今日入手した本

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

 「考える人」に不定期に連載されていたものをまとめたもの。「考える人」でちらちらとは見てはいたのだが、いずれ本になるだろうと思ってほとんど読まずにいた。
 橋本氏はわたくしとはおよそ趣味が異なるひとで、歌謡曲だとかチャンバラだとかマンガだとか、氏の得意とする領分はわたくしにはまったく駄目である。
 こちらはハイカルチャー系ということになるのかと思うし、だからこそチェロなども始めたのだとも思うのだが、人形浄瑠璃というのは現在ではハイカルチャーに属するのかもしれない。わたくしは歌舞伎もほとんど見たことがなく、能も狂言文楽もまったく縁がなく生活してきたユーロセントリズムのひとである。
 現在、浄瑠璃を語るひとは、その芸について語るのだろうと思う。歌舞伎などもそうなのだと思う。浄瑠璃も歌舞伎も能も狂言もそこで演じられているものが現在のわれわれにとってアクチュアルであるというのではなく、その様式の完成であるとか所作の美しさとかがもっぱら論じられることになる。
 本書ではそういった芸であるとかは一切言及されない。ひたすら「浄瑠璃を読」むことをしていく。なぜそのようなことをするのかといえば、氏が「人形浄瑠璃のドラマが近代の日本人のメンタリティの原型を作ったのではないかと思っている」からなのだが、必ずしも橋本氏がそのメンタリティを肯定しているわけではない。氏は「江戸にフランス革命を」という本も書くひとである。
 浄瑠璃は江戸の町人文化の産物であって、その江戸の町人文化というものが今の日本人にも多く繋がっているのではないかということのようなのだが、「江戸の町人文化」というのは、政治への参加の道を完全にふさがれているだけでなく、政治などは自分たちには関係ないこととも思っているひとの文化なのである。
 まだ「『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望」という最初の章を読んだだけであるが、どうもそのようなことが書かれているようである。本当に橋本氏のいいうように、浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』は、われわれが映画やテレビで見る「赤穂浪士」とか「忠臣蔵」とかとはまったく関係ない話である。などということをはじめて知ったというのはなんとも情けない話なのであるが、お軽勘平とか定九郎だとかの話は知っていても、全体の中にそれがそういう位置づけになるのかは今回はじめて知ったようなものなのである。
 それで「義経千本桜」とか「菅原伝授手習鑑」(これも知っているのは寺子屋のところだけ)、「本朝廿四考」とか「ひらがな盛衰記」だとか「国性爺合戦」(和藤内という名前だけ知っている)だとか、「冥途の飛脚」だとか「妹背山婦女庭訓」だとか、はじめてその内容を知ることができるわけである。楽しみである。
 では、これを読んで浄瑠璃をみる気になるだろうかというと、ならないだろうと思う。浄瑠璃を読むだろうかというと読まないだろうと思う。読んでも橋本氏以上の読みができるとは思えない。だからひたすら橋本氏に期待なのである。