堀井憲一郎「1971年の悪霊」(3)

 全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので、時系列的なことはもうよくわからなくなっている。何となく日本の大学紛争(闘争)と同時期という感じをもっていた程度なのだが、本書でそれが簡明に紹介されているので、ここに抜き書きしてみる。
 1968年3月~4月 パリ郊外のパリ大学ナンテール校で、ベトナム反戦運動が盛り上がり、教室の占拠や無届けデモがおこなわれ、大学は学生大会を開かせないために5月2日ナンテール校を閉鎖した。大学に入れなくなった学生はパリ中心地のカルチェラタンにむかった。
 5月3日、カルチェラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校での大がかりな学生集会に大学は警官隊を導入した。500人以上の学生が検挙され、ソルボンヌ校も閉鎖された。
 5月6日 それへの抗議集会。1万5千人の学生が警察と衝突、学生たちは敷石をはがし投石、市街にはバリケードも作られた。
 5月10日 2万人の学生によるデモ。警官隊は徹底的に弾圧。
 5月11日 世論が一変。新聞は政府を非難、既成の左翼政党も学生への連帯の表明。労働組合は学生と共闘するゼネストを指令。
 5月13日 あらゆる企業・工場の労働者がストライキに。フランスの社会機能が麻痺しはじめる。ソルボンヌ校の閉鎖がとかれ、学生が占拠。学生達は「大学は永久に労働者に解放される」と宣言。
 5月24日にはフランスの労働者の半数がストに参加。
 このころからドゴール政権は事態収拾に動き出す。
 5月30日 ドゴールはパリ周辺にフランス軍機甲部隊を配置。公民議会の解散と総選挙を宣言、「共産主義からフランスを救え」と演説。
 これで情勢がかわり、
 6月23日と30日の選挙でドゴール派は圧倒的な勝利。学生たちを支持した共産党と左翼連合はまれにみる敗北で議席を半減。
 これが‟五月革命”の概略であるが、とても‟革命”とはいえない。パリという都市でおきた祝祭? しかしそれでも学生の運動が社会を変えられるのではないかという気分が世界中の学生運動家を勇気づけた。
 1968年6月、日本でも「神田カルチェラタン闘争」が展開された。
 このパリ五月革命のときに、集団の先頭で投石を続けていたのはミニスカートの若い女性だったという。カルチェラタンの敷石を剥がすと砂が露出してきた。「敷石を剥がすと、そこに砂浜が」
 「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある。かれらが変えたかったのは社会を覆う「気分」であったのであろう。
 このパリの《革命》から、「政治的な結果をもたらさなくても、行動することに意味がある」という思念が生まれ、世界に広がっていった。
 堀井氏のような下の世代から見ていると、「やたらと暴れまわって、やみくもどこかに突撃し、やがて何かに呑み込まれて、そのまま姿が見えなくなった」というのが印象である。「いつの間にか誰もいなくなっていた」そう堀井氏は述べる。
 
 日本での学生運動のピークは1968年後半あるいは1969年であるように思うので、やはり「パリ5月革命」は日本のものに少し先駆していたわけであるが、日本の運動とは異なり、ごく短期間でもある程度の広範な支持を社会からうけたわけである。しかし同時にこの社会からの支持というのもほぼ一ヶ月程度しか持たなかったわけで、社会の気分というのはきわめて気まぐれで、移り気なものであることもここにもよく示されている。
 この学生たちの運動が何を目指したものであったのかは、ごく一部の煩瑣な神学論争的左翼理論を信奉していた人たちを除けば、堀井氏のいう通り、《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というものだったのであろうと思う。橋本治氏がどこかでいっていた言葉を使えば、「子供のころの原っぱでの遊び」を大学のなかで再現することであったのではないかと思う。
「時間よ! 止まれ!」というのは「ファウスト」だったか? とにかく自分たちが遊んでいるあいだ、世界も止まっていることを彼らは求めたのだと思う。1968年ごろの日本の運動での《研究室封鎖》というのは別に自分たちに共感はしなくてもいいが、お前らが勝手に先に行くことはゆるさない。お前たちもここで停滞していろ!ということだったのではないかと思う。つまり、いずれ自分たちの運動が終焉するという未来を予想していて、その時に自分たちと同じところからお前らも再出発せよ! ということだったのはないかと思う。
 今の若い方々に「立看」という言葉が通じるのかどうか解らないが(今、パソコンで「たてかん」は「立看」へとは変換しなかった)、「神田カルチェラタン闘争」などという言葉を聞くとまず思い出すのが「立看」である。通学路が御茶ノ水だったので明治大学周辺に「立看」が林立していた情景をよく覚えている。ヘルメットと覆面と立看。とにかく日本の学生運動というのがパリのそれとは違っておしゃれでなかったことだけは確かである。
 パリでの学生達の反乱、あるいは日本での学生達の反乱、それをおこしたものは何だったのだろう? 本書にも書かれているが当時現在進行形であったベトナム戦争というもの影響が大きかったのだろうと思う。これはわれわれの歴史の中で最後の?正義と不正義の戦い(あるいは善と悪との闘い)であったのである。腐敗しきっている南ベトナム傀儡政権ではあるが、それでも東南アジアの国々が次々と東側へとドミノ倒しされていくことを防ぐためにはそれを何とか支えなければと、ひたすら物量を投入し続けるアメリカ軍と、それに対抗している碌な武器も持たないベトナムの農民兵たち、という構図。不思議なことに義のあるベトコンの兵士たちは、義のないアメリカ軍の近代兵器に打ち勝っている。一方、北ベトナムのトップのホーチミンは慈父のような聖者であって皆の尊敬を一身に集めている・・。当時、東西の対立がまだあり、東側が正で西側が邪であるという図式が通用した最後がベトナム戦争なのであったと思う。実際にはベトコンと呼ばれたものの相当部分は北ベトナム正規軍であり、東側のプロパガンダに西側が踊らされていたという要因が大きかったようであるが(日本にも「ベトナムに平和を!市民連合」というのができた)、当時はその神話がまだかなりの程度に流通していて、西側に生きる人々は反=正義の側にいるという罪悪感があり、若者たちも自分がまた悪の体制のなかにこれからはいっていくというような負い目を感じていたので、とにかくそこにはいっていくことを拒否する、少なくともそれを少しでも先送りすることというのが運動の目標にされたということは、論理的には筋が通っている。だから堀井氏がいう《「立て籠っていること」だけが目的の、季節外れの文化祭。占領しつづけることだけに意味がある》というのも整合性があるのかもしれない。
極論すれば、子供はまだ穢れていないがすべての大人は汚れている。自分は大人にはなりたくない! というのが一番の根っこにある感情だったのかもしれない。
 もちろん、東側だって決して問題なしと思われていたわけではない。ソ連スターリン批判で味噌をつけていたが(日本の日本共産党の下部組織ではない学生運動組織はスターリン批判から生まれたのだと思うし、68年頃の日本の学生運動の一部は「反帝反スタ」を標榜していた)、当時はまだ永久革命をめざす毛沢東がいる!ということになっていた。それがあっという間に東側が崩壊してしまい、正義とか不正義とかいう青臭い論議はどこかにとんでいって、今度は金儲けがすべてということになってしまった。
 東側が崩壊し、東西対立がなくなってしまった現在、1968年前後の日本での学生達の反乱、パリでの騒動をおこしたもととなる心情というのは理解不能なものとなってしまっている。そして東側がまだあった時代に、東側にありながらソ連を批判するという特異な立ち位置にあった当時の中国で進行していた毛沢東文化大革命について、堀井氏が「毛沢東文化大革命」を支持していたころ」で論じているので、それについては稿をあらためて考えてみたい。
 

1971年の悪霊 (角川新書)

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