堀井憲一郎「1971年の悪霊」(2)
第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それなりの知識を持っているという微妙な立場である。
堀井氏も書いているように高橋和巳は現在ではほとんど忘れられた作家、読まれることのない作家となっているが、それは高橋氏が小説家でありながら、本当の小説好きではなく、小説というものを自分の思念を示すための手段としてのみ考えていたことによるのではないかと思う。小説というのは本来、人間に対する興味、その人間たちが織りなす物語への関心から発するものであるはずだが、高橋氏はそのどちらも欠いていたのではないかと思う。とすれば、小説読み・小説好きからは敬遠されるはずで、高橋氏を動かしていた情念のようなものが共感を呼ばないようになれば、読者もいなくなってしまう。
堀井氏は高橋和巳が読まれなくなったのはポップカルチャーに負けたのだという。ネアカとネクラ、マルキンとマルビの二項対立に負けたのだという。そしてこのポップカルチャーは「明治以来の頑固な社会精神」を叩き壊す文化大革命だったのではないかともいう。ボディコン&ジュリアナ東京のポップカルチャーが吹き飛ばしたものは大きい、軽さの文化が重厚な自己犠牲文化を粉砕したのだ、と。
バブルのころに日本は明治以来の重厚長大の路線と決別した。自己犠牲の文化にも分かれを告げた。そして高橋和巳の文学は根底に自己犠牲をおくものだった。それはストイックが美学とされた時代の文学だった。高橋の文学は「生真面目さ」の文学である。それゆえに「苦悩教の教祖」とも呼ばれた。
三島由紀夫と高橋和巳はそれぞれ70年11月と71年5月と時期を接して死んでいるのだが、その二人の安田城落城の後での対談を書評誌か何かで読んだ記憶がある。二人は異口同音に、安田講堂に閉じこもった運動家たちの(少なくともその一部は)死ぬ気なのだと思っていたということを言っていた。誰も死ななかったことに驚いた、と。
実はわたくしもそう思っていた一人で、同じ感想を持った。わたくしは活動家たちは、いろいろなことを言ってはいるがそれを信じているわけではなくて、どういうわけかたまたま出現してしまった祝祭空間をいかにして少しでも長く保持していくかということだけが目的で行動しているのであり、そうであれば提示されるあらゆる解決策の提案はすべて即拒否であり、祝祭空間が否定されることがあるとすれば、それが物理的に粉砕された場合だけということになる。
世間を相手に壮大な芝居を打って大いに楽しませてもらった落とし前をどうつけるかといえば、死ぬしかないのではないか、わたくしはそう思っていた。そうだとすれば、わたくしのほうが「明治以来の社会精神」に囚われていたのであり、籠城した戦士たちは、すでに時間を先取りして、安田城をジュリアナ東京にして、ボディコンのかわりに覆面とヘルメットで踊っていたのかもしれない。
こういう見方はあまりにひねくれた見方であるのかもしれない。しかし、1968年前後の運動の根に一種のニヒリズムのようなものがあったのであり、そのニヒリズムが大衆化するとジュリアナ東京(これも刹那主義の一種?)になるのではないかという見方もまったく成立しないさけでもないという気がする。
堀井氏は一方では民主党政権は1970年前後にあった空気が再現したものであるというし、他方ではボディコン&ジュリアナ東京のポップカルチャーがそれ以前の日本とそれ以後の日本を分ける画期となったという。これは一見すると矛盾した見解である。
それで補助線を一本引いてみる。1968年以降、男の文化は変わっていない。しかし、ジュリアナ東京をきっかけに女の文化は変わった。変わったのだが、それは私的な生活という面においてである。公的な面(もっといえば政治の面)においてはあいかわらずなのである、そう仮定してみる。
1968年の運動は男たちのものだった。もちろん、そこに参加した女性もいたであろうが、その役割は相変わらずのハウスキーパーだった。柴田翔氏の「されどわれらが日々ー」(1964年)は1968年よりはるか以前の六全協時代の共産党を舞台にしているが、そこに描かれた男女関係の古めかしさというのは驚くべきものである。
一方、バブルの頃にはアッシー君、ミツグ君などという言葉があった。アッシー君は女性の運転手をする(させられる)ひと、ミツグ君は彼女に貢がされるひとのことだったのではないかと思う。このあたりの話は堀井氏の「愛と狂瀾のメリークリスマス」でも論じられている(一部は「若者殺しの時代」の第2章「1983年のクリスマス」でも)。何しろ男は一所懸命アルバイトをしたりしてお金をためて、クリスマスには彼女にそれなりの贈り物をして、高級ホテルをあらかじめ予約しておいて(一年前から予約が必要)、そこに泊まることができないようでは男でないとされていたのである。ティファニーの「オープンハートのペンダント」とかいうのが流行っていて、12月のティファニーは朝の通勤電車なみの雑踏だった。
「クリスマスの朝はルームサービスで」というのは1983年の「アンアン」クリスマス特集号での惹句らしい。私的生活というか男女関係というか恋愛方面においては完全に女性が主導権を握ったわけである。もっとも三島由紀夫にいわせると、女は愛する存在で、男は愛される存在なのであり「男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである」のだそうだから、以前からの変わらぬ真実であったものが、この頃になって公然としてきたというだけのことだけなのかもしれない。
堀井氏も高橋和巳の世界は「女性を描かない、恋愛が存在しない世界である」といっている。それを堀井氏はストイックというのだが、わたくしにはただその方面に鈍感であっただけとしか思えない。
高橋氏が若くして亡くなった後、後に小説を書くようになる奥さんの高橋たか子氏は「高橋和巳の思い出」という本を出している。そこでたか子氏は和巳氏のことを「自閉症の狂人」だったと書いている。何しろ「俺は将来の大作家だ」などと嘯いて、一切働かず、もっぱらたか子夫人が稼いで何とか暮らしていたというのである。一般的言い方ではヒモである。とにかくこの本では、和巳氏のことをぼろくそに書くわけで、三島由紀夫流にいえば、「英雄の心事は女房にはわらぬ」ということなのかもしれないが、女房から見ればすべての夫はただの人なわけである。
日本の歴史においては概して女性の地位は高かったのだそうであるが、その例外が江戸時代で、明治以降もその系譜をひいていたのだが、それがバブルの頃に崩れ出したのかもしれない。しかしそれは私的世界での話であって、公的世界はあいかわらず男性世界のままであって、その世界においては高橋和巳は英雄でいられるわけである。
三島由紀夫によると、男の世界は英雄ごっこの世界で、原初はつまらぬ肉体の領域での競争がたちまち精神の世界にまでひろがってゆき、政治・経済・思想・芸術すべてがその英雄ごっこに端を発するのだという。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもと、ということになる。その観点から見れば高橋和巳はまごうことなく英雄となる資格がある。
何となくそう思われているのとは対照的に 本当は、男のほうこそがロマンティックなのであり、女のほうが現実的である。あるいはセンチメンタリズムこそが男の根本にある(三島由紀夫)のであり、「ナチスがあれだけ成功したのは、ドイツ人のセンチメンタリズムに火をつけたから」(同)ということになると、堀井氏が高橋和巳に低い評価をあたえるもとになっている氏のさまざまな欠点や欠落も必ずしも欠点とも欠落ともいえないこともなるのかもしれないことになる。
おそらく堀井氏は人生のある時点でロマンチシズムを捨てたのであり、本書はその考証の書という側面を持つ。そして本書の主張によれば、多くの日本人もまたどこかでロマンチシズムを捨てたのだが、それを捨てきれないひとが一部にいて、あるいは捨てたと思っているひとの中にも捨てきれずに残っているものがあって、それが時々火をふいて亡霊が蘇ることがある、それが最近のさまざまなおかしな出来事の原因となっているということになる。
本章に続く、ウッドストックとかローリングストーンズといったものを素材にそれが論じられていくのだが、それらの話題はわたくしのまったく知らない領域の話であるのでそれらはパスして、次にはパリ五月革命の話題をみていくことにしたいと思う。
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