橋本治「浄瑠璃を読もう」(1)
最初の「『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望」についてはすでに少し論じたので、次の「『義経千本桜』と歴史を我等に」。
ここで浄瑠璃の歴史というか由来が語られる。なんで『義経千本桜』のところでなのかというと、人形浄瑠璃にとって、源義経という人物はとても重要な存在なのだからなのだそうである。「浄瑠璃」というのは仏教由来の言葉なのだそうで、薬師如来に子ども授かるようにと祈った結果生まれた子だから浄瑠璃御前(あるいは浄瑠璃姫)。その浄瑠璃御前はまだ若い牛若丸時代の義経の恋人なのだそうで、二人は別れ別れになり、再会のときにはすでに浄瑠璃御前は死んでおり、義経が墓を詣でると、墓が裂け、成仏した浄瑠璃姫は金色の光となって天空遙か飛び去っていくというような話なのだそうである。この『浄瑠璃御前物語』は戦国時代のはじめには、すでに「人によって語られる」芸能となっていたのだそうである。
人形浄瑠璃には、1)台本作者、2)それを語る太夫、3)舞台で人形を操る人形遣い、4)音楽を担当する三味線弾きの4つからなりたっている。
平家物語は琵琶法師によって語られる芸能であった。とすると浄瑠璃も琵琶法師が楽器を三味線に持ち替えたという要素もあるかもしれない。しかし琵琶は伴奏楽器というよりも、語りの合間にリズムをとるというものであったかもしれない。
一方、能のバックの楽器は笛と鼓と太鼓である。主役は鼓である。
人形と結びつく以前の浄瑠璃はまず語るものであった。語りがあれば、そこにリズムが生じ、あるいは歌(唄)が生まれてくる。もしそこにメロディーが生まれてくれば、まず音楽は語りの側にあって伴奏のほうにはないことになる。語る人間の声が最大の楽器となる。
「浄瑠璃御前物語」が語られていたころには、伴奏の楽器は琵琶であったこともあるし、扇で拍子をとることもあった。語りの芸が完成すれば、そこに人形が加わることも、三味線が参加することも自由である。
「語る」がどのようにして「音楽」になりうるのか? それは「祈りの声」としてであるという。お経はメロディラインをもっている。そこから説教節も生まれる。その伴奏は簓である。説教節や説教浄瑠璃は江戸時代の人々からは飽きられてしまう。それは前世の苦労の結果、神仏となったというパターンが江戸時代の生活に訴えるものがなくなってきたからである。しかし、それは人形浄瑠璃に大きな影響を残した。それは「悲惨に見舞われる主人公のドラマ」と「その主人公は実は神や仏の別のかたちなのである」とする「本地」という形式である。
ここまでが「義経千本桜」の導入としての浄瑠璃の歴史の話である。わたくしは本書によってはじめて浄瑠璃姫のこととかそれと義経との関係とかを知った。こちらが無知蒙昧なのだとは思うが、多くのひとは当然の常識としてこれらのことを知っているのだろうか?
わたくしは日本の古典芸能というものにまったく関心がない。それが我が身といささかでも関係があるものとは思えないのである。そんなことはないぞ、浄瑠璃の物語のなかにはわれわれ日本人がしているものの考え方の原点があるのだぞと橋本氏はいう。それはきわめて説得的である。氏は「浄瑠璃を読もう」という。「読もう!」なのであるから、そこで問題にされるのは4つの構成要素のうち1)の台本作者だけなのである。語る太夫も人形遣いも三味線弾きもまったく考慮にはいってこない。
そしておそらく文楽が古典芸能であるとされるのは、その物語こそ古いものとなってしまったが、それの形は芸術であるということなのであろう。だからこそそれにかかわるひとが重要無形文化財であったり人間国宝であったりすることになる。
本書では、語りの部分の文がいくつも紹介されている。それは序詞、枕詞、縁語、掛詞などの王朝和歌以来の常套的な修飾修辞に充ち満ちているから、耳できいても理解できるとは思えない。
それではその音楽、つまり文楽から人形を除いたものが音楽自体として魅力的なのかといえば、(ほとんど聴いたこともなくていうのは間違いだとは思うが)たぶんそうではないのだろうと思う。だから文楽の音楽の部分を自分にとってのただいま現在に必要なものとして聴くひとはほとんどいないのではないかと思う。オペラというのが舞台と演技なしの演奏会形式という形でも成り立つのとは、そこが異なるように思う。
わたしが知っている琵琶の音というのは武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」である。お経のメロディーは黛敏郎の「涅槃交響曲」である。
「ノヴェンバー・ステップス」は琵琶と尺八のための二重協奏曲といったものであるが、琵琶や尺八がオーケストラと絡むことはあまりなく、現代音楽風のオケと尺八や琵琶が交互にでてくるような形になっている。つまり琵琶や尺八は間の手というか音楽を中断するものとして出てくる。琵琶にくらべれば尺八は旋律的なところもあるのだが、やはりそれは音楽(旋律)ではなく響きである。西洋音楽からみると楽音ではなく雑音であるとされるような音を多く含む。
楽音というのは明かに不自然なものであるので、そういう雑音があるほうが自然なのである。現代音楽というのはそれまでの音楽にくらべれば音楽が進行しないというか響きにより重点がおかれる傾向があるが、それでもこういう音楽で聴くと「楽音」である。
「涅槃交響曲」の最後に朗々と歌われるお経は、お経のなかでも例外的にメロディアスなものらしい。つまりわれわれはお経だけをとりだして音楽としてきこうと思うことは、ほどんどないということである。
橋本氏もいうように浄瑠璃でもっとも音楽であるのは、語る太夫の声であって、三味線などは明かに伴奏あるいは間の手で、従の存在らしい。世界の多くの音楽がそうなのではないだろうか? 声が音楽で、あとの楽器は主としてリズムを担当。オーケストラなどというものを発達させた西洋の方が異常なのである。そしてその異常な西洋音楽が世界を席巻して、日本にもたくさんのオーケストラが存在する。
片山杜秀氏の「線量計と機関銃」を読んでいたら、同じ「はしもと」でも大阪の橋下市長が大阪市音楽団(吹奏楽団)や大阪フィルといったものや、あるいは文楽についても助成を減らそうとしていて、そのために大阪のクラシック団体は衰亡の危機にたたされていることについて論じていた。
「クラシック音楽は皆が必要としているわではなく」、そもそも歌舞伎や文楽や雅楽や声明、長唄、三味線、お琴、尺八だってそうであるといって、でもそれらは日本の歴史的遺産であるからその保護は国家のつとめというのはまだ納得性があるが、明治以降日本にはいってきたクラシック音楽の演奏団体をなんで国が保護しなくてはいけないのかということについては、日本のオーケストラの事務局のひとでさえもその必要性を示す論理とか哲学とかを打ち出せないと白旗を掲げつつあるひとが多いと片山氏はいって、「みんなに必要だとか」「伝統がどうとか」いったら負けである。「それを聴きたい人が(ある程度の人数)いて、「そういうものがないと社会の文化的水準を保てないというコンセンサスがあるとすれば」、そういうものは存続させるべきというのは当たり前のことなのだ、といっている。
わたくし自身はクラシックファンではあるが、「そういうものがないと社会の文化的水準を保てないというコンセンサスがある」と主張できるのかは疑問に感じる。日本が明治期に西洋を受容して、その西洋のなかにはクラシック音楽というものもあったのだから、それの根っこが日本で枯れると、日本の西洋受容そのものの理解が不完全になるというのは、論理としてはその通りなのであろう。しかし明治に西洋からはいってきたものでその当時の日本になかった最大のものは「個人」なのだろうと思う。クラシック音楽というのも西洋における個人のありかたというのを日本人に教えてくれたものとして(文学とともに)最重要なものであったのではないかと思う。
それで江戸期に日本人は個人というものはなかったということを論じて、橋本氏が「義経千本桜」で論じているのは「道理」ということなのである。西洋は「論理」、江戸の日本は「道理」。つまり江戸時代では「独自」ということが許されなかったので、何か新しいことを主張しようと思ったら、それが既定の考えに一致していることをことをしめさなければいけなかった。それが「道理」にかなっているということなのである。
そして橋本氏によれば、日本人はいまだに「論理的に正しいか?」よりも、「道理にかなっているか?」ということにとらわれているのであるから、浄瑠璃はちっとも古びていないということになる。
というあたりはまた稿をあらためて。
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