⑬ 養老孟司 「運のつき」・その1
「運のつき」(マガジンハウス 2004年)は養老さんの本としてはあまり売れなかったのではないかと思う。題名だけみても何について書いた本だかわからないし、内容は全共闘運動へのうらみつらみであるし。
全共闘運動へのうらみつらみといっても、相手は小阪氏のいう自己解放派の全共闘ではなく、小阪氏が東大全共闘の思想を代表するものであるとする大学院生の組織「全闘連」あたりへのうらみつらみ、具体的にいえば研究室封鎖へのうらみつらみである。
養老氏によれば、学位論文がすんで、次の論文が英国の雑誌に採用され、自分の研究というものへの自信ができてきて、研究者としてこれからという時に研究室を追い出された。養老氏は本気で研究をしようとしていた。
研究室を追い出されたとき、本気で腹を立てました。はたで見ていた人が、「顔色が真っ青だったよ」と、あとでいっていたくらいです。
いまでもあそこでガマンして、暴力沙汰にならなくてよかったと思っています。暴力沙汰になれば、自分か他人か、死者が出ていたかもしれませんからね。乗り込んできた学生たちだって、じつは私ほどには本気じゃなかったでしょうからね。まさか私が「本気で」研究なるものをしているなんて、学生も思ってなかったでしょうよ。あの当時本気だったからこそ、いまだに考えてるんですよ。本気の行為を「暴力で」潰されちゃったんだから。
全共闘が問題にした、研究はなんのためだということを、私はその後ずっと考えてました。べつに私は全共闘じゃない。なんで私がそんなこと、考えなきゃならんのだ。よくそう思いましたよ。(中略)
なんであんなことが起こったたんだ、あいつら、なにがいいたかったんだ。(中略)
結局、大学を辞めるまで、自分のなかでブツブツ考えてました。こう書いているところを見ると、まだ考えてるんでしょうね。議長だった山本義隆が、物理学の歴史なんか書いているのに、全共闘になんの関係もない私が、ありゃなんだったんだと、こう考えている。変なものですな。(中略)
「山本義隆、こらお前、総括しろ」。そんな気持ちがまったくないといえば、嘘になります。(中略)あんな物理の歴史本を書いているんじゃ、山本は総括なんかしないよな。そういう気持ちもありますよ。そういうふうに思う、この私は、ひょっとすると全共闘なんですかね。
養老さんは相当にしつこい人である。山本義隆氏の「磁力と重力の発見」は毎日出版文化賞と朝日新聞社の大仏次郎賞をダブル受賞している。養老氏は両賞の選考委員であったが、山本氏の著作への選評を拒否している。なんだか大人気ないやりかたである。私憤を公の場で晴らすというか・・・。それだけ恨みが深いということなのであろうが。
「運のつき」のテーマの一つは「世間」ということである。養老氏は一所懸命に世間のルールに順応しようとしてきたと書いている。しかし「世間の人」は選評拒否などということはしないだろうと思う。養老氏にとっては「世間の人」として暮すということは東大医学部の教員として我慢して暮すということであり、東大教授を辞めたあとでは段々と先祖返りしてきているのかもしれない。養老氏は東大を定年前に辞めている。これも東大紛争(養老氏は一貫して東大闘争ではなく、東大紛争と書く)へのその後の大学の対応への批判という意味合いもあったのかもしれない。
養老氏のいうように
「大学のお膝元で起こった大事件、それがなんだったのか、それを解明しない大学とはなにか。いまでは東京大学は、そんなこと、まるで起こらなかったような顔をしてますものね。
である。こういうことは、大学の中にいたままでは、さすがに言いにくかろう。
わたくしが今でもよく覚えているのは、授業が再開して最初の講義で、教授の側からは何の意見表明も感想もなく、まったく淡々と講義が開始されたことである。一年以上にわたって大学は封鎖され講義もなくきていたのである。それに対して何ら言葉が発せられることもなく、まるで昨日の講義の続きであるようにそれは再開された。心底、これは駄目だと思った。
小阪氏の本の不思議なところは、全共闘運動と自分ということに徹底的にこだわっているのと対照的に、自分たちの運動が他にあたえた影響ということにはきわめて関心が低いということである。たとえば、小阪氏の運動に共鳴して高校を退学して運動に走ったような生徒は少なからずいたはずである。大学にまで入っていれば運動をやめても何とかなった人が多いと思う。しかし高校でドロップしてしまうと、その影響ははるかに大きく回復は困難であったであろう。そういう人たちへの責任というような感覚はきわめて乏しい。
養老氏もまた、それがなければ歩んでいたであろう普通の研究者への道からはずれてしまったわけである(養老氏もいうように、目先のきくひとは海外へでてしまった。日本は研究のできる環境ではなかったからである。氏はある意味で愚直に全共闘の問いにつきあった)。養老氏は「伴大納言絵詞」の応天門炎上の光景で、逃げ惑うその他大勢の一人が自分なのであるという。そして伴大納言が山本義隆なのであるという。小阪氏は伴大納言ではないが、そうかといってその他大勢でもない。まあ、伴大納言の手下くらいの感じであろうか? そして応天門炎上の意味などを考えるのである。しかし、その他大勢の運命にはほとんど関心がないように見える。
だから大学封鎖についても、丸山真男研究室の封鎖で進歩派知識人の旧態依然たる体質が暴露されたといったことを除いては、封鎖による学問への影響ということにはまるで関心がないように見える。養老氏もいうように、その当時「本気で」学問をしている人間などいるはずがないと多寡をくくっていたのであろう。関心があるのは封鎖によって生じた解放区だけなのである。この当時「産学協同批判」というのがさかんにいわれていたから、学問が止まることはその共同作業が止まることであり、望ましいとされていたのだろうか?
養老氏によれば、「ゲバ棒を持って研究室を封鎖に来た学生たちの言い分は、「俺たちがこんなに一生懸命にやっているときに、なんだお前らは、のんびり研究なんかしやがって」というものであった」という。戦争中の非常時の論理、「この非常の時に、口紅塗って、白粉なんかつけて」という論理であったという。養老氏は戦後生まれの学生たちが、戦前戦中の論理を教えられたわけでもないのに身につけていることに吃驚し、さらに学生たちが竹槍を持ち出すに及んで人間の進歩ということを信じられなくなったという。
前に小室直樹氏の「危機の構造」を論じたときの述べたけれども(これを小室氏は「中立の権利の尊重」の問題として論じる)、これは別に戦争中にだけあった論理ではなく、日本にはきわめて普遍的な論理、「世間」の論理から発しているものなのだと思う。村社会の問題であり、一人で抜け駆けする奴は許さないという嫉妬の論理なのであると思う。だからこの当時の学生たちが、戦争中の論理の論理を見ず知らずのうちに身につけたということではなく、村社会の論理を身につけていたということに過ぎないのだと思う。教授会がTくん誤認事件で処分撤回できなかったのも、教授会という「共同体」の論理が学生というそこを通過していくだけの存在の論理に優先したためである。要するに、大学側も学生側もともに共同体の論理の中で動いていたのであり、ただ相手側の共同体の論理の欠点はよく見えるということが、大学の争いをこじれさせ、拡大させた一番の根幹にあったのではないだろうか?
だから、当然、全共闘の提示した問題にこだわる養老氏の考察は、共同体の問題へとむかう。
養老氏得意の話題に《日本人は「生きて」いない》というのがある。あるとき、中国人の留学生が、東京から京都までドライブした。途中でヒッチハイクをしているドイツ人学生を乗せた。降りるときドイツ人学生がいう。「日本人は生きられませんからね」 中国人学生もそれに賛成する、というものである。スリランカのあるお坊さんも「日本人は生きてませんから」といっているのだそうである。
もちろん、日本人も生物としては生きている。しかし、中国人やドイツ人あるいはスリランカの人から見ると、生きているようには見えないのである。彼らが考える「生きる」ということとは違う生きかたをしているのである。養老流にいえば、彼らは「人として生きる」のだが、日本人は「人間として生きる」のである。あるいは彼らは「個人として生きる」のだが、日本人は「世間を生きる」のである。
動物ははじめから「生きて」ます。それを籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から「生きてない」って表現が出るんでしょうね。餌も水も充分、病気にもならず、長生き、でも何か変。「生きてない」ように見える。
内田樹氏がいう「過激に生きるか凡庸に生きるか」というのも、小阪氏がいう「社会がどこかよそよそしい」というのも、「希望の国のエクソダス」でナマムギくんがいう「あの国には何もない。もはや死んだ国だ」というもの、みなこの「生きてない」ということにつながるのだろうとおもう。とすれば、全共闘運動というのは「生きてない」状態を拒否し、「生きる」ことを目指す運動であったとすると、きれいにまとまる。全共闘運動は実存主義的運動であったのである。それが小阪氏のいいたいことでもある。自己の生きかたを問うものであった、と。(そういう風に、簡単にものごとを丸めてしまってはいけないというのが、養老氏のいうところではあるが)
「希望の国・・・」でナマムギくんはパキスタン国境のパシュトゥーン族のことを、「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」という。「希望の国・・・」が書かれたのは9・11の前である。その後アフガニスタンでのタリバンの問題などが話題になり、わたくしもアフガニスタンについての本を少しは読んだ。それで、わたくしのような意気地なしは、死んでもアフガニスタンには住めないと思った。それはマッチョの価値観が支配する世界なのである。日本のインテリの卵であるナマムギくんがそこで生きられるとは思えない。たしかにそこでは陰湿ないじめなどはないであろう。侮辱されたら決闘という明確な原理が支配する世界なのであるのだから。しかしそこは原理主義の世界なのである。イスラム原理主義ではない、男性原理主義とでもいうべき世界。確かに村上龍はマッチョへの志向があるひとなのではあるが、その村上氏の今では大インテリである。アフガニスタンで住めるわけはないと思うのだが。そういえば「希望の国・・・」でも活躍する中学生は、ほとんどが男の子である。
内田氏の方向で「過激に生きるか凡庸に生きるか」で過激の方へと“見る前に跳ぶ”とそこは法の支配の外である(それでもまだ機動隊は法の支配の制約を何がしか受けていただろうと思う。(「同じ日本人の、それも警職法で骨抜きにされた警官共を相手に弱い者苛めをするとは、それでも勤皇の志士とかけふの虎とか大きな面して都大路をのし歩けると思ふのかい?」(福田恆存「解つてたまるか!」))。しかし内ゲバの世界は、完全な法の外である。殺すか殺されるか。法というものは権力の支配の道具であるとしても、それでも人を保護するものでもある。
そして、小阪氏は一貫して「世間」の外で生きてきたのである。わたくしには予備校の講師とか塾の先生というのは、「世間」の外の人の典型であるように思われてならない。予備校も塾も受験体制という「世間」があるからこそなりたつ世界である。いわば小阪氏は出家しているのあるが、世界は全員が出家すれば崩壊してしまうのであって、俗世が厳然とあるからこそ出家もできる。これは仏教というものがはらむ根本的な矛盾で、だからインドでは俗世の階層構造を保障するヒンズー教が主流となった。
小阪氏は降りてしまったのだと思う、だから、自分は「いまだに「現実」というものをよくつかめていない」などという、おいおい60歳近くなった人間がそんなことを素面でいうかというようなことを、わりあいに平気で恥ずかしげもなく書くのである。ほとんど酔生夢死である。
ところが養老氏によれば、大学というところは本来、ひらすら神に祈るような穀潰しの人間、社会的にはなんの役にも立たない人たちを養うところ、いわば修道院のようなところであったのだという。それを養老氏は純粋行為という。それ自体に意味がある行為、なにかのためにやるのではない、それ自身のためにやる行為、たとえば養老氏が大好きな虫取りがそれにあたる。いわば子供のやること、無償の行為。
養老氏は「象牙の塔」を肯定する。そして大学紛争が明らかにしたのは、大学の中にも本当に自分がしていることをただそれだけで肯定できているような人がほとんどいないことであったのだという。そうであるなら税金を使って役にも立たないことをしている、という批判に耐えられなくなる。大学が“役に立つ”方向に紛争以降急傾斜していったのは当然であるという。
当時「大学の自治」ということがいわれた。機動隊導入反対というのはそれが「大学の自治」に反するからであるとされたように思う。その当時「大学の自治」ということがいわれたのは、大学の中には権力が介入してきてはならず、反体制の言論が自由に行われるところでなくてはならない、というようなことではなかったかと思う。
つまり、その当時においても学問は役に立つものでなければならなかったのである。ただ現体制のためではなく、反体制のために。とすると反体制の役に立たたない学問などはある必要はないことになり、丸山学派なども真の反体制ではないことが明らかになってのであるから、その時存在していた学問などはすべてなくてもいいことになり、研究室封鎖は当然ということになる。
要するに大学は反体制のためにあればいいのであれば、大学の封鎖が、一番いい反体制運動であるならば、それに反対する人間はすべて反動であることになる。反体制はいいが学問の範囲でやれなどという微温的な丸山学派は粉砕されてしまうわけである。
大学は反体制の砦になるべきであるという戦後の進歩派知識人の言が正しいとすると、全共闘運動の論理は否定できないことになる。それに反対するためには全共闘運動のしていることが現体制を変えていく上では一切役に立たないということを証明せねばならない。しかし自然科学の分野であればまだしも、社会科学や人文科学の分野においては、そういう証明をすることはできない。(マルクスは歴史の法則を発見したということになっているので、この辺りの議論がややこしくなるのだが。) とすれば情念の強いほうが勝つ。「やるっきゃない!」「問答無用!」「ナンセンス!」という、学問の世界からはもっとも遠い言葉が、大学を席捲していく。
そういう中で、養老氏がいくら「俺は本気で研究をする気だった」などといっても、ごまめの歯軋りである。「トガリネズミがどうこうという世界が革命の世界と何の関係があるんだ! ナンセンス!」である。
「籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から「生きてない」って表現が出る」それに反対しようとしたのが、全共闘運動だったのかもしれない。養老氏が、好きなことをやる、虫をとる、とがりねずみをいじる、ということはまさに反=ブロイラーの世界である。だから養老氏が、俺は全共闘か?というのもあながち外れてはいないのである。しかし、好きなことをやるためにとんでもない我慢もしなければいけないのが、日本の世間である。
小阪氏は、そんないやなことはしないねといって降りてしまい、降りたままで生きていこうとしている。しかし、そこには他人がいない。仕事というのは他人の必要に応えることである。小阪氏の世界では他人からの要請というものがない。ただ考えている。ある意味、昔の「象牙の塔」でもある。しかし他人がいないのだから、それはえらく現実離れしたものとなる。小阪氏の本を読んでいても、身に沁みないのである。
一方、養老氏は東京大学という世間の中で相当の時間生きた。だから養老氏の議論は現実との接点を持つ。少なくとも、わたくしには身に沁みる議論が多々ある。
山本義隆氏の「磁力と重力の発見」は「象牙の塔」の作品なのだと思う。在野の「象牙の塔」というのが山本氏の全共闘運動への回答なのだと思う。大学というものがなくても学問はできるということなのだと思う。物理学の世界にはモノがある。他人がいなくても成立する世界である。だからこそ山本氏の著作はなりたった。それは《研究はなにのためか》ということへの回答にはなっていないであろう。しかしその著作は誰にたのまれたのでもない自分が本気で好きだからこそ書いたものなのであろう。案外と中世の修道院の世界の産物かもしれない。
しかし、社会科学は「世間学」といいかえるべきだという養老説にしたがえば、「世間」からおりたひとの社会科学は空理空論となるほかないのである。空理空論が許される場所が「象牙の塔」であるにしても。
(この項、続く)
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