような濃密な世界は、金のありあまった人間達の世界からしか生まれてこないものなのである。フォースターは「ハワーズ・エンド」で、「この物語はひどい貧乏人には用がない。こうした連中はお話にならないので、問題にするのは統計学者か詩人くらいなものだ。この物語が問題にするのは一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々である」と書いている。小説とは偽善的になるうるくらいには精神に余裕のあるひとを描くものである。文明というのは都市の産物である。都市は狩猟採集時代から農耕時代へと移行し、余剰が発生してきたことから生まれた。
 クラシック音楽だってそうだと思う。オペラなどというあんなに金のかかる無駄は、植民地からの簒奪による西欧社会の爛熟ということなしにはありえなかったであろう。パリのオペラ座のようなものを現在ふたたび造ることは出来るだろうか?
 活版印刷の出現が宗教革命をもたらしたように、ネット時代の到来はあらたな革命的な変化を時代にもたらすのだろうか? 活版印刷によって、それまで一部の人しか読めなかった聖書がすべての人に開かれたものとなった。ネット時代になって、それまで一部の人にしか可能でなかった書くという行為が、すべての人に開かれたものとなった。
 最近、赤木智弘氏が論じているような問題について、わたくしは山田昌弘氏や玄田有史氏や橘木俊詔氏の本は読んでいた。しかし赤木氏がネットに書いていたことについてはまったく知らなかった。赤木氏のことを知ったのは、氏が主張が本になったからであり、その本が新聞で論じられていたからである(氏の主張が本になるきっかけは、そのネットの文を読んで注目した編集者がいたからなのだが)。多くの人がそうなのではないだろうか? わたくしのような活字人間にとっては、活字になっていないものは、なかなかアンテナにかかってこない。わたくしがここでしていることも、読書の感想を書くことなのだから、活字文化、書物文化が前提である。書物文化は少なくとも数百年の歴史があるのだから、そう簡単になくなることはないように思う。
 「本当に言論の自由が確保され、発表媒体が民主主義的なものになるにであれば、われわれは嫌韓厨が六割七割いる世界で生きていくしかない」ということについては、庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(中公文庫)の「四半世紀たってのあとがき」にある「この世界には、大昔から「言ってはならないこのひとこと」「それを言ってはおしまい」といったものが確実にある。実はみんな知っていて、それを言わないためには「それこそ全員が意地を張って見栄を張って無理して」頑張ってきたものがある」という文を思い出した。この「意地」と「見栄」こそが文明の根っこにあるものかも知れないのだが。いうまでもなく、庄司氏は丸山真男のお弟子さんである。
 そして、この文を書いていて何故か思い出したのが、谷川俊太郎氏の詩である。
 
 粗朶拾う老婆の見ているのは砂
 ホテルの窓から私の見ているのは水平線
 飢えながら生きてきた人よ
 私を拷問するがいい
 
 私はいつも満腹して生きてきて
 今もげっぷしている
 私はせめて憎しみに値したい
 
 老婆よ 私の言葉があなたに何になる
 もう何も償おうとは思わない
 私を縊るのはあなたの手にある
 あなたの見ない水平線だ
 
 かすかにクレメンティソナチネが聞こえる
 誰も私に語りかけない
 なんという深い寛ぎ  (鳥羽3)