思想としての全共闘世代
最終章である第9章の「左翼思想はどこでついていけなくなったか」は著者の堀井氏の個人史を述べたものである。1958年生まれの堀井氏はわたくしより10歳くらい年下であるのでおのずとその経験が異なるわけであるが、まず堀井氏の個人史から。 1970年…
第8章は「毛沢東「文化大革命」を支持していたころ」と題され、「文化大革命」が論じられる。 わたくしが文化大革命というと思い出すのは、若者たちが自分たちが糾弾する人間に変な帽子を被せて胸に罪状を書いた紙をつけさせて引きまわしている光景と、天安…
全共闘世代という言葉が現在でもまだ時々使われているので、全共闘運動というものについて、今の若いひとでもなにがしかのことは聞いているのではないかと思うが、「パリ五月革命」についてはどうだろうか? もっともわたくしだってひとのことは言えないので…
第3章は「1971年、高橋和巳が死んだ5月」と題されている。わたくしは高橋和巳の著書を一冊も読んでいないので、本来、ここを論ずる資格がないのだが、大学時代の友人に高橋和巳信者がいたので、高橋のことをいろいろときかさせてもらっていて、それな…
堀井氏の名前を最初に知ったのは、どこかの週刊誌(週刊新潮?)で連載していた「ホリイのずんずん調査」?というコラムでだったと思う。何かの話題について私見を述べるのではなく、とにかく調査してみるという姿勢のユニークなコラムだった。 堀井氏の書く…
東大医学部の同窓会である鉄門倶楽部の同窓会誌「鉄門だより」では、最近の何号か「東大紛争」についての特集というか、それについてのさまざまなひとの寄稿がのせられている。このことについて論じるときにまず直面する厄介な問題があつかう対象を東大闘争…
わたくしはある時期福田恆存の信者であり、福田氏が担いだ神輿がD・H・ロレンスであったので、ロレンスの作品については何度も挑戦はしたのだけれども、「無意識の幻想」とか「黙示録論」といった小説以外のものは読めたが、「息子と恋人」にしても「虹」…
中公文庫 1973年文庫初版 2006年10月改版 1971年単行本初版 わたくしは赤・黒・白・青の薫ちゃん4部作は刊行当時にリアルタイムに読んでいるが、庄司氏のエッセイは「バクの飼主をめざして」を2000年ごろ読んだだけで、この「狼なんかこ…
小阪修平氏の「思想としての全共闘世代」を長々と論じてきた。そろそろ中仕切りとしたい。この間、小阪氏には失礼な言を多々弄してきたことをお詫びしたい。そしてもまたこういう言い方もまた小阪氏には失礼になることは重々承知しているが、小阪氏よりはる…
宮崎哲弥氏の「新書365冊」(朝日新書 2006年10月)を読んでいたら、橋爪大三郎氏の「永遠の吉本隆明」(洋泉社新書y)を評した文があって、その冒頭に「昔、とある作家が、全共闘世代のことを「吉本隆明ファンクラブ」と揶揄しているのをみて大笑…
小野寺氏の「イギリス的人生」(ちくま文庫 2006年9月)は、もちろん全共闘運動とはなんの関係もない。フォースター、オーウェル、ロレンス、ウォーといった作家を論じた本である。もっとも、文学論ではあるが、イギリス的な生きかたというものがあるの…
買ってきたばかりの「考える人」(新潮社)の最新号をぱらぱらと見ていたら、昔なつかしい、ヘルメット・覆面・ゲバ棒のスタイルの面々が安田講堂の時計台を背景にデモ?している写真が目にはいった。佐藤卓巳さんという人の「セロンに惑わず、ヨロンにもか…
いよいよネタがなくなってきたので、買ってきたばかりの全共闘運動とは何の関係もない本を無理やり材料としてみる。 全共闘運動とは関係ないのだけれども、鹿島氏は1946年生まれ、三浦氏も1949年生まれということであり、ともにいわゆる全共闘世代で…
坪内祐三氏の「考える人」(新潮社 2006年8月)は何だか腰のすわらない本である。この手の本を買うひとは、そこにとりあげられたたとえば武田百合子とか長谷川四郎について何かを知りたいと思って買うのではないかと思う。しかし、本書では坪内祐三氏の…
水谷氏の本を読んで、当時(1968年〜69年)の雰囲気をなんとか思い出そうとしてみると、ベトナム戦争というのが大きかったなあ、ということを感じる。そして、その当時のベトナム戦争のイメージというのは、腐敗した南ベトナム政権に対抗する愛国者た…
この本は二年前に読んだときはあまり面白いとは思わなかった。今度、丸山真男が全共闘にいじめられた過程を調べるのに読み返して、面白くて再度通読してしまった。面白かったのは丸山真男と社会主義のかかわりとして述べられるその当時に流通していた社会主…
小阪氏が「思想としての全共闘世代」で一番言いたかったことは、「その時代につかまってしまった」ということであるように思える。「そこで自分が決まってしまった、あるいはそこからいまのぼくの人生がはじまったというのも、ぼくにとって動かしがたい事実…
小阪氏の本を読んでいて疑問に思うのは、全共闘運動というものが偶然の産物だったのではないかという視点を欠くように見える点である。 その原点となったのが医学部の青年医師連合のインターン制度反対の運動であったのは衆知のことであるが、このインターン…
阿部謹也氏の「世間とは何か」(講談社現代選書 1995年)の本文は以下のように始まっている。 今から十数年前のことである。女子学生の一人が、ゼミナールのコンパの席上で突然次のような質問をした。「先生、中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいの…
養老氏は、自分のことを普通だと思っている人間ほど危ないという。なぜなら自分を普通だと思う人間は、自分は変なことをしないと思っているからだ、と。その普通の自分が変だと思うことが世の中で起こっているなら、それは世の中が変であることになるから、…
養老さんは、自分には《所を得ない》という感覚、《自分が「そこにいて当然だ」と思える居場所がない》いう感覚がある、それは《大げさにいうと「私なんかが生きてここにいて、そのためみなさまにご迷惑をおかけして、まことに相すみません」という感覚なん…
「運のつき」(マガジンハウス 2004年)は養老さんの本としてはあまり売れなかったのではないかと思う。題名だけみても何について書いた本だかわからないし、内容は全共闘運動へのうらみつらみであるし。 全共闘運動へのうらみつらみといっても、相手は…
高橋源一郎「ジョン・レノン対火星人」(講談社文文芸文庫 2004年))に付された「過激派的外傷あるいは義人とその受難」という内田樹の解説はちょっと異様なもので、高橋源一郎と内田樹という、ともに1970年生まれの世代(東大入試がなかった時の大…
福田恆存の戯曲「解つてたまるか!」(「解つてたまるか! 億萬長者夫人」所収 新潮社 1968年)は全共闘運動とはなんの関係もない。1968年2月に静岡県寸又峡温泉であった金嬉老事件を題材にしたものである。といっても題材にしているだけで、舞台を…
小阪氏の「思想としての全共闘世代」のp37に、その当時のマルクス主義は「実存主義的気分にひたったマルクス主義」であったということがいわれている。 マルクス主義は合理主義の系譜の中にあり、実存主義は非合理主義の流れの中になると思うので、それら…
加藤典洋氏の「小説の未来」(朝日新聞社 2004年1月)からそのまま引用すれば、「希望の国のエクソダス」は「中学生の一団が、「現代日本」の中で反乱を起こし、北海道に新しい「希望の国」を作る話」である。エクソダスだから、革命ではなくて、脱出で…
「赤頭巾ちゃん気をつけて」は1969年8月に刊行された。安田講堂事件で入試が中止になった年の大学受験生を主人公にしており、明白に全共闘運動を意識して書かれたものである。著者の庄司氏は東大法学部の丸山真男門下生らしいが、刊行当時これを読んだ…
小室直樹の「危機の構造」ははじめ1976年にダイヤモンド社から刊行された氏の処女作である。のちに中公文庫の収められた。わたくしのもっているのはその文庫版(1991年)であるが、それも現在絶版のようである。 本書をもって氏の最高の著作とするも…
小阪氏の本によれば、小阪氏は69年に東大焚祭委員会という組織をつくったのだそうである(焚祭は「フンサイ」とも読むのだそうである。つまらない洒落である)。しばらくして小阪氏はそこからも離れていったようであるが、その委員会を継いだ友人の木村修…
橋本治の「ぼくたちの近代史」(河出文庫 1992年 単行本 主婦の友社 1988年)は1987年におこなわれた講演を本にしたもの。3部にわかれ、全6時間というとんでもない講演で、その第一部はほとんど全共闘問題だけが論じられている。いままでいく…