「一杯のかけそば」と最近の理研騒動のことなど

 
 何とはなしに堀井憲一郎さんの「若者殺しの時代」を読み返していたら、その最初に「一杯のかけそば」のことが書いてあって、それで最近のいろいろな事件のことが頭に浮かんだ。
 「一杯のかけそば」の事件?は1989年つまり平成元年のできごとだから、いまから25年くらい前のことで、30歳以下くらいのかたは知らない話だろうと思う。
 「一杯のかけそば」という童話?が有名になったのだが、そのきっかけは「週刊文春」での全文一挙掲載であった。その惹句には「編集部員も思わず泣いた感動の童話『一杯のかけそば』一挙掲載」とあった。その後、テレビのワイドショーが狂ったように取りあげた(たぶん、狂っていたんだとおもう・・堀井氏)。フジテレビでは午後のワイドショーで月から金まで連続で『一杯のかけそば』特集が組まれ、5人のひとが日替わりでそれを朗読した。(どうかしてる・・堀井氏) 「あなたはもう『一杯のかけそば』を読みましたか。もう泣きましたか。もう感動しましたか」という報道が続いた。(あきらかに、たががはずれていた・・堀井氏)
 ところがその童話?の作者の栗良平というひとがあちこちで小さな詐欺みないことをしているひとであることが次第に明らかになってきて、おそらくは創作であるこの『一杯のかけそば』を実話であるなどといってしまったこともあって、最後は栗氏はぼこぼこにされてしまったというような顛末の話である。
 それで「一杯のかけそば」という話は・・、舞台は1970年代前半の大晦日、北海道のそば屋に貧しい母子3人がやってきて、一杯のかけそばをたのみ3人で食べる。翌年の大晦日にも3人がやってきて、一杯のかけそばを分けて食べる。3年目にはそば屋の夫婦も待ちかまえている。そこに3人がやってきて、2杯をたのみ3人で食べる。母は子どもに死んだ父がおこした事故の後始末が終わったのでこれからは少し楽になると話している。翌年もそば屋夫婦はまっていたが母子は現れなかった。それから14年後・・、二人の青年と母がやってきて3杯のかけそばを頼んだ・・という話である。
 栗良平というひとは人を集めて話をきかせ、そこで信用させて、なにがしかお金を借りたりして消えてしまうというようなことをしていたひとで、この「かけそば」の話もそういった中で生まれてきたものらしい。
 さて堀井氏はいう。一杯のかけそば推進派の人たちは、栗良平がペテン師だとわかった瞬間に、きれいに口をぬぐった。昭和19年に戦争協力を叫んでいた人たちが昭和20年秋にとったのと同じ態度である、と。
 マスコミに大々的に取り上げられたとき、栗良平は『一杯のかけそば』は実話だ、と言い切ってしまったのだが、堀井氏はいう、おそらく作品を作るヒントになった出来事が何かあったんじゃないだろうか。そういうシーンが彼の頭の中に「実際に存在したシーン」として映し出されたんだとおもう。だから実話ですかと聞かれて、そうです、と答えてしまいひっこみがつかなくなったんだろう、と。それはもちろん、質問した側が「あれは実話であって欲しい」と願っていたからだ。目の前の相手が望んでいることを話し、とにかくその気持ちを自分のおもいどおりに動かしたいというのが、ペテン師が望んでるすべてだ。ウソをついているつもりはない(ついているんだけどね)。でも、本人の意識としては、あなたが望んでるからそう言ったまでで、自分が進んでウソを言ったというわけではない、ということになる。
 ワイドショーで好意的に大々的に取り上げられた二週間後、いっせいに栗良平が叩かれだした。堀井氏はいう。あんなせこいペテン師は、叩けばいくらだってほこりが出る。というか、ほこりを全部はたいたら、本人がなくなっちゃうよ、というタイプの人間だ。あちこちで小さく騙していたせこいペテンが次々と明るみに出て、栗良平は、感動の童話作家から、小ずるいペテン師へとなりさがってしまった。そんなの、どっちも本人が持ってる資質で、どっちに光を当てるかだけだろうとおもうんだが、世間はそうは見てくれないのだ。「せこいペテン師にだって、世間を感動させる物語が作れるなんて、それこそいい話じゃないか」と僕はおもったが、誰もそんな擁護はしなかった。世間はあまりペテン師の味方をしないようだ、と。
 さらに堀井氏はいう。多くの人間は、世の中は事実だけで構成されていて欲しい、と望んでるようなのだ。これはとても意外だった。そっちの考えかたのほうがおかしいとおもうが、そうおもうのは、僕が栗良平側の人間だからだろう、と。
 ペテン師は自分を売っちゃいけないんだってことも学んだ、とも。これは、あまり急激に有名になってはいけないってことでもある。いきなり有名になることはとても危険なので、有名になりたいなら徐々に有名になったほうがいい。急激に有名になると、すぐにアラ探しをされて、確実に蹴落とされてしまう、と。
 堀井氏は『一杯のかけそば』の話は口立てでつくられたのだろうという。しゃべりながら話がだんだんとふくらんでいったので、ディテールには説得力があるが、前後のディテールが矛盾している。これはペテンの基本で、大きな枠組みを信じさせて、あとは説得力のある小さい話を継ぎ足していけば、人は信じるのだ。矛盾なんか、気にしなくていいのである、と。細かいことは気にするな、それが目の前の人を説得する基本である。だから、文章にしたとたん、一挙にウソがばれてしまう、と。
 ペテンとは目の前のひとにはかけられるが文章にしたり、テレビにでたりしたらうまくかけられないものである。だから、1)人をペテンにかけるときは、マスメディアを通さないこと。2)フィクションをノンフィクションだと言ってペテンにかけると、金を取っていなくても人は怒るから気をつけること。3)ペテン師は自分を売ってはいけない。ペテン師はペテンを売って細々と生きること、が肝要であると堀井氏はいっている。
 いちいちもっともな話であるが、これは四半世紀前の出来事である。最近ではマスメディアを通して人をペテンにかけることに秀でたひと、自分を売ることを得意とするひとがあちこちででてきているように思える。
 この堀井氏による『一杯のかけそば』の顛末の考察を読んで、まるで今日の問題を論じているような錯覚に陥った。人間はいつまでも愚かなままで、いくら失敗しても懲りずに同じことをくりかえす存在だというだけのことなのかもしれない。それでも、佐村河内氏の問題のときにはまだどこかかわいい感じもあったのだが、最近の理研の問題を見ているとただもう気が滅入るばかりである。その問題の根の深さに呆然として、論じる気持ちにもなれなくなってきた。
 そうであるなら、25年前というもうかなり客観的にみることのできるだけの時間がたった過去におきた出来ごとについて思い返してみることが、今おきていることを相対的に見るためにも、意味あることなのかもしれないと思う。
 佐村河内さんというひとは栗良平というひとにどこか通じる小悪人的なところがあるように思う。それで救われるところもあるのだが、小保方さんの場合、なにか可愛げのようなものが感じられなくて、もっと闇が深いというか、底なしの虚無のようなものが奥にのぞいているようにも思え、恐い。そしてその周囲にいる理研のひとの多くが栗良平というひととあまり変わらないひとのように思えてくるのが悲しい。
 

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

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