与那覇潤「中国化する日本」(3)

 
  第3章「ぼくたちの好きな江戸」
 「中国史を一か所で切るならば唐と宋の間で切れる」といった内藤湖南は、「日本史を一か所で切るなら、応仁の乱の前後」といった(「日本文化史研究」)。この説について、それは日本の近世は「室町までの日本中世は日本でも宋朝的な社会が作られる可能性があったが、応仁の乱以降にはその可能性がなくなり、中国の制度とは180度正反対の日本独自の近世社会のしくみが定着した時代なのだと考えろという意味だと思っています。与那覇氏はいう。しかしわたくしは「日本文化史研究」を読んだとき全然そのような方向とは思わなかった。ここは「下克上」などという文脈の中ででてくるので、「大言海」の「此語、でもくらしいトモ解スベシ」であって、日本が社会で下積みのものであっても歴史に関われる時代になった、実力主義の時代、つまり身分制度の崩壊がここにおこった、それが画期なのである、ということなのだと思った(身分社会→実力社会)。だから内藤湖南も、「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感じられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」というのではないだろうか? 山本七平氏が、鎌倉武士の「一所懸命」の時代から今の日本人に通じる日本人がでてきたというのとも通じるものと感じていた。山本氏の「鎌倉」あるいは内藤湖南の「応仁の乱」から、社会の上のものでなくても「自分の主人は自分である」と感じることができるようになった。その感覚はわれわれも持っていて、われわれと同じ感覚を持つ日本人がそこから出現した、そういうことを言っているものと思っていた。
 だからここでの与那覇氏の読みには納得できないものを感じた。江戸の身分社会は、宋代以降身分制を否定した中国社会と比べるときわめて異質であるということを氏は強調するのだが、わたくしが感じるのは平安時代身分制度と江戸の身分制度では同じ身分制度であっても随分と異なったものなのではないかということである。応仁の乱後、「下克上」の前の身分制と、それによる実力社会を知ったあとの身分制が同じであるということなどあるのだろうか?
 戦国時代は天保の飢饉が毎年おきているような、つねに餓死と隣り合わせの時代で、戦国大名の争いは餓死寸前の難民同士の食料略奪合戦であったのであったのだと与那覇氏はいう。天下統一のビジョンの下での争いなどでは全然なかったのだ、と。だから日本の城は城主の私物、私邸ではなく、領民のための公共物、近隣との食料略奪合戦でいざというときには避難民を城郭内に収容して、地域住民の「いのちを守る」ための施設であった。だから戦国大名の仕事とは、領民のための食料物資の効率的な輸送を計る道路整備などであった、と。
 このように日本では「領主が領民を守る」のが当然とされたというのは、国家が市場にまかせて民政機能を放棄していた中国近世と大きく異なる点である。日本でも中世までは、農民がいざとまれば武士に早替わりなのであるから「自力救済」であった。しかし、領主が民を守ってくれるなら「お上に委ねる」ほうがいいのではということになる。これが中国とは異なる独自の日本近世をつくったのだと与那覇氏はいう。しかしこれは応仁の乱よりはあとの時代の話ではないだろうか? 戦国時代以降の日本独自の近世では、領主に公共設備の建設を委ねるのだから当然税金は高くなる。それを作った上の人間は威張る。しかし威張られてもそれでも自分たちの生活は保障される。中国では宗族ネットワークがセイフティネットになった。日本ではいっしょの地域で暮らすひと同士の結束がセイフティネットとなった。(中国の宗族という体制については何もしらないのだが、社会から落伍しそうになり、宗族を頼るようになったものは、成功してそれらを保護している「宗族の長」に頭があがらず、居候3杯目にはそっと出すようなことはなかったのだろうか? そもそも居候などというものがあったということは日本にも擬似「宗族」体制があったということなのだろうか?) とにかくも、戦国大名の領国は現代の「国民国家」のようなものであった。
 そこから話は戦後に飛ぶ。「前後民主主義も戦国時代の遺産」という話である。
1)象徴天皇制:あの信長でさえ、反信長連合に包囲されたときには正親町天皇の仲裁を仰いだことが「象徴天皇制」の定着に繋がった。
2)無思想・無宗教の政権:織田信長石山本願寺に対した「石山戦争」は戦国時代には珍しい食糧分捕り合戦ではない思想戦であった。それに信長が勝利したことが、朱子学体系による中国的な体制とか仏教による王権(タイ)あるいはイスラームに基づく体制(インドネシア)などのような宗教ないし思想によって人々が統合されるのではない体制を日本にもたらした。思想ではなく「メシが食えるかどうか」が体制をきめることになった。体制側は食糧を保障し、身の安全を保障することによって領民を支配した。
 さて江戸時代に(グローバルに見ると時代遅れの)身分制をもたらしたものは何だったのか? それは「イネ」と「イエ」だった。
 日本でジャポニカ米が普及したのは江戸最初の100年の新田開発期で、それまでの日本は畑作中心だった。畑作は収穫がすくなく、なかなかそれだけでは自活はできない。それが荘園体制への不満を生み、悪党、行商人、遍歴職人などを産んでいった。ジャポニカ米の普及によって、自分の田んぼの管理をすればなんとか食べていけるようになった。それによって中国的な自由市場の魅力が薄れた。また水田耕作は人の集約的な使用を必要とする。そのためには大家族制よりもコンパクトなイエのほうが効率がいい。それで次男・三男でも結婚できイエを持つことができるようになって、人口は爆発的に増える。このイエとイネの好循環が戦国時代のどん底から徳川日本が奇跡的な回復をできた理由である。その時代は不自由ではあったが、身分制度によって排他的に占有できる職業や土地があって、それを世襲できるのであるから、もしもそこそこの生活で満足するなら、子孫代々なんとか食べていける家職や家産が、貴族や武士以外にもようやく与えられることになった。「やっと自分も一国一城のあるじ」ろいうころになった(「識の体系」から「役の体系」へ)。だから当時のひとは、身分制度を「同時代の中国人が享受している自由の剥奪」としてではなく、「昔は荘園領主層だけが甘受できた特権がようやく自分たちにも分与されるようになった」、そう受け止めたのではないか、というのが与那覇説である。
 
 少し考えてみる。もしも、自由であるが、餓死するひともまた多くいる体制と、自由ではないが餓死するひとはあまりいない体制のどちらがいいだろうか? もちろん、自由で餓死するひともいない体制が一番いいのだろうが、二者択一であったらどうだろうか? わたくしは自由ではないが餓死もあまりない社会のほうが望ましいと思う。宋代以降の中国は自由であり餓死するひとも少ない社会だったのだろうか? 何しろ国家は国民の面倒をまったくみないのである。宗族制度が非常にうまく機能し、少なくとも餓死というようなことはほとんどない社会になっていたのだろうか? 何しろ日本の戦国時代は天保の飢饉がずっと続いているような状態であったというのである。少なくとも餓死があまりない社会になればそれは望ましい変化であるのではないだろうか?
 人々が豊かになる、飢えない状態になるための一番普通の方向は経済発展、生産力の向上である。宋代の中国はその方向に進んだのであろう。一方、もう一つの方向は、食糧増産である。どうも江戸時代はその方向で成功したらしい。両方のやりかたがあるのであって、どちらがいいということではないような気がする。
 わたくしは、日本が無思想で無宗教の社会となったのは江戸時代の檀家制度のためであると思っていたので、石山戦争の結果なのであるという説明をきいてそうだったのかと思った。われわれは信長の勝利の後の世界を生きているので、今の状態を当たり前と思っているが、信長が勝ったのはただの事実あるいは偶然であって、正しい方が勝ったというようなことでは決してない。たまたま強かったほうが勝ったのかもしれないし、ナポレオンの長靴のような些細なことが勝利を決めたのかもしれない。(今時大戦でナチスが勝利しなかったというのもそれだけの事実であって、ナチスドイツが正義の側でなかったから敗れたのではない。まあ、総力戦での体力に劣ったということなのかもしれないが。)
 
 精神科医中井久夫氏は、「森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗で、その支配地域は民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで今日なお他と画然と区別される。世俗化への道をなだらかにした、プロテスタンティズムに類比的な現象であろう」といっている(「西洋精神医学背景史」)。かりに石山戦争で信長が勝利しなかったとしても、浄土真宗というのは密教などと比べれば格段に世俗的な宗教なので、日本が宗教国家になることはなかったのかもしれない。
 中井氏はまた「宋代は、士大夫階級が北方の騎馬民族に圧迫されて次第に江南の地へ王朝とともに移り、土地と切り離されてもっぱら朝廷に寄生するデラシネとなった時代である」という(「執着気質の歴史的背景」「分裂症と人類」所収。) わたくしが旧来もっていた宋のイメージに近い説明で、知識人が空理空論をいっている内に、どんどんと領土を失っていった文弱の国というのが、わたくしがもっていたイメージでそれが身分制を廃した世界史に画期的な時代などということは考えたこともなかった。 いずれにしても、中井氏は、宋で、儒教としては例外的な忠の道徳が生じたのはその故であるとする。
 江戸の武士もまた宋の士大夫と同様に、本来の武人として己を発揮する道を閉ざされ、秀吉以来の城下町集中によって、土地というかっての存在基盤からも切り離されたデラシネであったという。それゆえに江戸期の公認漢学である朱子学をはじめとする宋学は江戸期の武士の心情によく適合していたのだ、と。その「型」の倫理の結果としての幕末における武士階級の自己抑制、挙措進退の見事さは接触した外国人を瞠目させていた、と。
 江戸期の武士の典型として氏は大石良雄を挙げる。大石良雄祇園における遊興を可能にしたものは何か? 製塩という藩営事業による金銭だけではない。町人文化としての「粋」を身につけていることもまた必要であった。藩の事業のための京や大阪の町人との接触がそれを可能にしたのであろう、と。その討ち入りはきわめて合理的な計画に基づく行動であり、170年後の新風連の熊本鎮台襲撃の神がかりとの違いはまことに大きい。その合理性は江戸前期の町人との接触がもたらしたものであった。大石良雄はまず藩の経営者なのであって、討ち入り後に身柄をあずかった細川家への礼として「貴藩にはハゼの木の殖産が適している」という助言をもってしたのでそうである。身分は武士であるが赤穂藩という擬似国民国家の大蔵大臣でもあった。そして中井氏は、明治期における武士像の残影として森鴎外をみている。
 中井氏によれば、江戸時代はいかに苛酷ではあっても「法の秩序」の支配がとりあえず成立していたので、先行する混乱の時代とくらべれば「太平の世」であった。その法を前提に、浸透する貨幣経済のもと、ときには一村、一地方が挙げて新しい企業にのりだすことがあった。農村の辺縁部にそれが目立つ。二上山麓の大麻寺の僻村から近代大製薬業のほとんどすべてが発祥している。「近江屋」「越後屋」といった屋号でわかるように、都市商人は農民文化辺境人の転化したものであり、その家訓が示すように、基盤は農民的勤勉の倫理であった。
 「法の支配」がとりあえず前提にできたので、農業においても戦国の時代には不可能であった計画が可能となった。19世紀の初期に二宮尊徳のような人間がでてくることが可能になったのもそれによる。尊徳が自らの家を再興し、窮乏した村落の建て直しをおこなうことができたのも勤勉の積み重ねによる蓄積が前提にできたからである。蓄積したものが一夜にして他に略奪されることが日常である社会では、そのようなことはありえない。「江戸時代においても、おそらく今日においてもなお、一人、一家、一村が“がんばれ”ば、とにかくその人、その家、その村が一、二世代のうちに再興できる」と中井氏はいい、しかしそれは同時に容易に崩壊しうるということでもあって、すでに江戸の初期から豪商、豪農たちは「努めざれば三代にして亡ぶ」危機感を持ち、家訓として伝えていた。
 このような倫理を中井氏は「復興の倫理」と呼んで「建設の倫理」と対照させる。18世紀後半に貨幣経済の浸透と集中的な天災によって、わが国の農村の相当数がかなりの規模において荒廃し、しばしば収穫と人口の半減、耕作放棄、流亡が起こったとき、あえて離村せず、その場に踏みとどまって困難を解決しようとした中農、小地主階層のなかからこの「復興の倫理」は発生したと中井氏はいうのだが、この部分少し字句を変更すれば、現在の日本と随分と通じるところがある話のようにおもう(「貨幣経済の浸透」⇒「グローバル経済の浸透」、「農村」⇒「会社」)。
 尊徳の倫理は「甘え」を排した勤勉と工夫の倫理であると中井氏はいう(「宗族に頼る」ことが当然という中国の行き方は「甘え」の肯定なのだろうか?)。その倫理には飛躍がない。連続的な努力の積み重ねである。尊徳の思想の根幹は「人間のくつったものは、放置すれば必ず崩壊する傾向がある」というものだったのだという。それは善悪とは関係のないで自然法則のようなもので、天の法則、「天道」である(エントロピーの増大?)。それに対する「人道」は《田を作ることを善しとし、荒地のままで放置するのを悪とする》。しかし天道によって、溝は埋まり、橋は朽ち、田は荒れる。だから「やかましくうるさく世話をやきて、漸く人道は立つなり」ということになる。中井氏は、中国文化圏においては、つねに「天道」が道徳的なものと見なされてきたのであり、そこから「天道是か非か」という叫びを生じる、という。「天道」を善悪を知らぬものとする尊徳の見方は、儒教文化圏の育った中国や朝鮮の知識人に一種の衝撃を与えるのだそうである。
 思うのだが、高度成長期の日本の会社は誰が経営してもうまくいく状態だったのではないだろうか? トップは下から上がってきた案件に判を押し、自分は小唄などを習って、同業者や関係者などとの人間関係を保っていれば、あとは現場で働くひとたちの〈雑草を抜き、稲を植える〉勤勉の成果でおのずとうまくいっていたのではないだろうか? 現在の問題はいくら現場のひとたちが勤勉に働いていていても、トップが舵取りを誤ると一気に会社が傾くことがしばしばおきることである。「努めざれば三代にして亡ぶ」どころではなく、数年にして亡ぶのが現実である。日本的な勤勉の倫理が通用しない時代になってきている。
 二宮尊徳型の「再建の倫理」は近い過去に成功の経験を持たない社会では成立しえないという。(それならば、これからの日本も「再建の倫理」でいくことになるのだろうか?) 日本人のもっとも基本的な認識の枠組みは「ウチ」と「ソト」の区別なのだそうだが、「再建の倫理」とは「ウチ」の記憶を持つものが「ソト」に放り出されたときに生じるものなのだという。
 「やかましくうるさく世話をやきて、漸く人道は立つなり」という倫理では、かりに社会的変化によって生じた社会的カタストロフであっても、あたかも天災のようにあつかわれてしまう。この世界観では例外的なもの辺縁的なものへの感受性が乏しい(大変化を予知し対処しうるのは、辺縁的なものへの感受性に富むものである。ついでにいえば、芸術を生産し、享受しうるのも)。
 農民たちは江戸時代に営々として作り上げた換金作物栽培が開国による安価な外国製品のために計滅したときに、また別の換金作物を求めて営々と努力をはじめた(その成果の一つが絹糸)。これと同じようなことが今度の大戦後でもおこった。軍艦の代わりにタンカーを作るのである。
 中井氏によれば尊徳の「立て直し」に対立する「世直し」の路線は日本ではひよわである。(「2・26事件」の将校たちは、クーデター後の計画を何ももたず、1941年の開戦も、第一次の作戦の後の計画さえもっていなかった。わが国において、窮地においてしばしばいわれる「新規蒔き直し」も根本的な改革であるよりも、「立て直し」が可能となる環境をつくろうということであることが多い。(氏によれば王安石の「新法」も、宋代中国における「立て直し」路線の試みである。)
 勤勉の倫理は、「伝統的な居場所において“がんばる”」という路線である。したがって新たなフロンティアが広がるときには、その迫力を失う。
 
 ながながと中井氏の論を引用してきたが、わたくしが与那覇氏の本を読んで、とても面白いと思うにもかかわらず、どこかに違和感を感じるのがなぜかを説明してくれているように思うからである。宋王朝が現代世界のグローバル・スタンダードの先駆けで、日本が江戸期においてまで身分制を続けたというのは反=グローバルでドメスティック?であるというのは本当かなと思ってしまう。「分裂症と人類」の「あとがき」で中井氏はいう。「おそらく、私の意識には、自分の一応実践していることになっているが、ある距離と違和を感じてもいる西欧精神医学の正体を見きわめたいという強い底流が一貫してあり、さらにその底には、「近代西欧」という現象は何であろうか、という考えが底流しているのを感じる。「それは非常に特殊なものではないか」という感じが私にはつねに存在してきた」といっている。
 わたくしもまた西欧近代というのは非常に特殊な例外的なものなのではないかと感じている。「どうして歴史上は常に先進国であったはずの中国で、人権意識や議会政治だけはいつまでも育たないのか?」という問いは逆転していて、「どうして歴史上は常に後進国であったはずの西欧で、人権意識や議会政治だけは育ったのか」という問いのほうがはるかに素直な問いなのではないかと思う。人間にとって、王様がいて、その下に臣下がいる体制のほうがはるかに自然であって、人権意識や議会政治のほうがよほど人工的で不自然なものだろうと思う。だから宋の体制、皇帝がいてその臣下がいる体制は自然であって、いくら皇帝が臣下を野放しにしていたとしても、皇帝とその臣下というのはシンプルな身分制で、そこから人権意識や議会政治が育たなければならないことには少しもならないだろうと思う。そして何よりも感じるのは、与那覇氏が用いている学問的方法は決してグローバルなものではなく、西洋に固有なものではないのだろうかということである。
 しかし、これは簡単に論じることができるような問題ではないので、さらに論じたい。
 

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