今日入手した本

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

江戸の気分 (講談社現代新書)

江戸の気分 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

いつだって大変な時代 (講談社現代新書)

いつだって大変な時代 (講談社現代新書)

 「やさしさをまとった殲滅の時代」が面白かったので。前の3冊が落語系で、あとの2冊は現代論。堀井さんというひとこうやってみると落語の人のようである。落語=江戸=近世。橋本治浄瑠璃なら、堀井氏は落語ということらしい。現代を少し引いた目でみられるひとということなのであろう。
 「やさしさをまとった殲滅の時代」の記事で、堀井氏のことはよく知らないと書いたが、名前は「週刊文春」の「ホリイのずんずん調査」というので知っていた。でもなんだかそれ以外にも見たことがあるようなと思って、このブログを見返してみたら、赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」で、堀井氏の「若者殺しの時代」が非常な共感をもって言及されていることを、以前赤木氏のこの本を論じたときに考察していた。
 赤木氏の共感は相当なもので、17ページほどにわたって堀井氏の論をいろいろと考察している。堀井氏を自分たちの世代についての数少ない理解者、同情者と感じているようである。それが間違いということではないにしても、赤木氏が近代に疲れて近世的共同体を憧憬しているのに対し、堀井氏は近世には近世としてのいいところ悪いところがあり、近代には近代のいいところ悪いところがあるという冷静な目でみている。近代の最大の問題点で、近代の達成でもあり癌でもあるのは「個人」というもので、赤木氏は間違いない「個人」であり、それゆえ「知識人」でもあるのだが、堀井氏もまたそうであるにしても、それを相対化しよう、薄めようという意識を持っている点において、赤木氏の論を相対化する視点をもまたもっている。近世に親和するひとは「肉体」派となるようで、それは近代が「頭」の時代であるからであるが、赤木氏は頭のひとであり肉体という視点はもっていないように思われる。
  「月報」に三浦雅士氏が「岡田英弘の衝撃」という文を書いている。岡田氏の「世界史の誕生」に衝撃をうけ、その後岡田氏の著作はあまさず読むようになったといい、なぜその氏が多くの人々に評価されることになっていないのだろうかという疑問を提出している。三浦氏の答え:岡田氏の性格が与って大きいのではないだろうか? 岡田氏は狷介である。こんな狷介なひとは見たことがない。小異を捨てて大同につくなどということは決してしないひとで、他の誤りを糾すことにおいていささかの容赦もないのだ、と。それが残念でもあり、痛快でもある、と。
 わたくしも岡田氏の本(最初は「歴史とは何か」だったと思う)をずっと面白い面白いと思って読んできたが、岡田氏の諸作について言及している歴史学者とか人文学者というのをまず見たことがなかった。それで歴史学の世界では岡田氏はあまり評価されていないのかな? わたくしは氏のはったりに気圧されているのかな?とも思ってきた。この三浦氏の言で少し疑問が解けた。岡田氏はよくいえば日本人ばなれしたひと、悪くいえば野暮なひとということなのであろう。